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ノート:熊野三山本願所

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利用者:118.14.56.85さんより

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ここへ書いても良いのかわかりませんが、「前史」の部分を神社造営のみならず三山経営の立場から補強しました。本願の役割が神社や寺院の建物造営のみに限定されていないということであれば、視野を大きく取るべきでしょうね。なお、最近、那智山の参詣曼荼羅があくまでも社僧の立場からではなく、本願の立場から描かれているということを明らかにした大高さんの本が出されました。薄々ささやかれてきましたがこれで確定でしょう。参考までに。--利用者:118.14.56.85 2012年9月11日(火) 16:37

加筆ありがとうございます。差し支えなければ「大高さんの本」とはどの本か教えていただけるとありがたく思います。「前史」ですが、三山経営のなかでも本願所という局所に焦点を当てた記事の中で、さらに前提となる部分をあつかった節ですので、あまり仔細に踏み込みすぎてしまうと記事全体の方向性やバランスに影響してしまうかも知れません。むしろ、熊野三山に加筆するとか、新しく(例えば)熊野山領の荘園のような記事で本願所以前の三山経営についてまとめて扱うとか…そういうのも考えてみても良いかもしれませんね。--ikedat76会話2012年9月11日 (火) 15:04 (UTC)[返信]
大高さんの本とは、大高康正『参詣曼荼羅の研究』(岩田書院、2012年9月)です。最近刊行されました。参考になるかと思います。ところで、本願・勧進の研究をされている方々の本を読んでいると、何となく(たぶん私の偏見でしょう)参詣主体であった貴族や武士、さらには熊野三山経営に携わっていた在地の社僧(その代表としての熊野別当)や神官が関係した熊野三山の歴史(前史)を書かずにすませてしまう傾向が強いよう感じていました。そのため、後に三山経営の一部にあたる寺社造営を担うようになった本願が中世後期になってなぜ必要とされるようになったのがかわかりづらく、これを克服する方法を模索していました。その点、このウィキペディアの項目は前史つまり熊野三山の歴史母体になった中世後期以前の歴史にも配慮されているので、全体の流れが理解しやすいように工夫されていると思い、その立場を支援するためにさかんに書き込んでいる次第です。熊野三山史を本当に理解するには、熊野三山を形成してきた人々は必ずしも宗教関係者ばかりではないという当たり前のことに注意を払い、熊野研究といえば宗教研究という立場はそろそろ克服する必要があるのでは、と考え、取りあえず目の前の課題に取り組んでいる次第です。伊藤裕偉氏の『聖地熊野の舞台裏』(高志書院、2011年3月)は面白いですよ。。--利用者:118.14.56.85 2012年9月12日(水) 11:02
文献のご紹介ありがとうございます(『参詣曼荼羅の研究』面白そうですね)。
これは完全に私見ですが、利用者:118.14.56.85さんが「前史」と言っておられる部分、つまり有力者の寄進(造営料国や荘園など)によって三山の経済がまかなわれていた時期の歴史が言及されていない、というのは2つの側面があるのではないかと思っています。一つには確かな史料が乏しいせいで書けないという側面があるのでしょう(熊野三山のいわば世俗的な経営の部分が十分に研究されていないというのは、阪本敏行氏も言っておられることだったかと記憶しています)。もう一つには、本願・勧進に関する研究をされている方々(豊島・五来・鈴木昭英といった方々)は民俗学の色彩の強い方々で、土地制度史(荘園)に関する議論はそうした方々の専門性や関心の焦点とは外れたものだからところもあるのではないかと、そんなことを考えたことがあります。
加筆いただいたおかげで、中世後期から近世までの本願所による経営に関しての前史としては十分すぎるほどの内容になったかと思っています。ただ、中世半ばまでの造営料国や荘園による経営の歴史も、独立になるだけの重要性のある主題です。お詳しいようでしたら、新記事として書かれてみてはいかがですか? 記事があれば、という思いはあるのですが、以前にも申した通り歴史学は趣味の範囲でしか学んでおりませんので、なかなか理解が出来ていない主題なのです。まあ、お時間のあるときにでもお考えいただければありがたく存じます。--ikedat76会話2012年9月13日 (木) 14:09 (UTC)[返信]