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ノート:武田信豊 (甲斐武田氏)

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望月氏を継承した信豊弟について

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諏訪太郎頼光さんのご指摘ですが、この部分は参考文献で挙げている黒田氏の論文に基づいているのですよね。ただ、この論文も発表時期が古いですし、もしかしたら近年の研究に基づいているのでしょうか?出来ればどのような典拠文献に基づくのか、詳しく検討をしていただけたらと思いますが。--でここ 2008年5月4日 (日) 13:28 (UTC)[返信]

何かの本に書いてあったのですが、近年、部屋の掃除をしたときに処分してしまったらしく、出典を明記出来ないので保留にしておいて下さい。ただ、この部分の基になったのは1980年代の論文のようなので、その時点では黒田氏が誤認していたとも考えられますが。そして、今では武田関係に限らず、戦国史もかなり研究が進み、以前とは違った説が本に載るようになりましたし。--諏訪太郎頼光 2008年5月5日 (月) 07:55 (UTC)[返信]

先日、別の件で調査をしていた際に服部治則「近世初頭武田家臣団における親族関係(1) 望月氏」『武田氏家臣団の系譜1』という論文にかなりざっと目を通しました。それによりますと、まず望月氏を継承した信豊弟の名は同時代文書では確認できず、『軍鑑』やそれをベースにした『三代軍記』あるいは武田系図類を典拠とするものであることが判明しました。まず『軍艦』では川中島の記事における「望月殿(源三郎)」で実名は不詳、『三代軍記』では「望月右京太夫」が見られます。「信頼」は7種紹介されている武田氏系図のうち「三郎信頼」を含め「信頼」であるのが確定的で、弟に「太郎」(実名不詳)がおりましてこれが『軍鑑』の「望月殿」『三代軍記』の「右京太夫」に相当するのであろうと推定されているようです。「義勝」の名が見られるのは『甲斐国志』でして、これは主君勝頼の一字を下に置いてしまっているかたちで、創作的である可能性が高いようです。信頼、義勝(?)の死後に信豊の娘婿が望月氏を継承しているのは勝頼書状に見られるようですから、確実なのではないでしょうか。

以上、ざっと見ですので自身薄ですし同論文にはリファレンスがまるで付いていないため黒田論文の位置づけが不明瞭なのですが、信頼=義勝説および三男「信永」の存在に関してはわかりませんでした。そのうちもうちょっとこの論文をちゃんと読んでみたいので、取りあえずご報告を。--でここ 2008年5月18日 (日) 15:16 (UTC)[返信]