ノート:江戸城
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このノートは2008年12月26日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、特定版削除となりました。 |
Request for some info on en.wikipedia
[編集]Hi, I hope someone who can speak english can read this because I cannot speak Japanese (sorry). On the en.wikipedia article at this section [1] it says that Tokugawa Yoshinobu never set foot in Edo Castle as shogun. Could somebody add why he did not and why he would have been expected to? Many thanks RTG 2008年12月12日 (金) 16:59 (UTC)
江戸氏の館について
[編集]いろいろと検索をしてみて、昔の江戸城に触れた記述を読んでみた所、江戸城のあった場所に江戸氏の館があったと推定されること(あったという事実ではなく、あったと推定されるという事実ですので混同の無きよう)は自明のことのようです。
- 武蔵の上杉定正が家臣の太田資清の子、資長に江戸城を築くことを命令、これが最初の江戸城の始まりだと言われます。
- 約一年間を費して築かれた江戸城、その場所はさらに二百年程前に住んでいた豪族江戸氏の居館の跡であったといわれています。
- 東京都千代田区歴史探訪 千代田区
- 江戸氏は中世初め頃現在の皇居(江戸城本丸跡)付近に館を持ち
- 世田谷の歴史地理 国士舘大学地理学教室
- 江戸氏の居館は、後の江戸城本丸のあたりと推定されている。
- 松本泰生「近現代の東京都心部における斜面地の変容に関する研究」[2]
もちろん、江戸氏の時代はあくまで「館」なので城をはじめて築いたのが太田道灌であるという事実は変わりません。ただし、江戸城について述べたWebページの多くで江戸氏の館についても記述されています。城じゃないから削除するのでは歴史の正しい記述とはなりませんので。--彩華1226 2008年12月16日 (火) 17:34 (UTC)
はっきりしているのは、徳川実紀で、江戸城は、道灌築城となっていることで、江戸氏の築城となっていないし、江戸氏の居館跡は出典不明の推測にすぎません。某WEBサイトでは、史料が皆無で不明とありました。場所も不明です。
江戸の先住民の話しをしだしたら、どんどんさかのぼっていくのでキリがない。
それと、ノートで説明して反論なかったら、差し戻すのが普通では?
江戸氏館前身説として、分けて考えるべき問題でしょう、本来。--ハニーハニー00 2008年12月17日 (水) 10:20 (UTC)
- ネット上のことばかりなので書物情報も述べたほうがよいでしょう。『国史大辞典』の「江戸城」の項(村井益男著)では、江戸氏の居館の場所は江戸城本丸台地と推定し、居館を「江戸城の発端」であったとしています。道灌の江戸城築城は、本格的中世城郭を築いたこととされています。また『日本城郭大系』でも江戸城の沿革は江戸氏のことから触れられています。このように書籍でも江戸城の歴史を前身の「江戸氏の居館」から記述していますので、江戸氏の館について触れてもよいと考えます。--KurmUmy 2008年12月18日 (木) 14:03 (UTC)
- 議論無視の編集があったので明確に意見表明。江戸城の項目を述べるのに、かつてその場所にあり、太田道灌の城の直前にあった江戸氏の館について触れるのに全く問題ありません。江戸氏の館について本格的に記述しているわけではなく、軽く触れているだけですし。『徳川実紀』で道灌築城であるからといって全削除する必要はありません。--KurmUmy 2008年12月25日 (木) 07:04 (UTC)
あのねえ、江戸氏の件は削除していない。徳川実紀の記述を削除するほうがおかしいでしょうが?
なぜ、徳川実紀という出典を削除するのですか?
江戸については、東鑑に名前が見えるそうですが。江戸氏館の出典が、1出版社の本にあるだけでは困りますよ。WIKIの国史大辞典には、批判として史料の掲載がないとありました。
江戸氏館が、あったという証拠、平安・鎌倉・室町戦国時代の史料をできたら提示ねがえますか?
江戸氏が江戸に住んでいたという話しは、すでに江戸氏、江戸の項目で語られている。
江戸城の築城は、江戸氏ではない。--ハニーハニー00 2008年12月25日 (木) 07:21 (UTC)
- 江戸氏の館への指摘が削除されているから戻したのです。徳川実紀を削除したのではありませんし、「江戸期の史書」なら徳川実紀も含むでしょう。江戸氏・江戸の項目があるから軽い指摘まで消すのは不合理です。完全に道灌からはじめる必要性を感じません。道灌からをもう少し分かりやすく明示してもよいと思いますが。「出版社」に拘りますが、それは無関係です。大体『国史大辞典』は吉川弘文館、『日本城郭大系』は新人物往来社ですが。村井益男氏などの著者を見るべきでしょう。江戸氏館の出典は現在手元に無いので時間がかかるのでお待ち下さい(年明けになってしまうかもしれません)。--KurmUmy 2008年12月25日 (木) 07:47 (UTC)
- 見落としていたので追記。江戸氏館があったという平安・鎌倉・室町戦国時代の史料は有りませんよ。江戸氏時代の江戸の記録自体が残っていませんから。ただし研究者の間では江戸氏の館が現在の皇居周辺にあった説が有力なのです。勘違いをなさっていますが、誰も江戸城の築城は江戸氏などと云っていません。あくまで江戸氏の館があったらしき場所に太田道灌が建てたと記述してあるとおりです。「史料」があるもののみで歴史が語れるわけが有りませんので、「史料」が無いからという理由ではこの言及を削除できません。館が存在しない・位置が江戸城ではないという説を出して下されば別ですが。さて、学説の出典としてですが近くにあったものを以下に挙げておきます。検証可能性を満たすのでこれで十分なはずですが。江戸氏の館は主題ではありませんし。言及レベルでしょう。
- 村井益男 『江戸城:将軍家の生活』 中央公論社、1964年
- 鈴木理生 『幻の江戸百年』 筑摩書房、1991年
- 村井益男によれば、江戸時代の『新編武蔵国風土記』などで、江戸氏の居館は現皇居のある台地上に存在したと言及されているそうです。それから、出典は確保されましたので、記載すべき内容かという議論になってしまいます。コメント依頼で意見を募集するのはいかがですか?--KurmUmy 2008年12月26日 (金) 09:26 (UTC)
ヤフー百科事典では、小和田哲男執筆で、城が初めて築かれたのは1457年(長禄1)で、関東管領(かんれい)扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰太田資長(すけなが)(出家して道灌(どうかん))が古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)に対抗するための拠点として築いた。
とあります。江戸氏館についてはまったく触れていません。
なお、村井 益男だけは、江戸氏館から記述してますけど。江戸城の本丸台地上と推定されている。 推定じゃあ困るんですけど、本当は。(平凡社の世界大百科事典)
同じ平凡社のマイペディアでは、1457年,太田道灌が築城。1590年徳川家康が入城。とあり、江戸氏館の言及なし。
なので、江戸氏館については、必ず触れなければいけないというルールはないと思います。ましてや、推定文を冒頭で挿入するのは、おかしいと思いますけど。
どうしても挿入したいのなら、冒頭ではなく、末端の別項目で江戸氏館の推定文を出典付きで挿入するなら、いいですけど。--ハニーハニー00 2008年12月26日 (金) 19:17 (UTC)
村井 益男 (むらい・ますお)
元日本大学法学部教授
昭和24年日本大学法文学部文学科卒業。東京大学史料編纂所教授を経て,平成8年日本大学法学部教授を定年退職。この間文化庁文化財保護審議会専門委員などを歴任。
著書:『江戸城』中央公論社,『年表日本歴史』(編著)筑摩書房など。
というか、この人、歴史学者じゃないのでは?法学部教授とありますけど。--ハニーハニー00 2008年12月26日 (金) 19:37 (UTC)
いや、歴史学の授業があっても、学部や学科を立てるだけの講座の無い大学では普通に歴史学者が法学部や経済学部の教授になっているところはありますし、ましてや法制史や近代政治史は法学部(一部は政治学部)で扱われている場合が多いので、単なる略歴だけで判断されるのは如何なものかと。--水野白楓 2010年9月27日 (月) 03:33 (UTC)
出典について
[編集]江戸城だけに言える話ではありませんが、[要出典]で求められたものに対しては、どこからの出典であるかを記事本文や脚注に明記してください。(利用者:HIさん、よろしいですか?)
編集内容の要約欄に書かれている方がいますが、当たり前のことですが、要約欄は編集の要約を記すためのものです。 219.9.130.28 2009年5月24日 (日) 06:51 (UTC)
コメント 219.9.130.28さん、こんにちは。おっしゃっていることはわかりますが、ここは差し戻しをされるより、HIさんの修正分にコメント付きで要出典を再度付記すればよかったのではないでしょうか。(Help:以前の版にページを戻す方法を参照してください。)--ムカイ 2009年5月24日 (日) 09:05 (UTC)
ムカイさん。仰るとおりだと思いますが、真実でかつ記事に載せる事項であれば、差し戻しをしてもどなたかが出典付きで記載されるのではないかと思います。私としては、「記述の裏づけをもって記載してください。」という思いで差し戻しさせていただきました。
さて、「グーグルマップ」で測定、という脚注をされてる方がいましたので、削除させていただきました。こういった編集をした人に対してお願いですが、当たり前のことですが、第3者が検証できるものを出してください。(「出典」という言葉が理解できないのであれば、編集はお控えください。)あと、「日本最大」と限定した言い方をされてますので、そうであると分かる出典もお願いします。(利用者:HIさん、よろしいですか?) 219.9.130.34 2009年6月18日 (木) 05:14 (UTC)
(コメント)219.9.130.34さん、こんにちは、ムカイです。219.9.130.28さんと同じ方との認識でよろしいのでしょうか。
「差し戻し」は、荒らし行為への対処として用いることが推奨されている手段であり、他の執筆者の誤りや編集不備を正すための手段としては相応しくありません。今後は、慎重なご判断をお願いいたします。また、挑発的にも受け取られる節が見られます。メッセージを送りたい相手方以外に第3者も閲覧されておりますので、もう少しだけご思慮いただけたらと思います。--ムカイ 2009年6月18日 (木) 11:47 (UTC)
総構えの面積の資料がないので、他の人も調べることができるツールを用いて調べてみたのですが、抵触したようです。申し訳ございません。--HI 2009年6月18日 (木) 12:24 (UTC)
総構えに当たる千代田区、中央区の資料よりそれに当てはまらない地域を除外して、面積を算出しました。ご参照ください。--HI 2009年6月23日 (火) 04:49 (UTC)
- HIさん、たいへんお世話様でした。 ぎゅうひ 2009年6月23日 (火) 04:58 (UTC)
- 2009年6月24日 (水) 11:52(UTC) 版にて{{要出典}}を貼り付けた者です。この議論に気づかず編集したため、議論参加者の皆様を混乱させてしまいましたなら申し訳ございません。
- さて、大変申し訳ないのですが、利用者:HI様の一連の編集では、面積を記述できないと考えます。何らかの出典に算出方法も書かれた面積データだと思い{{要出典}}を添付したのですが、編集者による算出ですので独自研究でしょう。上で登場されたIP氏は検証可能性を問題視しているようですが、グーグルマップ使用もこの場合も、記事執筆者が算出した内容であり、Wikipedia:独自研究は載せないに反する虞があります。数値を書かずに総構えの範囲を記述するか、数値データの出典が見つかるまで記述を控えたたほうが無難ではないでしょうか。--KurmUmy 2009年6月25日 (木) 11:02 (UTC)
- 範囲とそれを算出する為の面積データーを出典とし、それに従う形で計算を行いました。これはここに示した資料を活用することで、この計算が可能であるので検証が可能であると考え、記述しました。なお、現在過去の出版物には江戸城の総構え面積を示した資料は無いと判断しています。--HI 2009年6月25日 (木) 12:08 (UTC)
- 「総構え面積を示した資料は無い」なら数値を書くべきではありません。計算が可能かは問題ではないのです。資料を活用して計算した(云わば「基本データを集め」、「計算式を創作した」)のが「執筆者」である時点でアウトでしょう。総構えの範囲の説を選択するところで執筆者の評価がありますし、近代の東京の面積データで適当なものを選ぶのも執筆者の観点に依拠しています(埋め立てなどでの過去との差異への考慮は研究者で変化してしまうのでは?)。立派に「記事執筆者の調査結果」となってしまっています。特定の意見を述べているわけではありませんが、「検証が可能」な情報の合成であって、Wikipediaで発表された面積数値を載せるべきではないと考えます。--KurmUmy 2009年6月25日 (木) 12:57 (UTC)
- 範囲とそれを算出する為の面積データーを出典とし、それに従う形で計算を行いました。これはここに示した資料を活用することで、この計算が可能であるので検証が可能であると考え、記述しました。なお、現在過去の出版物には江戸城の総構え面積を示した資料は無いと判断しています。--HI 2009年6月25日 (木) 12:08 (UTC)
- (コメント)Hiさん、こんにちは。計算が可能であることがすなわち検証が可能なのではないかとのことですが、それでは計算ができない方は検証できないということになってしまいます。ウィキペディアには査読制度がないため、信頼できる情報源に基づいた記述が求められていることは、ご存知のことと思います。現在の記述では、「発表済みの情報の合成(特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成)」という独自研究に当たるものと思われますが。
- 一応、出典となりえる文献を探してみましたところ、『図解 縄張りのすべて』(学習研究社 2008年)に江戸城の惣構えについて「約4キロメートル四方」「周囲約20キロメートル」との記述が見られましたので、ご報告までいたします。--ムカイ 2009年6月25日 (木) 13:04 (UTC)
- 解りました、抵触するようなので記述を取り下げることにします。ムカイさんの指摘されたように周囲の距離に関する情報はありますが、面積に関する情報が皆無だったのでどうにかそれを表示しようとしましたが、wikipediaの編集というルールに抵触してしまったようです。専門家による発表が待たれるところです。色々、お騒がせして申し訳ございませんでした。--HI 2009年6月26日 (金) 00:37 (UTC)
「現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端」
[編集]2011年5月12日現在、 江戸城は「現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端」に建てられた、との記述がいまいち理解できません。 かつての隅田川河口がどこだったのか知りませんが、「現在の隅田川河口付近」と「現在の皇居」は、かなりの距離があります。 もしかすると「現在隅田川と呼ばれている川の、当時の河口付近」という意味でしょうか。 「麹町台地の西端」というのも疑問です。 現在の皇居は、現在の麹町台地の「東端」にあるような気がするのですが。 それとも、「現在は麹町台地は皇居の辺りが東端だが、かつては『現在の隅田川河口付近』までが麹町台地だった」というようなことなのでしょうか。それとも、「いやいや、かつての麹町台地は『現在の隅田川河口付近』を大きく超えて東へ延びていた。だから「現在の皇居」は当時で言えば麹町台地の西端だ」とか?——以上の署名の無いコメントは、110.233.160.208(ノート・履歴)さんが 2011年5月11日 (水) 17:54 に投稿したものです。
- ShikiHでございます。なるほど、私も奇妙に感じます。現在隅田川と呼ばれている川は当時は入間川だったかと思いますが、江戸城のあたりを流れていたかどうか疑問に思います。西ノ丸は文字通り西側に建てられ、台地の上にありますが、ここが麹町台地でその東端にあるように思います。しかしあんまり自信がありません。--ShikiH 2011年5月11日 (水) 18:47 (UTC)
- ShikiHでございます。半年考えましたがやはり疑問です。要出典とします。出典が示されないようなら、「東端」に変更します。--ShikiH 2011年10月22日 (土) 15:51 (UTC)
- こんにちは、おつかれさまです。ここに載っている一番上の画像(直リンクはこちら)などが参考になるかと思うのですが、「西端」はあきらかに「東端」の間違えだと思います。あと、「隅田川河口付近」というのもやや的外れな気がします。あわせて削除されたほうがいいのかもしれません。ぎゅうひ 2011年10月23日 (日) 06:53 (UTC)
- ShikiHでございます。ご教示ありがとうございます。ただ今は、執筆者による出典の提示または本文の修正を待っております。いずれも示されない場合は「江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に」を「江戸城は麹町台地の東端に」に変更いたします。--ShikiH 2011年10月27日 (木) 09:53 (UTC)
- こんにちは。皆さんお疲れ様です。このくだりを加筆したのは私かもしれません。よく履歴を調べればわかると思いますが、とりあえず面倒なので、私が加筆するであろうなら、「隅田川河口に近い江戸湾を望む麹町台地の北端(抜粋引用)」という、平井聖監修『城 [2]関東』毎日新聞社 1997年の記述に基づくものだったと思います。ほかの資料と照らし合わせの上、ご精査お願いします。--ムカイ 2011年10月28日 (金) 15:01 (UTC)
- ShikiHでございます。麹町台地の北端に江戸城があるなら、江戸城の南側に麹町台地があることになります。今の皇居は広い場所ですが、築城位置を皇居東御苑のあたりだと考えると、その南は皇居外苑で低い土地、その南は日比谷公園で低く、次に高いところは愛宕山あたり。少なくともここまで、江戸城の南方向には台地がありません。--ShikiH 2011年11月13日 (日) 02:45 (UTC)下線部追加--ShikiH 2011年12月24日 (土) 02:34 (UTC)
- ShikiHでございます。大きな反対はないようなので「江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に」を「江戸城は麹町台地の東端に」に変更いたします。--ShikiH 2011年11月23日 (水) 11:00 (UTC)
- ShikiHでございます。麹町台地の北端に江戸城があるなら、江戸城の南側に麹町台地があることになります。今の皇居は広い場所ですが、築城位置を皇居東御苑のあたりだと考えると、その南は皇居外苑で低い土地、その南は日比谷公園で低く、次に高いところは愛宕山あたり。少なくともここまで、江戸城の南方向には台地がありません。--ShikiH 2011年11月13日 (日) 02:45 (UTC)下線部追加--ShikiH 2011年12月24日 (土) 02:34 (UTC)
- こんにちは。皆さんお疲れ様です。このくだりを加筆したのは私かもしれません。よく履歴を調べればわかると思いますが、とりあえず面倒なので、私が加筆するであろうなら、「隅田川河口に近い江戸湾を望む麹町台地の北端(抜粋引用)」という、平井聖監修『城 [2]関東』毎日新聞社 1997年の記述に基づくものだったと思います。ほかの資料と照らし合わせの上、ご精査お願いします。--ムカイ 2011年10月28日 (金) 15:01 (UTC)
- ShikiHでございます。ご教示ありがとうございます。ただ今は、執筆者による出典の提示または本文の修正を待っております。いずれも示されない場合は「江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に」を「江戸城は麹町台地の東端に」に変更いたします。--ShikiH 2011年10月27日 (木) 09:53 (UTC)
- こんにちは、おつかれさまです。ここに載っている一番上の画像(直リンクはこちら)などが参考になるかと思うのですが、「西端」はあきらかに「東端」の間違えだと思います。あと、「隅田川河口付近」というのもやや的外れな気がします。あわせて削除されたほうがいいのかもしれません。ぎゅうひ 2011年10月23日 (日) 06:53 (UTC)
- ShikiHでございます。半年考えましたがやはり疑問です。要出典とします。出典が示されないようなら、「東端」に変更します。--ShikiH 2011年10月22日 (土) 15:51 (UTC)