ノート:津田梅子
この記事は2007年8月20日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、特定版削除となりました。 |
生年月日について
[編集]「元治元年12月8日(1864年12月31日)」について、 「元治元年12月8日」をグレゴリオ暦に変換すると「1865年1月5日」、ユリウス暦に変換すると「1864年12月24日」になると思います。 「1864年12月31日」をグレゴリオ暦として旧暦に変換すると「元治元年12月3日」になると思います。 どちらの表記が正しいのでしょうか? それとも私の変換が間違ってるだけでしょうか? --aki4 2008年12月30日 (火) 12:57 (UTC) 津田梅子は1929年に死んだ
本名
[編集]「明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした」とありますが、この点に疑問があります。官報の記事を見ると、叙従六位の時(1900年1月22日)、叙正七位の時(1897年10月1日)、叙従七位の時(1893年5月22日)、叙正八位の時(1887年4月1日)まで遡っても「津田梅子」という表記になっています。官報に掲載されるのは戸籍上の本名のはずですから、明治20年(1887年)の段階ですでに戸籍名が「梅子」だったのではないでしょうか。--C2BK(会話) 2022年3月9日 (水) 06:01 (UTC)
- 報告 C2BKさんのご指摘について、1か月経過しても議論が進展していませんが、
- (1)WP:Vを満たす二次資料に「戸籍名は『津田梅』であったが、明治35年に分籍した際に『津田梅子』に改めた」という旨が記載されており、「WP:V#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」」に照らせば、そのように記載できる、
- (2)WP:Vを満たす二次資料で言及されている訳ではない、官報(一次資料に該当すると思料します。また「官報に掲載されるのは戸籍上の本名のはず」というご指摘の当否は不明です)の表記を出典にするのは、WP:NORに抵触する恐れがあると思料できる、
- と思料し、
- (A)本文の記述は「戸籍名は『津田梅』であったが、明治35年に分籍した際に『津田梅子』に改めた」という旨の記述(出典は二次資料)とする、
- (B)C2BKさんが指摘なさった「明治20年4月1日付の官報に『津田梅子』と記載されている」ことについては、一次資料を出典とした記述であると思料されるので、本文ではなく注釈で言及する、
- という形に整理し、要検証タグを除去しました(差分)。--Pooh456(会話) 2022年4月17日 (日) 08:16 (UTC)
叙述スタイルについて
[編集]素人の個人的意見ですが、伝記物語ではないので、事典においては客観的事実(行為・活動)を記述するべきで、手紙や日記を引用(最小限)するならともかく、歴史上の人物達の意志・心情を類推した記述(引用)は避けた方がいいと思います。あくまでも、伝記作家・研究者の主観的視角から類推・想像・判断されたものですから。
また、情報を詰め込もうとし過ぎだと思います。余白があってしかるべきではないでしょうか。事実間の因果の解釈・追究は読み手の自由です。特定の作者・研究者の解釈を本文で引用する必要はないと思います。どうしても必要不可欠ならば別ですが、その当否は読者次第ということなのでしょう。
以下、例として、違和感を感じる部分をアトランダムに列挙します。
「山川捨松と永井繁子」の節は不可欠でしょうか?
「幼少からのアメリカ生活で、梅子は日本語を完全に忘れていた[35]。留学時に梅子より年長であった捨松と繁子は、比較的早期に日本語を取り戻したが、梅子は日本語の習得に苦しんだ[36][37]。生涯を通じて、梅子の話す日本語は外国人風の発音であった[38]。梅子の母語(思考の言語手段)は、生涯を通じて英語であった[38]。捨松の娘の証言によると、捨松・繁子・梅子の3人同士の会話は常に英語であった[32]。 」 →文章が冗長です。5つの文章はすべて客観的事実として書かれているのでしょうか、又は伝聞?
「同年11月3日、外務卿・井上馨の邸で開かれた天長節祝賀パーティーに出席した梅子は、伊藤博文[注 7]と岩倉使節団以来の再会を果たした[52]。伊藤は、梅子に対して好意的であった。」 →「再会を果たした」は文学的です。「好意的であった」かどうか本心は誰にも分かりません(以下同)。
「梅子は伊藤の配慮に感激した」 →本当に「感激」?
「伊藤は「ガヴァネス(客分たる家庭教師)として、私の家に住まないか。親御さんと相談して決めて欲しい」と梅子に提案した」 →事典での説明台詞の使用には多分に違和感があります。
「伊藤家の家庭教師 兼 通訳として生き生きと働き」 →本当に「生き生き」?
「梅子の言うことを真剣に聞いて討論した」 →本当に「真剣に」?
「梅子は、伊藤が自分に様々な便宜を図ってくれたこと、政府高官である伊藤が20歳の小娘に過ぎない自分を対等の存在として扱ってくれたことを深く徳とし」 →本当にそう考えていた?--教育史探究(会話) 2022年5月15日 (日) 08:08 (UTC)
- 全てについてコメントすることができませんが、違和感を感じる点として挙げられている二点目の「梅子の母語」に関する箇所の記述は、出典が明記されているので、その記述の客観性に疑問を持った場合は、教育史探求さんが実際に、出典として示されている文献の資料としての客観性や具体的な記述の客観性を確認して、その上で資料としての問題もしくはWikipedia上の記述の問題点を把握して指摘するという方法が必要ではないかと思います。
- 他の部分については、出典が明記されているのか私は確認できていませんが、もし出典が示されているのであれば、それぞれの文献を確認して問題点があれば指摘する必要があります。
- なお、一点気になったのは、一段落目で「伝記作家・研究者の主観的視角」という言葉を使われていますが、ここでの「研究者」が「大学など研究機関に所属して学術的な基準を満たした研究・執筆・出版をおこなっているような者」(これはWikipedia一般の定義ではなく私の個人的な定義です。)を指すのであれば、「伝記作家」と同じレベルで「主観的」と述べるのは適切ではないと思います。
- もう読まれているかもしれませんが、ご自身でWikipedia:信頼できる情報源などの項目を読まれるとよりWikipediaの一般的な議論を知ることができるかもしれません。--Dassaim(会話) 2022年5月15日 (日) 09:31 (UTC)
- コメントいただき有り難うございます。ご指摘の通りだと思います。
- ただ、当方が単純に指摘したかったのは、客観的事実かどうか、出典が適切かということではなく、新聞のベタ記事のように余分な修飾・表現を排した文章にした方がいいのではということです。そして、知りうる情報を詰め込むのではなく、書かない勇気も必要かと。
- なお、「研究者」についてもご指摘の通りだと思いますが、大学や研究機関所属の研究者は厳密に「学術的な基準を満たした研究」論文以外にも執筆・出版している場合があるので並列しました。--教育史探究(会話) 2022年5月15日 (日) 11:06 (UTC)
- 私も修飾や心理描写の部分で違和感を感じますので、基本的には同意します。
- 「エピソード」の節などを独立して設けるという改稿もあるかもしれませんね。
- 記述の詳細な方法というのは執筆者各自に任されているので、教育史探求さんのおっしゃる「客観的事実」の即した記述に改稿するのは自由だと思いますし、とくにその該当箇所に思い入れのある執筆者以外からは反対も出ないのではないかと思います。--Dassaim(会話) 2022年5月16日 (月) 01:34 (UTC)
黒田清隆の建議について
[編集]「米国ヘ女生徒差遣ノ件」を出典として示している部分についてですが、(1)このままでは文語調のために何を主張した文なのかわからない可能性がある、(2)1次資料のみで2次資料の参照が不十分(WP:PSTS)、という問題があると思いますので、もし可能であれば出典の追加や記述の修正などをよろしくお願いします。 Dassaim(会話) 2022年5月28日 (土) 02:47 (UTC)
- 「要出典」を示される前の「同年10月、開拓次官黒田清隆が開拓事業の人材育成としてその必要性を説いて急遽実現させた官費(開拓使予算)による女子留学生派遣の募集に、仙は梅子を応募。結果、最年少の梅子(満6歳)を含む女子5名が推挙され、正院にて承認された」には、すでに井上論文を出典として示しておりました。
- 現在の文面・文意も井上論文からの引用ですので、恐れ入りますが、しかるべく修正・削除したいただければ幸いです。--教育史探究(会話) 2022年5月30日 (月) 21:48 (UTC)
- 追記)井上論文で引用された伺書(元は手書き)の文面を分かりやすく要約したものが、下記資料に掲載されております。原文よりこちらを引用する論文が多いようです。「官費(開拓使予算)」についてのみ出典を求めるならば、こちらの方が明確だと思います(幼年ノ女子ヲ撰ミ欧米ノ間ニ留学セシメ其学資ハ当使定額中ヨリ之ヲ措弁スヘシ)。
- 大蔵省編『開拓使事業報告第4編』1885年11月、662-663頁(国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能)
- (明治四年)○十月又上書ス其略左ノ如シ
- 夫レ開拓ノ要ハ山川ノ形勢ヲ審ニシ道路ヲ通シ土地ノ美悪ヲ察シテ牧畜栽培ヲ盛ニシ以テ生ヲ厚シ俗ヲ美ニスルニ在リ然而テ之ヲ為スハ人才ヲ得ルニ因ル人才ヲ得ルハ教育ニ在リ今ヤ欧米諸国能ク子弟ヲ教育シ児子未タ襁褓ヲ免レスシテ能ク菽麦ヲ弁ス是他ナシ其母固ヨリ学術アリテ幼稚ノ時ヨリ能ク其ノ教育ノ道ヲ尽スニ由ルナリ然ハ則チ女黌ヲ設ケ女学ヲ興スハ人才教育ノ根本ニシテ一日モ忽ニス可ラサルナリ他日果シテ此黌ヲ設ケ人才教育ノ基ヲ立ルハ今ヨリ幼年ノ女子ヲ撰ミ欧米ノ間ニ留学セシメ其学資ハ当使定額中ヨリ之ヲ措弁スヘシ--教育史探究(会話) 2022年5月31日 (火) 11:24 (UTC)
年月日の表記について
[編集]wikipedia:表記ガイド#年月日・時間に記載があるように、Wikipedia全体の方針としては、年月日の表記には基本的に西暦を用いて、必要に応じて和暦も併記するのが望ましいとされています。 今後、追記修正していく際に参考にしていただければと思います。--Dassaim(会話) 2022年10月25日 (火) 09:35 (UTC)
- 報告 「Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間」に沿って、「西暦(和暦)」表記に変更しました(差分)。--Pooh456(会話) 2022年10月26日 (水) 04:21 (UTC)