ノート:江戸っ子
江戸っ子について
[編集]内神田で産湯につからなくては江戸っ子とは言えないというのを聞いた事があるのですが、どうなんでしょうか。--AIDA 2007年2月18日 (日) 08:28 (UTC)
本項に車寅次郎が出てきますが、彼は「葛飾柴又出身」と自称していても、「江戸っ子」とは言っていなかったと記憶しています。また彼が江戸っ子であると言った描写もなかったと記憶しています。葛飾柴又は厳密に言えば江戸ではありません。山田洋次監督もその辺りは心得ていたと思います。
エリアから言って「江戸=東京(特別区)」ではなく、「江戸<東京(特別区)」ではないでしょうか。広く解釈しても、江戸の範囲は旧十五区内にとどまると思います。(現在の二十三区の区域に広がった際、俗にこの範囲をもって「大東京」と呼ばれました。)
もっとも今日の柴又帝釈天門前はいわゆる江戸情緒が醸し出されていて、また寅さんも江戸っ子気質そのもののキャラクターだったので、そう取られても仕方のないこととは思いますが。(演じた渥美清さん自体が上野出身の江戸っ子。)--NOWOW 2009年4月24日 (金) 23:44 (UTC)
大木戸の外、本郷もカネヤスより外の出身者は「江戸っ子」とは呼べません。それに幕府瓦解より後に生まれた人々も江戸っ子ではあり得ません。--124.255.15.224 2010年4月7日 (水) 09:23 (UTC)
- 1818年の「江戸朱引図」に基づく朱引線・墨引線の内外で江戸か否かを判別する方法もあります。一応、江戸幕府公認ですがこれだと朱引内・墨引内ともに範囲が結構大きくなってしまいますね。朱引内だと祐天寺駅前、代々木上原界隈や上板橋宿まで入ってしまいます。これらは現在でこそ市街地ですが、江戸期では郊外です。従って、この方法で判別するのはちょっと違うとは思います。--NOWOW 2010年12月30日 (木) 02:35 (UTC)
江戸っ子
[編集]徳川譜代の旗本である大久保彦左衛門が書き残した「三河物語」に書いてあります。
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大久保彦左衛門は家康より褒美にどこでも好きなところを選べといわれて、当時の江戸を見下ろす神田台地(今の神田)に屋敷を設けた。
家禄はたった2千石であった。その理由は家臣がいなく独身であったから。
その所為で開き直り家康にでもずけずけとモノをいうので町人や旗本に絶大な人気があった。
家康は晩年駿府(今の静岡)に移って亡くなると、家臣の一部と商人(譜代町人)が駿府から江戸に移住してきた。
そこで移住先として人気のある大久保が居住する神田に居を構えた。
譜代町人相手に彦左衛門は武勇伝や逸話を話す中に、
中国(今の山陽地方)の島津中務と大和大納言秀長との戦いで敗れて戦死した五百名の島津将士の腕に
「今月今日討死 ○○(名前)」と彫ってあった。
それを聞いた町人は感激して見習い、あやかって譜代の町人としの刺青をしたいので名をつけてくれませんかとお願いした。
彦左衛門は「江戸っ子 ○○(名前)」と答えた。それが流行した。
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つまり、神田に住む譜代町人が「江戸っ子」なのです。--Sittyaka(会話) 2023年6月3日 (土) 14:14 (UTC)