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ノート:比企三郎

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ノート:比企宗朝から転送)

改名提案

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比企宗員に相当する人物が240D:1A:BEC:C100:155C:3CB1:2983:A6E8氏によって比企宗朝に改名されたようです。IP利用者のため移動機能ではなく新たに記事を立ち上げたうえで比企宗員を曖昧さ回避ページに編集したようですが、改名の根拠が記されていません。改名提案なども当然ながらないので、議論も全くなされていません。

比企能員の三男「比企三郎」は一般的に「比企宗員」という名とされているように思うのですが、「比企宗朝」に根拠があるのならそれを示していただきたく思います。「比企宗朝」をGoogle検索しても大河ドラマ『鎌倉殿の13人』関連とWikipediaの本記事関連の他は個人ブログ1件のみしかヒットしません。「比企宗朝」に根拠がないのなら「比企宗員」に戻すべきだと考えます。--ロンドル会話2022年7月19日 (火) 06:03 (UTC)[返信]

履歴を確認しました。「比企宗員」のリダイレクト化直前の 2022年3月3日 (木) 09:28 (UTC) の版と「比企宗朝」の 2022年7月17日 (日) 17:24 (UTC) の初版の差分です[1]。よくあるコピペ移動とはにわかに認めがたいため、裁量による履歴統合は行いません。--Kurihaya会話2022年7月19日 (火) 11:49 (UTC)[返信]
ありがとうございます。正直、履歴統合云々は面倒でちょっと尻込みしてたので、行わないならそれに越したことはありません(笑)。基本的にはあくまで改名の根拠を挙げてほしいということでしたので。--ロンドル会話2022年7月19日 (火) 14:03 (UTC)[返信]
(コメント)出典の可読性を上げるために記事名に出典を付記し、新たに同様の内容の文献も追記しましたのでご確認ください。Google検索については参考にしていないのでわかりませんが、比企宗員は「比企判官四郎宗員(吾妻鏡)」「比企次郎宗員(比企氏系図)」とあるのを確認しています。有力な反論を持つ出典があるようでしたら改名していただいて、宗朝とする説もあると付記していただければ反対しません。--240D:1A:BEC:C100:B86E:CDE6:4327:C5A8 2022年7月19日 (火) 16:33 (UTC)[返信]
コメント、ありがとうございます。まず出典の『大日本史料』ですが、調べてみるとどうやら「比企三郎」を「宗朝」としているのは『吾妻鏡』に付いている注の部分のようですね。ただ『吾妻鏡』本文では「比企三郎」としかしておらず、注は何をもって「宗朝」としたか不明。基本的に『吾妻鏡』には「比企三郎」としか出てこず、実名は記されていないようです。また同じく『大日本史料』によると『保暦間記』『北條九代記』には比企能員の子息として「宗朝」が出てくるようですが、それが「比企三郎」なのか別の子息なのかは書かれていません。一方、一般的に「比企時員」とされる「比企弥四郎」については『吾妻鏡』では1か所のみ「時員」として出てくる他は、やはり「比企弥四郎」または「四郎」と名が記されておらず、上記ご指摘の部分では「判官四郎」という人物が「宗員」とされてますが、「弥四郎」「時員」と同一人物かはっきりせず、また同一人物だったとしても改名したとは記されておらず、どちらかの名が誤りという可能性もあります。比企能員の息子の名前は、嫡男が「比企余一兵衛尉」、五男が「比企五郎」とそれぞれ実名が不明で、「比企三郎」「比企弥四郎」の実名もはっきりとはわからないとするのが妥当なんではないでしょうか。そもそも出典としては、できれば歴史学者・研究家による著作や論文などのほうが望ましく、史料そのものを用いるのは独自研究に抵触する恐れがあります。また『東松山市の歴史』は郷土史誌で出典としてはやや弱く、「東松山市市史編さん課 編」とあって著者もはっきりしません。管見の限りでは近年の歴史本のうち、坂井孝一『源氏将軍断絶』(PHP新書、2021年、107頁)では源頼家の近習5人について『吾妻鏡』を引用した部分で、「小笠原弥太郎(長経)、比企三郎、同弥四郎(時員)、中野五郎(能成)」と「比企三郎」のみ実名を記していません。永井晋『北条政子、義時の謀略』(ベストブック、2022年、134頁)では「小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成」となっていますが、こちらはこれまでの一般的表記に従っただけでしょう。その他には比企三郎、弥四郎について言及しているものが(あくまで僕の見た限りではですが)見当たりませんでした。よって名を記さない「比企三郎」に改名し、記事の文中で実名を「宗員」とする説と「宗朝」とする説があると記すのも一案かもしれません。
なお、そもそもの問題として、(実質的な)改名をなされるなら誤字・脱字のような明らかな間違いを別にすればまず議論の喚起を行うべきで、いきなり何も言わずに(実質的な)改名ををしてしまうのは問題があります。IP利用者は改名(移動)を行えませんが、ノート欄での議論の喚起ならできるはずです。--ロンドル会話2022年7月20日 (水) 14:40 (UTC)[返信]
既に当方の見解は上記及び記事内に反映しております。論争になりそうな場合は引き下がることにしておりますので、ご満足のいかない点はご随意に編集されてください。以下は双方の認識に誤解がないかの確認になります。
  1. >>史料そのものを用いるのは独自研究に抵触する恐れがあります
    注は東京大学史料編纂所が入れたもので、「歴史学者・専門家」によるものです。
  2. >>「東松山市市史編さん課 編」とあって著者もはっきりしません
    同書の例言にある通り、執筆は埼玉大学教授(当時)の福島正義氏が担当されています。
--240D:1A:BEC:C100:F54A:3DAB:E11A:4B6C 2022年7月21日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
ああ、注は東京大学史料編纂所が入れたものでしたか。もっと昔の江戸時代とかのものなのかと思ってました。ならば出典としては問題なしですかね。『東松山市の歴史』についても私は持っているわけではないので、記事の出典節や参考文献節からしか判断できず、著者は知りませんでした。ただ私の意見も上記の通りで、「比企三郎」を「比企宗朝」と確定はできないと考えますので、やはり「比企三郎」に改名し、記事中で実名を「宗員」とする説と「宗朝」とする説があると記すのが良いのではないでしょうか。合わせて「比企時員」の記事の「宗員に改名」という部分も修正するべきかと考えます。--ロンドル会話2022年7月21日 (木) 12:32 (UTC)[返信]

1週間経過しましたが、上記以上の意見が出なかったので、比企三郎に改名しました。--ロンドル会話2022年7月27日 (水) 13:16 (UTC)[返信]