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ノート:毎朝御拝

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独自研究

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明治以降は、たしかに神道の儀式ではありますが、それ以前は、神仏習合の中、拝礼が行われておりました。 特に平安時代、弘法大師の影響を受け、弟が護持僧として清涼殿の中、二間で祈祷をおこない、天皇が宮中祭祀を行った歴史があり また、清涼殿は、江戸時代後半にやっと復元された歴史がありますので、それらを踏まえて記述なされてください。--学術歴史会話2023年11月17日 (金) 13:36 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。二間における仏教祭祀は存知ておりますが、本項における祭祀とは場所も目的も異なるもので別の祭祀となりますので文中の参考資料や清涼殿の構造等をご確認いただければわかると思います。また平安内裏焼失後の閑院里内裏においても石灰壇は確認されております(石野浩司「『侍中群要』に見る清涼殿「石灰壇」」79頁)のでご確認お願いいたします。--少名彦会話2023年11月23日 (木) 04:04 (UTC)[返信]

小名彦様 了解致しました。知っておられて編集されているのであれば安心いたしました。二間は、仏教ではなく、当時は独特な密教儀式であったでしょうし、清涼殿自体も、幕末のものはでたらめな復元である説があることも、当然、御承知でしょうから、知っておられるのであれば、大丈夫です。ご返信ありがとうございます。--学術歴史会話2023年11月23日 (木) 10:40 (UTC)[返信]