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ノート:無調のバガテル

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誤訳?

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正しい訳名は『無調のバガテル』/『調のないバガテル』であって、『調性のないバガテル』というのは誤りだという前置きが、どういう根拠によるのか、いまいち明確ではないのではありませんか。「無調=調のないこと」であって、「無調=調性のないこと」ではない、ということでしょうか。だとすれば、どういう理由からなのでしょうか。いずれにしても、詳しい説明が欲しいものです。--間久部緑郎 2006年11月18日 (土) 13:10 (UTC)[返信]


1.発端
 ことのはじまりは、執筆者ヨクトさんが2006-07-31T01:29:04に追加された「調のないバガテルと呼ばれることもある。ただし調性のないバガテルというのは誤りである。」という文言です。これはおそらく、明示されてはいませんが、次のような意味で書かれたものでしょう――「調のないバガテル」と呼称されてはいるが、音楽学の領域で現在言われているところの「調性」がないわけではない。なぜなら、この曲はある旋法にもとづいてて書かれており、本文中にもあるように、それはメシアンによる移調の限られた旋法第二番とも一致するとも言われているから。

2.問題発生
 ヨクトさんによって付加されたこの文言は数人の執筆者から何度かマイナーな修正を施されてきました。しかし最大の方向転換は、 219.4.101.95さんによる2006-12-11T22:57:10 の次のような修正でした。 「調のないバガテル」と呼ばれることもある。ただし「調性のないバガテル」というのは誤訳であるため不適当であるとされる。「誤り」という語はここで初めて「誤訳」という表現に変わります。これが現在の版にまで受け継がれています。この「誤訳」という表現におそらく問題があります。間久部緑郎さんの疑問が出てくるのは、現在の文言では、これを「誤訳」と呼ぶ基準がはっきり示されていないからです。

3.解決策
 問題を整理し、確認します。
・音楽学でいうところの「調性」概念はもともと定義上の曖昧さを含むうえに、歴史的に見ても揺れ動いている。
・リストないし発見者によって命名された段階では『無調のバガテル Bagatelle sans tonalité』という名前がぴったりしていたとしても、その後「調性」概念のゆらぎのせいで、今ではこの曲の名称にある「無調」ということばが、必ずしもしっくりこなくなってきている。
・しかし、曲の名称としてはすでに『無調のバガテル Bagatelle sans tonalité』で通っており、それを変更することはもはやわれわれにはできない。

 したがって、解決策として、「誤訳」という表現を削除し、
タイトルには無調とあるものの、現在の音楽学の考え方では「この曲には調性がない」とは必ずしも言えない。  という一文を付け加えることを提案します。--S.H 2008年2月18日 (月) 01:32 (UTC)[返信]

S.H.さんの解決策には資料的根拠が必要だと思います。「誤訳である」という立場についても同じことですが。この曲の発見によって「調性」と「無調」を巡る議論になったはずで、どういう議論を経て「『調性がない』とは必ずしもいえない」と判断されるにいたったのか――。S.H.さんは、「現在の音楽学の考え方」では結論が出ているような書き方をしていますが、本当にそうなのか。
『新編世界大音楽全集 リスト ピアノ曲集II』(音楽之友社)にこの曲が収録されていますが、野本由紀夫氏の解説中に、たしか「新ウィーン楽派のような無調とは異なる」といった内容のことがあったはずです。--Sasuore 2008年7月9日 (水) 16:46 (UTC)[返信]
Sasuoreさん、ありがとうございます。
調性音楽の項には次のようにあります。「狭義には長調または短調によって体系付けられたいわゆる西洋音楽のみのことを指し、広義には何らかの中心音が存在する音組織に基づいた音楽のことをいう。」
また、調性音楽という概念の変遷につきましては、こう書かれています。「当初は、狭義の用法のみを調性音楽として旋法性は排除されていたが、現代では旋法も包括して調性音楽とする広義の用法も定着している。」 (確かに、歴史的にはとくに1950年代前後、前衛の作曲家たちのあいだに全面的音列主義が波及したころに、「無調」という概念の意義のほうが狭められています。彼らは3度音程すら「調性が感じられる」として音列から排除しようとしたほどです。)
したがって、『無調のバガテル』が、独自に生み出された旋法(メシアンの移調の限られた旋法第2と一致する旋法)で書かれている以上は、現代では、旋法性にもとづいて広義の「調性音楽」に組み込まれてしまいかねないことになります。
ただし、移調の限られた旋法の項には、こうもあります。「これらの旋法は、オクターヴ以外の最も単純な協和音程である完全5度の堆積(ピュタゴラス音階、ピタゴラス音律を参照)を基礎としている教会旋法や、長音階、短音階とは基本的な構成原理が異なっており、またその性質から中心音の調的支配力が存在しにくい(または存在しない)……」
すると、中心音はあってもその調的支配力は乏しい音組織にもとづく音楽は、「調性音楽」とそうでないもののどちらに属することになるのでしょうか。おそらくこの問いにはただちに答えが出せないでしょう。ゆえに私は、暫定的な解決策として、タイトルには無調とあるものの、現在の音楽学の考え方では「この曲には調性がない」とは必ずしも言えない。  という一文を付け加えることを提案しました。もしも「現在の音楽学の考え方」という表現に問題があるならば、「調性音楽」の項にリンクをはりつつ、広義でいわれる調性音楽に含まれないとは必ずしも言えない。とするのはどうでしょうか。これを採用しないとしても、いずれにせよ「誤訳」という表現は削除するべきだと思います。--S.H 2008年9月13日 (土) 01:49 (UTC)[返信]

すぐに、そして容易に「答えが出せない」からこそ、解決策を提示する前にやることがあるはず、というのが私の立場です。Wikipediaの基本に立ち返り、資料をもとに、この曲が調性と無調を巡る議論に与えた影響について素描することです。その結果、「Aはこう考え、一方Bはこう考える」といった書き方になりましょうが、それによって、S.Hさんが部分否定や二重否定で表現していることの中身を明らかにしてくれると思います。

役立ちそうな邦語論文を検索しました。

  • 佐野光司「調性概念の変質」『音楽芸術』1967年12月号
  • 吉田孝「調性概念に関する基礎的研究」『高知大学学術研究報告 社会科学』34号
  • 西村朗「作曲家リスト――調性離脱への試み」『音楽芸術』1986年4月号
  • 神良聰夫「楽曲に見る音楽理論 ヴァルトシュタインに於ける調性の拡大」『洗足論叢』18号
  • 冨浪貴志「調性音楽における無調的側面 : W・A・モーツァルトとF・リストの作品を例にした一考察」『美学論究』12号

私の近くの環境で全部読めるかどうかはこれから調べますが、能う限りのことはしたいと思います。--Sasuore 2008年9月13日 (土) 23:04 (UTC)[返信]

書き換え要請

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なお「メフィスト・ワルツ第4番」は別の曲として後に彼の手によって作曲されたが、構想上未完となった。一応曲は終止線のところまで書かれており、曲としては完成している(その後、何者かの手により補筆された)。

のところが意味不明です。わかりやすく書き換えて戴きたく思います。

どういうことかというと、 終止線のところまで書かれているのに、なぜ未完なのか? 終止線まで、小節線は引かれていたが、音符は書かれていなかった、という意味なのか?

構想上未完、という言葉の意味がわからない。

曲としては完成している、と言いながら、なぜ未完なのか?

その後、何者かの手により補筆された、のところについては、できれば、出典を挙げてほしいです。

以上、よろしくお願いいたします。

by Cts77777 2016.9.28.

wikipedia:署名#署名の方法に従い、署名は手書きではなく正しい方法で行って下さい。メフィストワルツ#メフィスト・ワルツ第4番 S.696をお読みになればどういうことかわかります。リンクを加えておきました。--Gruppetto会話2016年9月28日 (水) 14:26 (UTC)[返信]