ノート:気学
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独自研究にも程があると思います
[編集]- 紫白九星自体は相当古くから存在していますが、少なくとも『気学』の名称が生まれたのは近世の日本においてです。この事だけからも本項目の記述内容は、非常に恣意的だと考えられます。--北斗柄 2010年10月8日 (金) 01:29 (UTC)
- 独自研究というより、嘘ではないかと・・・削除してもいいくらい酷い。
- 全面的に書き換えてみました。いかがでしょうか?一般の占い本にあるような内容については、徹底的に突き放して記述したので、逆に210.149.37.10氏のような方々には、腹立たしい記述かもしれません。訂正や穏やかな表現への書き換え等は、こちらとしても期待するところです。--TommyCR 2011年9月16日 (金) 14:15 (UTC)
- 磁北を北とするのが主流派であるという記述は、ちょっと問題があるかな、という印象です。--北斗柄 2011年9月16日 (金) 15:04 (UTC)
- それと香港台湾では、紫微斗数の人気が高く、四柱推命というか八字は弱小化してるらしいです。また、破の方位はことさら月破のみが重視されているわけでもないような。--北斗柄 2011年9月16日 (金) 15:08 (UTC)
- 貴重なご感想ありがとうございます。まず「気学」に関しては、純粋に大正末年園田の創始にかかると理解してよいと思います。名称自体は江戸時代にすでに存在したのでしょうけれど、今日の内容が出現したのは、明らかに近代に入ってからと思われます。「出生図を見るのに、干支などの他の要素を全部捨象して、九星だけで判断する」というのは、前近代の暦法の常識からすれば明らかに異様です(江戸時代なら庶民が見ても稚拙極まりないでしょう)。さりげなく六曜にも言及しましたが意図あってのことです。気学と六曜は、どちらも「明治6年改暦の落とし子」と理解して良いと思います。明六改暦が、占術的要素を陋習として全消去したにも関わらず、庶民の側では占術の需要は不変のものであったため、江戸時代なら見向きもされなかった、過度に単純な要素が大手を振って歩くようになった、ということでしょう。その他の感想等については、もう少し検討してから述べたいと思います。--TommyCR 2011年9月17日 (土) 12:57 (UTC)
- 「気学」という名称は園田真二郎に始まるといっても問題はないでしょう。なお九星自体は古くから存在しているのは間違いないでしょうが、生年九星を基本に様々な判断を行う、特に九星五行との相生相尅を重視して、というのは江戸末の松浦琴鶴あたりから始まっているようです。--北斗柄 2011年9月18日 (日) 08:18 (UTC)
- 貴重なご感想ありがとうございます。まず「気学」に関しては、純粋に大正末年園田の創始にかかると理解してよいと思います。名称自体は江戸時代にすでに存在したのでしょうけれど、今日の内容が出現したのは、明らかに近代に入ってからと思われます。「出生図を見るのに、干支などの他の要素を全部捨象して、九星だけで判断する」というのは、前近代の暦法の常識からすれば明らかに異様です(江戸時代なら庶民が見ても稚拙極まりないでしょう)。さりげなく六曜にも言及しましたが意図あってのことです。気学と六曜は、どちらも「明治6年改暦の落とし子」と理解して良いと思います。明六改暦が、占術的要素を陋習として全消去したにも関わらず、庶民の側では占術の需要は不変のものであったため、江戸時代なら見向きもされなかった、過度に単純な要素が大手を振って歩くようになった、ということでしょう。その他の感想等については、もう少し検討してから述べたいと思います。--TommyCR 2011年9月17日 (土) 12:57 (UTC)
- 全面的に書き換えてみました。いかがでしょうか?一般の占い本にあるような内容については、徹底的に突き放して記述したので、逆に210.149.37.10氏のような方々には、腹立たしい記述かもしれません。訂正や穏やかな表現への書き換え等は、こちらとしても期待するところです。--TommyCR 2011年9月16日 (金) 14:15 (UTC)
/* 独自研究にも程があると思います */ に同意なのですが、気学がもともと吉備真備が「大衍暦」などの学術書を日本に持ち帰り、吉備真備がこれらを用いて気学的兵法を使って764年の藤原仲麻呂の乱を完全に鎮圧したことが、気学の原理となっております。それらの兵法に絡んだ原理だったため、当時の学識者であった儒生の間のみ口伝や口授によって伝えられていきましたので、気学が巷で言う帝王学である所以もこういった歴史的背景があるからなのです。またこの気学が一般大衆に開放されたのは、明治維新以後のことになります。 また、気学を重視していた徳川家康は、自己の進退画策一切の資料に供しておりました。戦において相手がたを滅ぼす場合に様々な気学の兵法を用いましたが、彼の残した教訓のひとつに「大将軍に向かって絶対に戦いを起こしてはならない。必ず戦いは敗れる」という鉄則があります。気学では、大将軍という大気が廻座している方位は最も重視されるべき方位であるという説です。この「大将軍」とする大気は方位的に東→南→西→北を3年づつ右回りに廻座してゆきます。関ヶ原の戦いで家康は巧妙に天海僧正の知恵を駆使して大将軍方位を取り入れて勝利しています。(詳細は略)。こちらの記載に関しては参考文献もありますが、園田何がし氏に内容が寄りすぎてるのは正直どうかなと思いますので、記述するのであれば、時代背景をもう少し考証して掲載頂きたいです。利用者gomatti
- 少なくとも『気学』という名前は大正末の園田以降で使用される名称ですから、徳川家康云々で使用されるのは正しくありません。大将軍等の吉神凶殺を言うのは九星の術であって、大正以降に確立した『気学』では方位の九星五行と本命星の五行の相生を吉とし相尅を凶とし、大将軍等の吉神凶殺を使用しないのが本流です。
- それと家康が気学であれ九星であれ戦場で使用していたというのであれば出典を御願いします。--北斗柄(会話) 2014年2月10日 (月) 16:53 (UTC)