ノート:津軽為信
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冒頭の部分について
[編集]冒頭の以下の部分が気になります。 「実際、南部家の所属だった際にも農民を強姦し、謹慎処分になっている」 この部分は、どのような資料をもとに執筆されたのでしょうか? 駄言 2006年3月22日 (水) 14:26 (UTC)
女風雲録 みちのく戦国時代の女性の生きざまって本に載ってるって誰かさんがほざいてたよ。 この本にどれだけ信憑性があるか怪しいもんだが。
そうですね。領主が領民の娘に「手をつける」のはありがちな話ではありますが、だからといって、これをすべて百科事典にとりあげるのはいかがなものかと思います。その事実が確かな資料から明確にわかる場合ならともかく、上記の資料だけでは裏付けが足りません。駄言 2006年4月15日 (土) 23:39 (UTC)
しかしあの人に「わざわざ書くべきことか」「裏づけの不足」そんな事を言っても無駄だろうな。ちょっと頭がおかしい感じだし。
『女風雲録 みちのく戦国時代の女性の生きざま』
[編集]218.218.153.38さんへ さすがに中傷ともとれる発言は控えられた方がよいかとおもいます。 『女風雲録 みちのく戦国時代の女性の生きざま』は図書館で借りてざっとよみました。基本的に、私がかつて心配したような内容ではなく、教壇にも立たれたことのある郷土史家の方の著書でした。一応、巻末に参考文献リストがあり、信用できる資料の名が並んでいました。 ただし、為信が謹慎処分を受けた旨の内容は未だみつかりません。第何章(できれば、何頁)に掲載されていたかご存じの方がいらっしゃればご教示を願いたいと思います。駄言 2006年4月18日 (火) 04:12 (UTC)
駄言様へ 謹慎処分を受けたについてはこちらの間違いでの書き込みです。失礼いたしました。。利用者:津軽為久 2006年4月18日 (火) 20:41 (UTC)
津軽為久 様 上記のお言葉を頂いたので、「津軽為信」の本文から彼の謹慎に関する記述を取り除いたのですが、またあなたの手で復活されました。なぜでしょう?駄言 2006年4月19日 (水) 23:30 (UTC)
駄言様 修正いたしました。利用者:津軽為久 2006年4月20日 (木) 12:37 (UTC)
津軽為久 様 ご修正頂き、ありがとうございます。よろしければ、為信による強姦についても、同様に削除して頂ければと思います。駄言 2006年4月20日 (木) 13:40 (UTC)
津軽為久 様 上記の件について、勝手ながら当方が対処させて頂きました。 なお、敵将の娘云々の一節に関しましては、貴殿により正確な典拠が示された後に復活させたいと思います。ただし当該記述の位置は、「その他」の項目としたいと思います。 駄言 2006年4月27日 (木) 03:18 (UTC)
自分も診てもらいたかったから云々について
[編集]出典はどこからなのでしょうか。また、わざわざその部分だけ太字にする意図が判りかねます。とりあえず、太字は直させていただきます。 2007年1月31日 (水) 06:32 (UTC)~
「自分の知らないこと」に要出典を付ける愚行については、どう思いますか?--121.115.92.2 2013年4月21日 (日) 22:24 (UTC)
没後・逸話について
[編集]122.31.25.160さんが記述された「出羽の大宝寺義氏と同盟を結び、中央の情報収集に努めていたという。」との文の大宝寺義氏とは出羽の最上義光の間違いでないでしょうか?実際、中央の情報を送ったのは最上義光とする資料しか見たことありませんし、大宝寺義氏はあくまでも安東領への侵攻を依頼しただけでないのでしょうか?--Eikiti 2009年2月2日 (月) 12:48 (UTC)
藤代御前のエピソードについて
[編集]津軽為信が家臣の妻女(藤代御前)に横恋慕し、それが叶わぬとその家臣を謀殺し彼女を手に入れようとしたが拒絶され、その腹いせに同家を誅伐したエピソードが記されていません。このエピソードについては革秀寺および英語版Fujishiro Gozenには掲載されています。どなたか為信について詳しい方、加筆のご検討をお願いします。お怒りヘンリー8世(会話) 2023年4月18日 (火) 08:59 (UTC)