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ノート:熊野動乱

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2012-07-21 04:52:03 (UTC)付の編集について 他

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いくつかの編集を行いましたが趣旨について記しておきます。また提案についても併せて記します。

1つ目。直前の2012-07-21 03:58:00 (UTC)版まであった「治承・寿永の内乱初期における湛増の立場などを巡るこのような論争はまだ続きそうである。」という一文を同趣旨の一文にあらため、節の冒頭に置きなおしました。修正した観点は次の2つです。

  1. 「Wikipedia:言葉を濁さない」というガイドラインがあるだけでなく、一般的な文章技術の観点からも不必要にあいまいな表現は避けるべきであること。
  2. 「~そうである」という表現(判断)が方針文書(Wikipedia:独自研究は載せない)で否定されている個々の利用者の判断や意見と見なされる余地のあるものと考えたこと。その一方で、当該の節の焦点が、熊野動乱における湛増の立場なり動向なりをめぐって諸説があり、定説や有力な説とでもいうべきものがはっきり確立していないという状況の説明にあることは明確と考えられましたので、主観的な判断ではなく客観的な状況の説明であることが明確になる表現を選択しました。文章としての趣旨は変わっていないはずですので、ご了承いただきたく存じます。

2つ目。「参考文献」節のいくつかの記述の仕方を変更しました。ISBNを記載する場合「ISBN」の文字列とISBN番号の間に半角スペースを含めると特別:文献資料へのリンクに変換され、国会図書館等への該当資料へのリンクが生成されます。雑誌論文ですが、ISSNではなくNAIDへのリンクに差し替えました(おそらくその方が読者の文献探索に有益と思われます)。

3つ目。こちらは提案です。「熊野動乱と湛増の立場」の第2段落が一読しても非常に意味がとりにくい文章になっています。幾度か読んだ上で、より明解なかたちとして次のような形にあらためては如何かと考えました。

それに対して、『延慶本平家物語』に描かれた、冶承4年(1180年)4月終わり頃から5月初め頃にかけて起こった「熊野新宮合戦」に出てくる本宮勢の統率者「熊野別当覚応法眼」や大将の「田辺法橋覚悟」のように親平氏の立場から活動した本宮勢の指導者がいたとする、いくつかの史料が存在する。「法眼」や「覚悟」といった人物は、各種の「僧綱補任」や「熊野別当代々次第」諸本、「熊野別当系図」(那智山実報院道昭法印家本)といった史料で確認できないことから、架空の人物であったか、実在の人物の名前を間違って記した可能性があり、『覚一本平家物語』等を手がかりに実在の人物として湛増を比定する見解がだされている[1]。この見解に従えば、『覚一本平家物語』に見られるように以仁王源頼政らの挙兵前後の段階において、湛増は親平氏の立場から「熊野新宮合戦」で本宮勢の指導者として活動したことになる[2]
  1. ^ 阪本[2010: 44-46]。なお阪本によれば、『覚一本平家物語』は湛増を熊野別当と記しているが、当時まだ権別当の地位にあったと見られる。
  2. ^ 阪本[2010: 44-46]

既存の文章の論理を正しく読み取れている限り、趣旨は変わっていないはずです。ご検討ください。--ikedat76会話2012年7月21日 (土) 05:37 (UTC)[返信]

ikedat76さん、ご多忙の折にもかかわらず、貴重なご指摘とご提案をいただき、ありがとうございました。

1と2は、了解いたしました。丁寧にご教示いただき、感謝申し上げます。

次に3につきまして。一読しても非常に意味がとりにくい文章になっているので、より明解なかたちにしたらどうか、とのご指摘。おっしゃる通りだと思います。ただどうしたらよいかにつきましては、少し時間をいただけないでしょうか。申し訳ないのですが、ご提案の文章を参考にしつつ、当方が伝えたい内容が読者により的確に伝わるように、文章をさらに加工してみたいと思います。

貴重なご指摘とご提案、ありがとうございました。 「利用者-会話:118.11.85.136」でした。2012年7月21日(土)15時52分

よろしくお願いいたします。あと、トピックが変わっているわけでもないので、節を切らなくても大丈夫です。(今回は私の一存で取り払ってしまいます)--ikedat76会話2012年7月21日 (土) 10:29 (UTC)[返信]

ikedat76さんへ。「熊野動乱と湛増の立場」の編集に関連して

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ikedat76さん、今晩は。お元気でしょうか。他人の書いた文章の中身を理解し、その文章に修正を加えることの難しさを改めて実感しました。完璧なものを書き上げたという実感は、いつもの通りありません。でも、今はこれで一杯一杯です。いかがでしょうか。これで良ければ27日までに書き込んでいきたいと思います。

熊野動乱と湛増の立場

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治承・寿永の内乱初期における湛増の立場や動向を述べる説には諸説があり、今のところ一致を見ていない。

覚一本平家物語』や『源平盛衰記』では、湛増が本宮勢力を統率して反平氏方の新宮勢力や那智勢力を攻め、以仁王の令旨のことを平氏に報せたとされており、その記載の影響で湛増は治承・寿永の乱初期において親平氏であったと見られることが多い。しかし、『覚一本平家物語』などよりも成立年代が古いとされる『延慶本平家物語』では、以仁王の令旨のことを六波羅の平氏に報せた人物は湛増ではなく「熊野別当覚応法眼」(別名「オホエノ法眼」、「平家ノ祈師」)とされている[1]。その一方で、『玉葉』などに書かれているように、湛増の属する田辺別当家と新宮別当家との間、また田辺別当家内部でも湛増と弟湛覚との間において家督や主導権を巡る争いはあったものと見られているが、治承・寿永の乱初期の段階において、湛増が平氏方であったかどうかを断じることができないとする見解もある[2]

これに対して、『延慶本平家物語』に描かれた、冶承4年(1180年)4月終わり頃から5月初め頃にかけて起こった「熊野新宮合戦」に出てくる本宮勢の大将「田辺法橋覚悟」や以仁王令旨の注進者「熊野別当覚応法眼」について、「僧綱補任」や「熊野別当代々次第」諸本、「熊野別当系図」(那智山実報院道昭法印家本))などを検討した結果、彼等は架空の人物であったか、実在の人物の名前を間違って記した可能性があり、『覚一本平家物語』などを手掛かりに実在の人物として湛増の活躍を肯定する見解が出されている[3]。この見解に従えば、以仁王・源頼政らの挙兵前後の段階において、湛増は親平氏の立場から「熊野新宮合戦」で本宮勢の指導者として活動していたことになる[4]

脚注

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  1. ^ 源[2005: 516]は、『延慶本平家物語』「平家ノ使宮ノ御所ニ押寄事」の記載内容などをもとに、湛増が消極的親平氏派という立場を一貫させ、「熊野新宮合戦」においても主導的役割を果たしていなかった、と説いている。
  2. ^ 上杉[2007: 42]
  3. ^ 阪本[2010: 44-45]。
  4. ^ 阪本[2005: 288]。

「利用者・会話:118.11.85.136」 2012年7月24日(火)23時42分