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ノート:浅野長矩/削除

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記事名について何ですが、内匠頭は官名であるからにしてWikipedia:記事名の付け方#人名に沿うと浅野長矩の方が妥当だと思われるのですが、どうでしょ?かしこ。来 孫太郎ノート-履歴 07:09 2004年4月10日 (UTC)


そうですね。当初、祖父の長直と同じ官名であることから、長直の行跡を長矩のものとして書いた史料などについても書くつもりでした。利用者:百楽天


浅野長矩年譜

[編集]
和 暦 西 暦 ことがら リンク
寛文7年

8月11日

1667年 又一郎(浅野長矩幼名)が江戸屋敷で生まれる 吉良上野介はその時27歳
寛文8年

3月26日

1668年 浅野内匠頭長直(内匠頭の祖父)が勅使御馳走を命ぜられる
延宝3年

1月26日

1675年 又一郎の父、浅野采女正長友(33歳)が江戸にて没す 泉岳寺で火葬
延宝3年

3月25日

1675年 又一郎、父長友の遺領相続を仰付られる このとき9歳

赤穂110ヵ村、加西33ヵ村、加東14ヵ村、佐用5ヵ村の四郡
162カ村5万397石6斗5升4合

延宝3年

4月7日

1675年 又一浪、初めて4代将軍徳川家綱に御目見得する
延宝3年

4月23日

1675年 又一郎、三次浅野家初代長治の娘、阿久利との縁組を公儀に願い出る
延宝5年

9月21日

1677年 又一郎(11歳)と阿久利(4歳)の婚約が成立

翌年4月9日、阿久利は備中三次から赤穂浅野家江戸屋敷へ引っ越す

延宝8年

5月8日

1980年 又一郎の母方の叔父、内藤和泉守忠勝による芝増上寺の刃傷事件
延宝8年

8月21日

1980年 又市郎、内匠頭と改める。(以降長矩と記す)
天和2年

12月28日

1683年 天和の大火(お七火事)
天和3年

正月11日

1683年 午刻、長矩と阿久利姫の婚姻 註1
天和3年

2月6日

1683年 長矩、勅使花山院前大納言・千種前大納言の御馳走人を命ぜられる 註1
天和3年

3/21-30

1683年 長矩、大石頼母助の補佐と上野介の指南で御馳走人の御役を果たす 註1
天和3年

6月23日

1683年 長矩、初の帰国
元禄3年 1690年 『土芥寇讎記』でる
元禄6年

12月22日

備中松山城主、水谷出羽守勝美(31歳)急死

嗣子なく御家断絶・城地没収 長矩、備中松山城を請取りを命ぜられる

元禄7年

2月23日

1694年 長矩、備中松山城を請取る
元禄7年

6月22日

1694年 長矩、弟の大学長広(25歳)に新田3千石を与え、仮養子とする
元禄8年

12月

1695年 長矩、疱瘡を患い危篤。弟の大学(26歳)を正式に養子とする
元禄9年

2月

1696年 備後三次の浅野長澄、御馳走人を命ぜられる
元禄13年

11月14日

1700年 浅野長広(31歳)、は土方杢之助の娘と結婚
元禄14年 1701年 『諫懲後正』でる
元禄14年
2月4日 1701年 長矩登城し、老中列座にて勅使御馳走御用を命ぜられる
元禄14年

3月14日

1701年

4月21日

江戸城内、松之大廊下にて、吉良義央に刃傷。同日切腹賜る

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