ノート:演繹
200507
[編集]演繹の例としては「北極星の位置は一日中ほとんど変化しない」ことから、明日もまたそうだと結論することがあげられる。というのは、演繹として正しいのでしょうか?演繹と言うのは、普遍的なものをあげて、特殊を導くことなので、直感的にも少しおかしいと思うのですが・・・・。正しいなら正しいなりのコメントをいただければ・・・、と思います。少し違和感があるので・・・。--Keydaimon-会話 2005年7月21日 (木) 13:10 (UTC)
- 問題意識がどこにあるのかよくわかりませんが、その「」を解説では普遍的と捕らえて解説しており、Keydaimonさんは普遍的とは捕らえずに読み取っているということになると思います。さらに正確に言うと「(いかなる日でも)北極星の位置は一日中ほとんど変化しない」という意味で解説されているということになるのではないでしょうか?--132人目 2005年7月25日 (月) 04:12 (UTC)
200804
[編集]『数学は演繹法を用いて得られる事実のみを扱う学問である。』とありますが、これは統計学を数学として認めない記述に読めます。誤りではないでしょうか。特に統計学の応用としてよく用いられる、回帰分析、重回帰分析、数値化などは、この数学の定義では数学ではなくなってしまいます。つまりこの『数学は演繹法を用いて得られる事実のみを扱う学問である。』という記述は事実ではありませんから、削除すべきではないでしょうか。--Mitsugu 2008年4月18日 (金) 08:58 (UTC)
- 統計的手法を自然科学の研究で用いる事自体は数学でないのでそこのところは問題ないんじゃないか、というへりくつはおいておくことにして、たしかにちょっと過激で一面的な言い切りに見えますね。「数学や論理学では一定の仮定(公理)をもとにした演繹による論証が重視される。」というようなより妥当な言い回しにかえるのはどうでしょうか。--Makotoy 2008年4月18日 (金) 12:25 (UTC)
「一定の仮定(公理)をもとにした演繹による論証が重視される。」という下りですが、公理そのものは "経験則" ですから、どちらかというと帰納的です。例えば現実に高等学校の数学の授業では、演繹法も帰納法もどちらも教えられています。「演繹による論理が重視される」と書いてしまうと、数学の特定の一分野を数学の全てとしてとらえてしまう過ちを犯すことになるので、あまり賛同できません。実際に数学の世界では演繹的方法論と帰納的方法論を適宜使い分けたり、あるいは並用しているのが実状です。現在の数学の世界を正しく表現していると、考えることは不可能です。やはり私としては、この一文は削除するのが適切かと考えます。--Mitsugu 2008年4月18日 (金) 20:57 (UTC)
- 別に演繹的議論の前提とされるものが歴史的に(試行錯誤を経足りして)「経験則」として得られていようとも、その前提をもとにして行われる論証自体は演繹的でありうるわけで、一定の公理系が確立される過程で帰納的方法論が用いられたどうかは、数学の研究が理論の最終的な記述を演繹的なものにすることを指向するかどうかには関係のないことではありませんか?それに、(僕の理解している限りでは)統計数学や応用数学のうち無視できないほどに大きな部分が、何らかの抽象化された仮定(それが集合論などの記号論理学的な言葉で書かれていなかったとしても、とにかく現実世界の事象からはいったん切り離されて何らかの抽象がおこなわれた、ということです)をもとにして「数学的な」操作や議論を組み合わせて展開することで成り立っています。そもそも、(応用数学を含めて)数学という学問を自然科学から区別している要素の一つが演繹的な記述に対する指向性ではないでしょうか。日々の数学の研究で帰納的な方法論がよく用いられるということは確かにその通りだと思いますけれど、ものごとが「数学的な」結果として受け入れられるためには演繹的な議論による証明が与えられることが求められるのが普通です。英語版のen:Mathematicsの冒頭の段落の最後の分でもそのようなことが述べられていて、出典としてJames R. Newman編The World of Mathematics, (Dover, 2003) 中の Jourdain, Philip E. B., "The Nature of Mathematics" があげられています。もう少し時間をいただければ図書館で僕が自分で出典を探せると思います。--Makotoy 2008年4月19日 (土) 02:38 (UTC)
201804
[編集]この記事は現在「帰納」の反意語としての「演繹」いいかえれば一般的な命題から具体的な命題を推論することに注目して述べられていて、「演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す」「カントは、通常の意味とは異なった形で演繹という語を用いている。カントにおいて演繹とは概念の正当性の証明を意味する」等と証明や論理における「演繹」が例外であるかのように書いてあります。これは記事としてバランスが悪く、「演繹」という概念を理解するための百科事典の記事としてはミスリーディングなのではないかという懸念を感じております。数理論理学でも「演繹」という言葉は形式的証明の推論を示す広い意味で使われていた気がします。ちょっと調べてみたweb上の辞書的なものでも、もっと広い意味がうかがえるように感じました。https://dictionary.goo.ne.jp/jn/26019/meaning/m0u/ https://kotobank.jp/word/%E6%BC%94%E7%B9%B9-37947 https://kotobank.jp/word/%E6%BC%94%E7%B9%B9%E6%B3%95-178726 また、関連した懸念として、関連項目に「数学的帰納法(名前と違い、演繹である)」とありますが、「名前と違い」という部分はあやしいのではないかという気がします。数学的帰納法が演繹的推論であるということに異論はありませんが、同時に帰納的推論なのではないでしょうか。「名前と違う」というのは数学的帰納法でないという意味になりますが、それは事実でなく、また独自研究の部類ではないでしょうか。これも最初の懸念も帰納と演繹が背反するものという暗黙の前提が影響しているような気がしています。私の理解では演繹と帰納は反意語ではあるものの必ずしも背反するものではありません。 この問題は、既に書かれているように参考文献や出典が足りていないことから来るものなのではないかと推測しています。 いま調査や編集するための充分な時間がとれないため、ノートに書かせていただきました。できれば自力で何とかしたいですが、お時間ある方がいらっしゃったらぜひ出典を伴った加筆修正をお願いしたいです。 --Acevif(会話) 2018年4月20日 (金) 02:31 (UTC)