ノート:津田仙
家臣小島良親(善右衛門)4男に生まれる。 →3男ですので訂正します(岩之進、平助、仙)--Tsudamichio 2011年1月24日 (月) 05:45 (UTC)
仙の洗礼について「初めて」を削除しました。
メソジスト派としては二人目になる。日本人最初の洗礼は中村正直(ただし公表しなかった)。
出典;津田評伝、高崎宗司、2008,P107)--Tsudamichio 2011年2月19日 (土) 07:08 (UTC)
農学社農学校について
[編集]122.27.3.141 さんは, 2009年12月2日 (水) 15:59(日本標準時)に, >このとき福澤諭吉に学問を説かれ、『農学社農学校』を創立し、「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」と位置づけた。<を,
また2009年12月2日 (水) 16:00(日本標準時)には >農学社農学校創立者。<を加筆されました。
Googleで「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」を検索すると,
GoogleBooksで内堀鼎著『裸の王様日本書紀: 日本史の教科書は嘘八百』文芸社,2001
が見つかりました。今回の加筆とほぼ同じことが書かれていました。
少しばかり疑問が生じましたので,122.27.3.141 さんにお答え願えないでしょうか。
(1-1)「農学社農学校」というのを創立した,という根拠を教えてください。 本項目の記事に「76年には東京麻布に学農社を設立、農学校も併設した。」とあるとおり,津田仙は, 農産物の栽培・販売・輸入などを事業とする学農社を設立し、その一環として農学校も併設した,ということは私も知っていました。 しかし「農学社農学校」というのは,これまで知りませんでした。 以下の辞典・事典にも「学農社」と載っています。私が持っている『世界大百科事典』平凡社,ネット上のジャパンナレッジでひける『日本人名大辞典』講談社,『日本国語大辞典』小学館,『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館,『Encyclopedia of Japan』講談社(英英辞典ですがGakunōshaと載っています) また本項目に載っている参考書, 高崎宗司『津田仙評伝』草風館 ISBN 4883231801 と 都田豊三郎『津田仙―明治の基督者』大空社 ISBN 4756809227 では「学農社」と書かれています。 そこで,これまで言われていた「学農社」ではなく,「農学社」と変更しなければならない根拠を教えてください。内堀鼎著『裸の王様日本書紀: 日本史の教科書は嘘八百』にも明記されていませんでした。
(1-2)引用された「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」は,津田仙の書いた多数の本のうち,どこに書かれているのでしょう。出典を教えてください。内堀鼎著『裸の王様日本書紀: 日本史の教科書は嘘八百』にも引用元が明記されていませんでした。
(1-3)(1-1)の質問について納得の出来る回答が出来ないなら, 2009年12月2日 (水) 16:00(日本標準時)については, >学農社創立者。<に変更されることを要求します。
(1-4)2009年12月2日 (水) 15:59(日本標準時)版については, 私が掲げた(1)(2)の疑問が解決されたとしても,津田仙が本を書いたり農学校の設立したりするのは,小野使節団よりもずっと後のことですから,ここ(122.27.3.141 さんが追加された場所)に書くのはおかしいですから,執筆される場所を変更されるべきでしょう。
--Omitugi 2009年12月15日 (火) 05:38 (UTC) --Omitugi 2009年12月15日 (火) 06:59 (UTC)訂正・整理しました。
- 裸の王様日本書紀:日本史の教科書は嘘八百 著者:内堀鼎 ISBN 4835512928。
- 裸の王様日本書紀:日本史の教科書は嘘八百 著者:内堀鼎 ISBN 4835512928。
日本の英語辞書と編纂者 著者: 早川勇 ISBN 978-4861100642 より引用いたしました。『学農社』では無く、正式名称は『農学社農学校』です。--122.27.3.141 2009年12月16日 (水) 15:17 (UTC)
- Omitugiです。122.27.3.141 さん,回答ありがとう。でもまだ腑に落ちない。納得できない。
(2-1) 「引用いたしました」,とお書きになりましたが, GoogleBooksで『日本の英語辞書と編纂者』早川勇 春風社を表示し,「福沢諭吉に」,「農者」,「公家」などを検索してもヒットしませんでした。 「農学社農学校」は,305 ページの元良勇次郎の9行目にありますね。 でもこの箇所も,122.27.3.141 さんの書いた「このとき福澤諭吉に学問を説かれ、『農学社農学校』を創立し、「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」と位置づけた。」という文の引用元ではありません。 引用したのなら「Wikipedia:引用のガイドライン」や項目「引用」に書いてあるルールに従って引用元を正確に示してください。
(2-2) 「正式名称は『農学社農学校』です」とおっしゃる根拠は『日本の英語辞書と編纂者』に書かれているのですか。私がGoogleBooksで読んだ限りでは,この本には「正式名称は『農学社農学校』です」という主張の根拠など見つかりませんでした。もちろんGoogleBooksでは全部は読めません。ですから教えてください。
なお,『日本の英語辞書と編纂者』をGoogleBooksで表示し,274 ページの「津田仙」を読んでください。14行目から15行目にかけて「学農社農学校を設立した」と書かれています。あれ,早川先生間違えたのかな。
それに,前回の質問(2009年12月15日 (火) 15:59 (JST))の(2),(4)にもお答えください。
--Omitugi 2009年12月17日 (木) 05:40 (UTC)
--Omitugi 2009年12月19日 (土) 04:08 (UTC)過去の質問項目の番号を整理しました。
- 「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」は内堀鼎の著書P73より引用です。
『農学社農学校』は元良勇次郎という造士館出身の人物も入門しています。まあ、私としては『学農社』でも『農学社農学校』でもどちらでも良いと思いますが、『学農社』は略語なのでは?書いてある著書を挙げてみて下さい。--122.27.3.141 2009年12月17日 (木) 09:24 (UTC)
- 122.27.3.141 さんへ。Omitugiです。
(3-1)まず,『農学社農学校』について。 「『学農社』でも『農学社農学校』でもどちらでも良いと思います」とありますので,変更いたします。
(3-2)「『学農社』は略語なのでは?」に対するお答え。 『学農社』は何も省略などしていない名称です。
(3-3)「書いてある著書を挙げてみて下さい。」に対するお答え。 私は,2009年12月15日 (火)の(1-1)に参考書2冊と事典・辞典5冊の本に『学農社』という語が使われていることを示しました。その後『マイペディア』平凡社,金文吉『津田仙と朝鮮―朝鮮キリスト教受容と新農業政策』世界思想社でも『学農社』が使われていることを確認しています。 まだ不十分なのでしょうか。
また『東京の理科系大学』都史紀要11,東京都公文書館に「学農社の開業願など」という節があることを知りましたが,いまだ読んで確認していません。
(3-4)「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」の引用元について。 確かに内堀鼎著『裸の王様日本書紀: 日本史の教科書は嘘八百』73ページには「津田は「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」と言い」と書いてありますが,引用元は明記されていません。このことは,2009年12月15日 (火)の(1-2)にも書きました。 あなたは内堀鼎著『裸の王様日本書紀: 日本史の教科書は嘘八百』からの引用とおっしゃるかもしれませんが,内堀鼎自身の発言ではなく,津田仙の発言なのですから,正しい引用とはいえません。津田仙の書いた書物とその掲載箇所が判明するまで「孫引き」も差し控えるのが妥当だ,と考えます。
(3-5) 2009年12月2日 (水) 15:59(日本標準時)に122.27.3.141 さんの書いた文のうちに「このとき福澤諭吉に学問を説かれ」とありますが,「このとき」は疑問だと考えます。 122.27.3.141 さんの記述は「小野使節団に随行したとき」に福沢諭吉と津田仙(尺も含めて)が初めて話をしたように読めます。 でも,この3人はは,小野使節団より数年前から同僚だったはずです。 3人の行動や性格を考えると,ずっと前から学問の重要性の話はしていたはずです。 ですから, 2009年12月15日 (火)の(1-4)に書いた理由も考慮して,「このとき福澤諭吉に学問を説かれ、『農学社農学校』を創立し、「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」と位置づけた。」は,この場所(122.27.3.141 さんの書いた場所)から消したい,と思います。
--Omitugi 2009年12月19日 (土) 05:15 (UTC)
- 学農社変更了解しました。学農社創立は使節団のすぐ後だったので文脈的には正しいのでは?--122.27.3.141 2009年12月19日 (土) 07:52 (UTC)
- 122.27.3.141 さんへ。Omitugiです。
(4-1) 小野使節団の派遣は,慶応2年(1867)です。また,学農社の発足は,明治9年(1876)。この9年を「すぐ後だった」とは思えません。
また,先の(3-5)の続きになりますが,幕府外国方に出仕したのは,福沢諭吉は元治元年(1864)。対して津田仙は文久元年(1861)です。 つまり,福沢が後から入ってきたのですが,小野使節団まで2年半から3年,同じ職場にいたのです。3年というのは,「このとき福澤諭吉に学問を説かれ、『農学社農学校』を創立し、「農者は公家、士族の上に位置すべきものなり」と位置づけた。」の「このとき」と表現するには長すぎます。
(4-2) なぜ一度に全部の質問にお答えいただけないのでしょうか。
--Omitugi 2009年12月19日 (土) 09:24 (UTC)
- 報告 IP:122.27.3.141(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんは、利用者:Ajax009(会話 / 投稿記録 / 記録)さんの偽装を企図したソックパペットと指摘されています。詳細はWikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Ajax009をご参照ください。--Nnkrkrhhdi 2010年3月28日 (日) 08:05 (UTC)