ノート:洛中洛外図
展示状況
[編集]- また、2020年10月~11月、東博の特別展「桃山」[3]で、歴博甲本、上杉本、舟木本、勝興寺本を展示。他に江戸初期の洛中洛外図1点(右隻のみ現存、最大の洛中洛外図、個人蔵。たぶん本文にあるNo.005)を展示。展示作品リスト[4](pdf)
- 米沢市上杉博物館での展示 [5]
- ふだんは上杉本のレプリカを展示。実物は春と秋に3週間程度展示。
- 2003年の特別展で歴博甲・乙、勝興寺本などと共に展示。2011年10月の10周年記念展「洛中洛外図屏風に描かれた世界」で舟木本、東博模本、池田本などと共に展示。[6]
- 国立歴史民俗博物館[7]
- 歴博甲本はふだんはレプリカを展示。年1回秋に実物を展示していた(2013年以降なし?[8])。
- (京都府京都文化博物館に歴博甲本のレプリカあり)
- 「江戸図屏風」…2005年、2007年に展示。
- (江戸東京博物館に江戸図屏風のレプリカあり)
- 東博模本…展示予定は不明(2012年に歴博で展示、2011年10月米沢で展示)
- 舟木本…2005年12月6日-2006年1月15日、2010年1月に展示。(2011年10月米沢で展示)
- 勝興寺(富山県高岡市)
- 勝興寺本は通常非公開。
- 2005年10月4日-11月6日の本堂落慶記念で展示。2007年秋にはレプリカを展示。[12]
- (2015年4月-5月、京都国立博物館の「狩野派展」でも展示)
- 林原美術館での池田本の展示予定は不明。
- 特別展…2004年9月に池田本はじめ17点を集めた展示会が開催。2012年、舟木本などとともに展示。
- (2011年10月米沢でも展示)
2006年1月5日 (木) 12:38 (UTC) 一部訂正 2007年10月6日 (土) 17:40 (UTC) 2008年4月9日 (水) 16:27 一部訂正 2013年6月4日 (火) 15:44 (UTC) 2013年7月10日 (水) 12:03 (UTC) 2013年10月13日 (日) 05:53 (UTC) 2013年10月15日 (火) 15:23 (UTC)(訂正)、2015年5月9日 (土) 16:20 (UTC) 2020年11月8日 (日) 02:09 (UTC) --忠太(会話) 2020年11月24日 (火) 12:36 (UTC)
上杉本の年代に関する疑問
[編集]2006年2月15日 (水) 01:31 水野白楓さんの要約欄
- 「上杉本が信長→謙信の贈り物説は近年では少数派(内容そのものが細川・三好政権期の京都で信長の贈物に相応しくないとされる)。」
- これはもしかして今谷明の説でしょうか? これでは永徳説は否定されてしまいますが? --忠太 2006年2月14日 (火) 11:39 (UTC)
- 私が読んだのは黒田紘一郎「中世都市京都の研究」(校倉書房、1996)ですが、今谷説の証明をされていますね。まず第一に畠山稙長の屋敷が荒廃して女郎が客引きしているのは、稙長死去からそう経っていない事、もう一つ山城の国人で細川晴元に仕えて江口の戦い(1549)で戦死した高畠甚九郎高直(本願寺の証如上人や山科言継との交際も知られる)の屋敷の絵が描かれている事から、天文期中期からそう下らない時期に描かれたと結論付けられています。ですから、私は最低でも両論併記にすべき事項であると考えています。--水野白楓 2006年2月14日 (火) 11:49 (UTC)
- 今谷説は一時期、話題になりましたが、黒田日出男の『謎解き 洛中洛外図』(1996年)以降、信長が謙信に送ったもの、という説が再び定説化しているようです(ただ、景観年代の問題は残るようです)。今谷説はいまやほとんど顧みられない(と、本人が平凡社ライブラリー版『京都・一五四七年』後書で書いています)。美術史家の中でも永徳作であることを否定する意見はあるのでしょうか? --忠太 2006年2月14日 (火) 13:23 (UTC)
- そうですか、ただ私は景観問題の説明が付かない限りはやはり断定は危険であると思います。平安朝初期ならいざ知らず、中世以後の京都は現在で言うところの再開発の歴史です。例えば、黒田(紘)氏が指摘した高畠甚九郎高直という晴元政権とともに没落した人物の屋敷があった事を後から思い出す人はそうはいないでしょう(現代の感覚で言えば今この場で20年前の出来事…東京の地下鉄路線とか、当時の社会党の書記長・政審会長あたりを思い浮かべる事が困難であるように)。ましてや写真などない時代の話です。例え、信長が謙信に贈ったものだとすれば、自らの手で再建された洛中洛外図を描かせたほうが現実にその時代を生きている絵師にとっても描き易いと思われます。この矛盾は決して過少評価すべきでないと考えます。--水野白楓 2006年2月14日 (火) 14:40 (UTC)
- 東博模本(の原本)も永徳作とされますが、1540年代の景観が描かれているようです。洛中洛外図が定型化していることから見ても、先人の描いた旧作に手を加えて描く、ということはよく見られたことでしょう。従って景観年代は決定的な証拠にはならないのかなぁ、というところです。(本文の記述直しました) --忠太 2006年2月14日 (火) 15:08 (UTC)
- 『日本歴史』2006年9月号で「日本史の論点・争点」が特集が組まれました。その中で阿部哲人が「上杉本洛中洛外図屏風」を書いています。そこでは、今谷の1547年説は、景観年代から絞り込む方法の到達点だが、その後、一つの図に違う時期のものを混ぜることがあるだろうとされて揺らいだとしています。他方、黒田の信長贈与説に対する批判は、よりどころにした『上杉年譜』『謙信公御書集』が近世の編纂物で、一部軍記物に採取していることです。阿部は、「ゆえに信長贈与説に関する黒田氏の結論もまだ断定に至るものではないのである。(中略)より確実な史料による裏づけも追求されなくてはならない」としています。この論文の別の箇所には「上杉本以外の初期洛中洛外図の制作および景観年代については多少のズレは存在するものの、通説的理解が存在するとみられる」という認識もあります。短い紹介の中での書き方としては永徳作、信長贈与をベースにする方がよさそうですが、それを定説と書くのは控えたほうがよいのではないでしょうか。Kinori 2006年10月22日 (日) 13:46 (UTC)
- 特に御意見がいただけませんでしたので、書き直しました。書き忘れましたが、上で参照した『日本歴史』の特集は、学説(史)のレビュー論文です。ウィキペディアにとって頼りになるものだと思います。Kinori 2006年11月1日 (水) 09:44 (UTC)
阿部氏の指摘する「『上杉年譜』『謙信公御書集』が近世の編纂物」という点は黒田氏は百も承知で論を立てていますので、今更指摘されてもなあ、という感じです。本文自体は特に異論ありませんが、「長い論争」というのをできれば少し補足いただければありがたいです。 --忠太 2006年11月1日 (水) 14:33 (UTC)
- 今更なことをまとめる趣旨の論文ですから。学説史については、直接あたっていただくのがベストだと思います。阿部は、景観年代・制作年代に代表的な見解が10あるとして、その起点を1932年においています。しかし論争が活発になったのは1960年代後半か1970年代以降のようです。感覚の問題になりますが、「長い」は要らないかもしれません。Kinori 2006年11月2日 (木) 02:17 (UTC)
上杉本については、上杉家に代々伝わったもので、藩が編纂した歴史書に織田信長から贈られたことが記載されています。また、美術史家の間でも永徳の作と認められており、国宝指定(1995)の理由にも、永徳作であることが確実で、織田信長が贈ったものとされることが記載されている由。異説があることを指摘することは結構ですが、定説と異説をただ並列するのでは意味もありません。…ということで修正させていただきました(異説については、○○氏はこのように唱えているなどと追加していただければよいと思います) --忠太 2007年2月20日 (火) 13:15 (UTC)
- 付記:京都博物館による狩野永徳展の記事中[14]でも、黒田説(とは書いてませんが)に肯定的な記述がされていますので、現時点での定説としてよいと考えます。 --忠太 2007年10月6日 (土) 17:40 (UTC) →少しつけ足しました(控え目に書いているつもり)。 --忠太 2007年11月6日 (火) 14:05 (UTC)
史料の件
[編集]以下引用のように一次史料がない件をくどくど書かれてますが、この項目の本文に書く内容ではないでしょう。 --忠太(会話) 2013年6月1日 (土) 16:04 (UTC)
(本文より引用)
※「(謙信公)御書集」によれば、天正2(1574)年3月条に「同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市兵衛遣于越府、被贈屏風一双、画(畫)狩野源四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日画(畫)之、花洛尽(盡)、被及書札」 なお、北越軍記では、使者が、柴田右馬助と稲葉弥助になっている。 織田家側の史料では確認できない事項であり、佐々市兵衛、柴田右馬助、稲葉弥助なる家臣も不詳である。
大日本史料総合データベースで確認する限り、天正2年3月の織田信長の動静は岐阜から上洛し、参議に叙任されている。信長公記および同時代史料に、屏風を贈った事実は確認できない。 また、柴田勝家は奈良の諸政の掌握を行っている。尋憲記には、柴田修理(勝家)、柴田勝定、柴田勝豊、柴田久介の名前は確認できるが、上杉家譜に言う勝家の従兄弟の柴田右馬助なる人物名は確認できない。
(引用ここまで)
黒田説の削除
[編集]2013年6月2日、180.197.198.119さんの編集により、黒田説が削除され、代わりに今谷説が示されてますが [15]、通説(このノートにも書いてある次第)を無視し、自説を展開しているようですので、差し戻したいと思います。 --忠太(会話) 2013年6月2日 (日) 15:06 (UTC)
「阿部氏の説」について
[編集]黒田説は史実でも定説でもなんでもない。阿部氏の説のほうが最新であり。黒田説は、景観年代の矛盾で破綻していると、指摘されている。また、足利義輝は上杉の史料に名前ナシ。--180.197.198.119 2013年6月3日 (月) 03:56 (UTC)
- こんばんは。「ノートで合意も取れていないのに、一方的に書き込ん」だり、「削除した」りしているのは、どなたでしょうか。黒田説にはもちろん反論もありますが、大枠で定説化してることはこちらのサイト[16](2008)や、上記の展覧会図録の記事(キャッシュ)[17]からもうかがえるでしょう。阿部説(2006年)は黒田説より後(最新)の説というだけでは論証にもなりません。…で、今谷説に戻ってしまった理由は? --忠太(会話) 2013年6月4日 (火) 15:44 (UTC)
- 「阿部氏の説」というのは、このノートの上の方にも言及されている阿部哲人氏(上杉博物館学芸員)の「日本歴史」掲載文(2006年)のことでよろしいでしょうか。上の方でも「レビュー論文」とありますが、黒田説を否定するような「新説」を唱えた内容では全くありません。
- 阿部氏のより「最新」の文章として、「洛中洛外図に描かれた世界」展[18]の図録(2011年、上杉博物館他)の解説文があります。「上杉本」の解説を阿部氏が執筆しており、その内容は全く黒田説に沿ったものです。
- 今や、今谷説を支持する意見は特に見あたりませんし、黒田説を乗り越えるだけの内容を持った説というのも、まだ提唱されていないようです。
- 180.197.198.119さんは、いろいろな文献の記述を挙げておられます。これは黒田説に一次史料の裏付けが弱い点(黒田氏自身も認めているし、阿部氏もそう書いている)を裏付けているとは思います。しかし、黒田説を否定するのであれば、それは180.197.198.119さん独自の主張と判断せざるをえません。 --忠太(会話) 2013年6月8日 (土) 12:19 (UTC)
- 特に反論がなければそろそろ修正させていただきます。 --忠太(会話) 2013年7月10日 (水) 12:03 (UTC)
記述を戻す件について
[編集]- 2013年6月2日の180.197.198.119さんの編集(黒田説の削除、代わりに今谷説)[19]は、学説史の流れを無視した180.197.198.119さん独自の見解がベースになっていますので、元の文章に直したいと思います。ご意見がありましたらお願いします。 --忠太(会話) 2013年6月22日 (土) 14:28 (UTC)
- 2013年7月28日 (日) 19:08[20]以降の編集で、上記の件を含め、全体の構成が更新されました。 --忠太(会話) 2013年10月13日 (日) 06:04 (UTC)
歴博甲本についての新説
[編集]- 1525年、管領・細川高国が狩野元信に書かせたものと推定される、という研究成果を歴史民俗博物館の小島准教授が公表しました。(毎日新聞2007年9月6日夕刊など各紙) [21] 2007年10月7日 (日) 07:40 Chuta(署名忘れ)
- 黒田氏は、歴博甲本は土佐派の絵師、東博模本の原画は狩野元信という仮説を立てています。元信の洛中洛外図を永徳も参考にしたのでは、と。(「洛中洛外図に描かれた世界」展図録(2011年) --忠太(会話) 2013年6月8日 (土) 12:29 (UTC)