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ノート:浅井久政

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後世の再評価の部分について

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自分も久政は不当な評価を受けている人物の1人と思っているので内容について同意する部分は多々あるのですが、現在のところ出典が1つも書かれていません。このままでは独自研究の域を出ませんので、参考として資料などがわかる方がいましたら補記をお願いしたいです。--ポテンシャル0 2010年6月16日 (水) 20:49 (UTC) 長政への家督移譲の再評価の部分は誇張評価に値すると思います。削除いたしましょう。このままでは独自の研究のままですね。[返信]

滅亡の遠因について

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「しかし、この久政と長政との曖昧な関係が結果的には浅井家滅亡の遠因となってしまう」以下の文について問題点を挙げたいのですが、これは織田家に敵対する原因ではありますが、滅亡の遠因とまで言えるかはわからないところだと思います。言えるとしたら、それは結果論であって、これを遠因とハッキリ言うのはおかしいのではないでしょうか?--Historical rox 2011年8月3日 (水) 01:01 (UTC)[返信]

生年について

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現状出典がないまま大永6年(1526年)の生まれとなっています。『寛政重修諸家譜[1]』では天正元年(1573年)8月29日に年62で自殺とあるので、逆算すると1512年の生まれとなります。必ずしも『寛政重修諸家譜』の記述を採用しなければならない訳ではありませんが、少なくとも出典の定かではない記述よりは信頼できるかと思います。

この記述は最初に記事が作成された2004年6月23日 (水) 02:50の版から継承されているものとみられます。約20年間放置されていたものなので、記事中に示されていないだけで信頼できる出典がある可能性も考慮し、とりあえず大永6年(1526年)の記述がどこに由来するのかご存知の方がいらっしゃるのか伺いたく存じます。--こやまひろ会話2024年4月9日 (火) 15:09 (UTC)[返信]

滋賀県立図書館近江デジタル歴史街道で『浅井氏年譜』『浅井家譜』[2]を確認できたのですが、浅井久政の生年は永正9年(1512年)と大永5年(1525年)の併記で、享年も49歳と62歳の併記です。いずれにしても大永6年(1526年)とは一致しません。
なお死亡日も『浅井家過去帳』で天正元年8月28日、『寛政重修諸家譜』で天正元年8月29日とあるのを確認できましたが、記事中の天正元年8月27日が何に由来するのかも合わせてご存知の方がいればご教授ください。 --こやまひろ会話2024年4月9日 (火) 15:56 (UTC)[返信]
『浅井三代記』では「・・・新九郎十八歳なりしか于時亨禄二(註:1529年)己丑歳に新九郎を下野守久政と名をあらため・・・」とあるため永正9年説をとっているようです。
ウィキソースには、浅井三代記/第九の原文があります。 -- こやまひろ会話2024年4月10日 (水) 04:22 (UTC)[返信]