ノート:民法典論争
民法典論争は、一般的には民法の内容に関する論争のように思われていますが、政治の道具として利用されたというのが実際のようです。当初、政府は最も進歩的なフランスの法制度を取り入れて列強に認めてもらおうと考えていましたが、民主制をベースにしたフランス法は天皇絶対制を取る日本の体制にはそぐわないのではないかとの考えが政府内部で出てきました。立憲君主制をとるドイツへの傾倒ですが、内容的には良くできていた旧民法を正面から廃止する事もできません。そこで、在野の法律家を焚き付けて廃案に持ち込もうと画策したものの様です。
新たな政府を安定させるには大量の官僚を必要とし人材が求められました。帝国大学はこのような要請に基づき設立されたものですが、帝国大学だけではとてもまかないきれません。人材のほとんどは私立の法律学校出身者でまかなわれていました。法律学校には、大きく分けてフランス法系、ドイツ法系、英米法系の三種類があり、それぞれが自分たちの優秀性を競っていました。旧民法はフランス法系のものだったので、ドイツ法系、英米法系の法律学校は危機感を覚えたのです。結果的に敵の敵は見方という事で、ドイツ法系の法律学校と英米法系の法律学校が手を結び、政府筋の意図も絡んで旧民法の批判を開始したわけです。
実際に延期派の批判を見ても「民法出デテ忠孝亡ブ」に代表される感情論が多くなっており、反対すること自体が目的になっています。旧民法には直系尊属の扶養義務が明記されているので上記批判はまったく的外れなものです。結果的に、フランス法の流れで一貫した統一性のあった旧民法は廃止され、フランス法、ドイツ法、英米法が統一性無く混ぜ込まれた非常に分かりづらい新民法が誕生する事になってしまいました。実際の成果物である新民法を見ても、延期派には一貫した思想が欠けていた事が明白です。
蛇足ですが、ドイツ法を代表したのが帝国大学、英米法を代表したのが現在の中央大学です。中央大学がその後の法曹界で主要な役割を果たした事は衆目の知るところなので、上手く目的を達成したという事になります。
このような政府と法律学校の利害が民法典論争を生み出したといわれています。自分で記事を書けばよいのですが、耳学問で正確な内容を書けないので詳しい方がいらっしゃったら執筆お願いします。
- 政治の道具として利用されたことに関しては、研究者の間でも認識は共通しているのだと思います。また、おっしゃることは自分もある程度認識しているのですが、近年研究は進んでいるものの、現時点では具体的な性格についてはまだ確実なことは言えない状況だと認識しています。Swkz 2004年10月22日 (金) 13:03 (UTC)
学校間の対立については、こちらのページ[http://www.tabiken.com/history/doc/R/R364L100.HTM ]にも言及がありますが、少し違った構図になっていますね。僕も記事が書けるほどではないので、ご参考まで。Tomos 2004年11月8日 (月) 10:43 (UTC)
- 全体的に、保守対革新といったような戦後特有のイデオロギー的観点で記事が立稿されていたという印象を受けます。非力ながら少しばかり手を加えましたが、より根本的な加筆修正が必要だと感じます。もっとも、このことは元記事を書いた人自身の問題というよりも、学問的な研究の成果を全然無視して、大雑把な論証でそのような説明を当然のようにしてしまう学者の側に問題があるというべきでしょう。上記発言のような理解はかなり広範なものとなっていると思われ、かつ元記事の拠って立つ基本的土台となっているように見受けられますので、失礼ながら問題点を列挙させていただきます。
- まず第一に、「民法典論争は、政治の道具として利用された」とありますが、条約改正という政治的側面があることは誰も否定しませんが(松波仁一郎・仁保亀松・仁井田益太郎合著、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎校閲『帝國民法正解第壱巻』(日本法律学校、1896年、信山社〈日本立法資料全集〉、1997年)12頁)、それに尽きるという考え方は学会においても一般的とはいえません(星野英一「民法=財産法」(放送大学、1994年)29頁)。
- また第二に、「民主制をベースにしたフランス法は天皇絶対制を取る日本の体制にはそぐわないのではないかとの考えが政府内部で出てきました」とありますが、当たり前のようにこういう書き方をしている書籍は無数にありますが(もっぱら戦後のものと思われる)、果たしてまともな裏づけはあるのでしょうか。議会の審議に掛けると成立が遅れるからというので、強引に旧民法を公布してまで条約改正のための民商法典の早期成立を目指した政府は当然断行派です(岩田新『日本法理叢書第二十五輯 民法起草と日本精神――梅先生の「条理」を中心として――]』(日本法理研究会、1943年)15頁)。「旧民法には直系尊属の扶養義務が明記されている」と上に指摘されているとおり、政府としては旧民法の時点で既に、元老院などで相当にいわば"保守的"に改修しているわけですから(手塚豊『明治二十三年民法(旧民法)における戸主権』法学研究27巻8号(1954年)36-37頁、有地亨「明治民法起草の方針などに関する若干の資料とその検討」『法政研究』第37巻第1・2号104、107、112頁(1971年、九州大学法政学会)、宇野文重「明治民法起草委員の「家」と戸主権理解 富井と梅の「親族編」の議論から」法政研究74巻3号(2007年)57-125頁)。それでもなお穂積八束としては不満だったのでしょう。
- 第三に、「内容的には良くできていた旧民法を正面から廃止する事もできません」とありますが、延期派であった穂積陳重博士や富井政章博士はもちろんのこと、断行派であった梅謙次郎博士ですら旧民法を強く批判しています(岩田新『日本法理叢書第二十五輯 民法起草と日本精神――梅先生の「条理」を中心として――』(日本法理研究会、1943年)26頁、梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号(1896年)671頁)。星野英一博士は梅博士がフランス民法(旧民法ではない)を賞揚していた部分を取り上げて強調していますが(星野英一『民法論集第一巻』(有斐閣、1970年)89頁)、起草当事者の旧民法評は総じてかなり辛らつです。明治民法は旧民法財産法部分を根本的に改修することなく継承したという理解はあくまで星野博士らの主張であるに過ぎず、これを当然視する書籍が散見されますが伝統的な理解とも異なりますし決して学界で一致を見ているわけではありません(梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁(1896年)、穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁、富井政章『民法原論第一巻』序5頁、仁井田益太郎・穂積重遠・平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」法律時報10巻7号24頁、仁保亀松『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、1904年)、仁保亀松講述『民法総則』5頁(京都法政学校、1904年)、松波仁一郎=仁保亀松=仁井田益太郎合著・穂積陳重=富井政章=梅謙次郎校閲『帝國民法正解』1巻8頁(日本法律学校、1896年、復刻版信山社、1997年)、和仁陽「岡松参太郎――法比較と学理との未完の綜合――」『法学教室』183号79頁、我妻栄『近代法における債權の優越的地位』478頁(有斐閣、1953年)、加藤雅信『新民法大系I民法総則』第2版(有斐閣、2005年)27頁、裁判所職員総合研修所『親族法相続法講義案』6訂再訂版(2007年、司法協会)4頁)。もっともこれはボアソナード博士の力量不足というより、世界的にフランス民法典の限界が認識され始めていた時代だったということなのでしょう。
- 第四に、ドイツ法学派であるとか、「ドイツ法系」なる法律学校は当時の日本に存在しません(「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」『法律時報』10巻7号17、24頁)。帝国大学の独法科の第一期卒業生(仁井田益太郎ほか)すら民法典論争の時点ではまだ輩出されていません。記事本文においては、イギリス・フランス型の民主主義思想が明治十四年の政変によって後退したから、イギリス系の学派が勢いづいて民法典延期論を主張したというような意味の通らない文章になっていましたが、さすがにそれはおかしい。そこまでいかなくても、憲法がプロイセン型になったから民法もドイツ型になって、フランス式の自由主義から後退して戸主権を中心とした保守的な民法になったというような説明を当然のようにする書籍が無数にありますが、明治民法は旧民法家族法相当分の規定をあまり手を加えずに継承しているというのが伝統的な理解ですし(磯部四郎「民法編纂の由来に関する記憶談」『法学協会雑誌』31巻8号162頁、仁井田益太郎・穂積重遠・平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聞く座談会」『法律時報』10巻7号(日本評論社、1938年)23頁、我妻栄『新訂民法總則(民法講義I)』(岩波書店、1965年)14頁、浅古弘・伊藤孝夫・植田信廣・神保文夫編著『日本法制史』(青林書院、2010年)314頁)、啓蒙主義のプロイセン一般ラント法、それと逆方向を行きつつ個人主義の極致でもあったローマ法系のドイツ民法草案第一、それに団体主義の修正を加えたドイツ民法草案第二のそれぞれの法思想の違いを全然無視しているという点で大雑把に過ぎ、正確性を欠いています(平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』(有斐閣、1926年)6、12-20頁、岩谷十郎・片山直也・北居功共編著『法典とは何か』(慶應義塾大学出版会、2014年)88-93頁)。憲法におけるプロイセン法思想と民法のドイツ法思想が直接リンクしているという理解を示す書籍は無数にありますが、結論の是非はともかくとして、どうしてそのようにいえるのかをまともに論証してくれている文献がなかなか見当たらないので非常に扱いに困るという印象を受けます。まして、商法典論争で攻撃された旧商法はドイツ人ロエスレルの起草であり、フランス法からドイツ法へ、の流れでは説明しきれないわけですから。
- 第五に、「延期派」の主張の理解と叙述に問題があります。某国家機関ですら、民法典論争は穂積八束が起こしたものだという誤解をしていたほどですから、延期派の主張=民法出テ忠孝亡ブだと思っている人は実際世の大多数ではないかと思われますが、そのような理解は、富井博士の議会演説や(杉山直治郎編『富井男爵追悼集』(有斐閣、1936年)162頁)、穂積陳重博士がもっぱら学理的観点からの延期論を唱えたところ付き返されたという『法窓夜話』97話のエピソードと矛盾します。旧民法人事編が槍玉に挙がったのは事実ですが、明治民法起草当事者においては、忠孝亡ブ云々はプロパガンダに過ぎず問題の本質ではないと考えられていたようです。法窓夜話97話参照。
- 梅博士によれば民法典論争における延期派の主張の要点は三つ、旧民法が
- 2学理上の欠点があること、特に最新のドイツ民法草案やスイス債務法が参照されておらず、既に老朽化が問題となっていたフランス民法典を範としていること
- 3各方面の人材を集めず、ボアソナードとその弟子ばかりで起草したこと
- であり、1については削除されることも無く現行法にも基本的に継承され、2と3については一理あることを梅博士自身認め、しかし法的安定性や条約改正の見地から早期の法典成立を優先すべきとしているわけですから(梅謙次郎「法典二関スル話」『国家学会雑誌』12巻134号542-543頁(1898年)、岩田新『日本法理叢書第二十五輯 民法起草と日本精神――梅先生の「条理」を中心として――』(日本法理研究会、1943年)23‐30頁)、保守派の穂積八束と進歩派の梅とが戦って延期派が勝ったから戸主権を中心としたプロイセン・ドイツ式の保守的な明治民法ができたといったような日本史の教科書や大学入試の問題によく出てくるようなストーリーとはずいぶん様相が違う。実際のところ、民法典論争の性質ということに関して言えば、学会においてもこれといって定説があるというわけではないのです。また、民法典が無かった日本、などという項目名であたかも条約改正のみを理由として民法典を嫌々作ったかのような書き方がなされていましたが、こういった日本の"後進性"を前面に押し出した書き方は、特定の歴史観のみで記事が書かれているのではないかと疑わせるものとなっていてあまりよろしくないと思われます。しかし、そのような観点から当然のように叙述された書籍が無数に存在してしまっているわけですから全然無視するわけにもいかず、百科事典の記事としての性質を遵守しつつ、内容の中立性と正確性を実現することはなかなか難儀であるということになるのでしょう。要するに、全然文献の裏づけの無い文章を書くのはもちろん、ある論者の特定の文献のみを無批判に引き写しにするのも中立性・正確性の観点から問題があるのではないかということを注意喚起しておきたいと思います。また、日本と類似の経緯をたどったタイ王国の民商法典論争についても注意を払う必要があるでしょう。そこでは、日本民法典は仏法式の旧民法をその内容の不備の故に退けつつ、ドイツ民法典を換骨奪胎して成立したものであるとの理解の下、タイ民法典の起草において最も主要な範として採用したという、近時の日本の学者の主張とはまるで異なる視点が示されています。--Phenomenology(会話) 2015年4月30日 (木) 23:42 (UTC)
歴史観以前に、事実認識が盛大に誤っている人が多過ぎです。旧民法に戸主権・家督相続制が存在すらしなかった、明治民法の戸主権は絶対的で、同意の無い婚姻は不可能だったと当然視している人たちに比べると、平野義太郎や家永三郎はむしろ公平穏当ですらあります。旧民法全編公布の事実を頑なに否定する山川の歴史教科書は、何を考えているんでしょう。本記事を見た上で本を書いたらしい某学者が、旧民法は議会審議にかけられたと言っていたのにはがっかりでした。Cincleat2781(会話) 2021年3月9日 (火) 23:43 (UTC)
項目名と内容の不一致
[編集]民法典論争という項目名でありながら、最近加筆された内容は現行民法制定に至る経過がメインとなっており疑問があるので、江戸時代云々に関しては削除しました。このような加筆は、別途項目を作った方がベターでしょう。ペトチザン 2005年9月17日 (土) 09:50 (UTC)
(消極的賛成)一理はある。だが、日本には明治以前に民法典がなかった事実と背景に全く触れないのも疑問がある。--水野白楓 2005年9月19日 (月) 11:00 (UTC)