ノート:橘樹神社 (川崎市)
由緒について
[編集]IP:222.148.15.177(会話 / 投稿記録)さんが初稿で書かれた由緒については、神社境内の石碑にも同様の記述がありますし(なおその石碑には社史を出典とする旨書かれていますので、何らかの社史が編纂されているのかもしれません)、また「この社伝と古事記の記述とが結びつき〜「御陵」とされる。」という書き方ですので、伝記である旨が充分伝わる書き方になっていると思います。
さらに、後で私が追加した文化財課のホームページ [1] もそれに準じた記述になっているようですし、そのホームページでも「「御陵」とされてきた」「史実としての真偽のほどはともかく」とわざわざ但し書きしているように(笑)、富士見台古墳にまつわる説の信憑性についてはそう高くないと見る向きが優勢なんだろうと思われます。
そもそも、現在宮内庁が管轄するどころか(御存知の通り、「御陵」には一般人はおろか史学者ですら立ち入れないところもあります)、開放され宅地造成までされている時点で皇族陵説は信憑性が高くないんだろうな、と私も思っていましたので(^^;、IP:210.196.105.78(会話 / 投稿記録)さんの主旨は理解できます。私も、その辺りの経緯を辿れる資料があればと思い文化財課ホームページを追加しました(石碑の拡大写真を載せたりするのは法的にまずそうなので)。
ただ、Wikipedia はそれを考証・検証する場ではありませんし、残念ながら私は検証できるだけの材料を持ち合わせていません。また史料も残っておらず川崎市なども考証できずにいるから「説」だけが語り継がれているのだろうと思います。 なにぶん有史以前のことですから(そもそもヤマトタケルの存在や古事記の史料としての信憑性自体、史学上は様々あるようですし)、信憑性に疑問があっても仕方なのいこと、あまり気にしなくてもいいことのように思えます。
ですから、本記事の「由緒」は、一説として語り継がれている事実を載せたものであるため、初稿のままでも特に問題ないだろうと考えています。
いっぽう、IP:210.196.105.78(会話 / 投稿記録)さんが橘樹郡総社の記述を抹消された際の理由
「1889年 千歳,新作,子母口,末長,久末,明津,蟹ヶ谷の7村→橘村=高津区の半分以下、高津区役所は溝口橘支所が千年にある。橘村<<橘樹郡=川崎市+横浜市の半分)」
については、橘樹郡とは全然関係ない事を書かれており意味不明、また「高津区役所は溝口」「橘村<<橘樹郡=川崎市+横浜市の半分」などと事実関係にも古かったり怪しいことを書かれていますが、そもそも当地について御存知でない(橘樹郡と旧橘村の区別がついていない)のでしょうか? 「橘樹郡」記事の冒頭にもあるように、川崎市の広域および横浜市の一部(鶴見区、神奈川区など)を含む地域にかつて実在した郡のことで、橘樹神社はかつてその総社(郡の守護社)であったと推定されています。 御存知でしたらよいのですが、誤解があるといけないので念のため。
そういえば旧橘村の地域については、高津区#沿革(旧村名)以外に具体的に記述している記事は無かったんですね。橘地区には他の古墳や橘樹郡衙説などの歴史的経緯もありますので、もし種々書けそうであれば橘 (川崎市)などを設けて書かれるのも一方法かもしれません。もし旧橘村について詳しいようでしたら検討されてはいかがでしょうか?
--Cory 2006年8月7日 (月) 14:24 (UTC)
概ねその通りで結構だと思います。いずれにしろ「神話」の世界ですから、信憑性が低いのは当然だと思われます。
「1889年 千歳,新作,子母口,末長,久末,明津,蟹ヶ谷の7村→橘村=高津区の半分以下、高津区役所は溝口橘支所が千年にある。橘村<<橘樹郡=川崎市+横浜市の半分)」についてですが、
元は「旧橘村の村社であり、また近隣に郡衙が置かれていたと推定される地域にあることから橘樹郡の総社であったと考えられている。」となっていて、飛鳥時代かその昔に「郡衙」があったということに併せて、明治時代に橘村の「村社」だったことを論拠にしていると受け取られかねない記述が気になったので直してみました。
橘村というのは明治の町村制施行でできた村で、それ以前の7つの村(千歳が千年に変わったくらいで、後はそのまま現在の地名になっています)が合併して橘村になり、多分その後高津村に吸収され、現在は高津区の一部になっているのだろうと思われます。実際に千年にあった旧橘村の村役場が現在は高津区の橘支所になっていて、住民登録などは溝口の高津区役所ではなく橘支所で取り扱っているはずで旧橘村というのは全く消滅してしまったわけでは無いと思います。何となく周囲から取り残されているという感はするのですが。
(参考:イッシーのホームページ - 市町村の変遷 - 神奈川県(1):1889~1960年)
そういうことで、今の記述なら問題ないと思います。
また、橘樹神社の方も直されたようですが、川崎市のホームページ も「子母口村の鎮守」とはっきり書くことで、「逃げ」をうっているわけでしょうから、そのへんも考慮してください(要は恥をかかなければ、ということですので、私もこれで良いと思っているのですが)。
実は、初版を書いたのも私なのですが、なぜ上総国二宮の橘樹神社(ネットで検索し形だけ整えただけです)も一緒に書いたかというと、上総国二宮の橘樹神社と、子母口の橘樹神社 (川崎市) は次元の異なるもので、全然無関係だとすればそれで良いはずだと思ったからです。こういう話は曖昧だから成り立つのであって、「曖昧さ回避」をしないでくだされはそれで良かったのではないかと思っています。
それから反応の有り過ぎにも驚きこれで Cory さんに恥をかかせてしまっては申し訳ないとも思ったのですが、わかっていらっしゃるので安心しました。ですがそういうことですと現在の版については、私からすれば夢が無くなってしまった感は否めず、もう少し曖昧でも良さそうにも思います。はなはだ勝手なのですが判断基準もあるようですので、いずれにしろ後はお任せしたいと思います。
なお、旧橘村についてですが、以前旧橘村(千年)に住んでいたことがあって、川崎市のホームページ を見て、もしやと思って何度も行ってみたりネットで調べてみたりしましたのでいくらかは詳しいのですが、知っているのはここに書いたことだけです。ホームページを見なければ、住んでいたところが旧橘村だったということを知ることもなかったと思います。 —以上の署名の無いコメントは、210.196.105.78(会話・履歴)氏によるものです。2006年8月8日 09:03 (UTC)
お返事ありがとうございます。
私は市内の記事をよく書かせてもらっている関係で橘樹神社の記事があればいいなと思っていたものの、諸事情あって書いていなかったものですから、初稿を出していただいたときは喜んで、以前撮った写真を探し出して載せるなど編集に参加させていただいた次第です。
また、「橘樹神社」で検索等された方に高津区の橘樹神社記事もあることを知らせるために、茂原市の橘樹神社の記事に Template:Otheruses を設定させていただきました。 その後に茂原市の方を移動し曖昧回避を設定されたのは私ではないので推測になりますが、おそらくWikipedia:曖昧さ回避#曖昧さ回避の種類と方法にある「平等な曖昧さ回避」の方針に配慮されたのだろうと思います(念のため、平等の基準は旧社格などではなく現在の知名度だと思われますので、この判断に問題があるとは思いません)。
そして、曖昧回避の橘樹神社から記述を除いた理由ですが、曖昧回避は本来、同じ名前の記事が複数ある場合に、読者さんがどの記事を参照すべきか判断するための案内役を果たすものです。なので記事を特定できる最低限の記述があればよく、過剰な記載は避けるべき(曖昧回避をご覧になった方が、本記事でまた同じ記述を繰り返し読むことになってしまいますから)との判断からです(ただし編集合戦になるとまずいと思い茂原市の方の記述を削るのは控えました)。
ただ、私的に疑問に思っているのは、この一連の編集で 210.196.105.78 さんが度々仰っている「次元」「恥」「逃げ」といった表現やその基準については、正直理解しかねるところです。社格が村社だと恥ずかしいんでしょうか?または話が大袈裟だという意味でしょうか? 私的には、その地域の神社に色々な言い伝えがあることは尊重してもよいと思いますし、たとえば橘樹神社 (川崎市)の言い伝え(記事中には書かれていませんが、たしか弟橘媛の櫛や着衣がこの地に流れ着いたので富士見台に埋葬し祀ったという話もあったかと)をよくよく考えてみれば、かつてこの付近は海岸線が近かったことを意味します(実際に子母口貝塚なども見つかっており海岸線に近い時期もあったと考えられています)。また郡衙についても史跡等調査から推定されたものですし、「橘樹郡」という地名も実際に昭和初期までありました。これらは地域史を辿る上で興味深い話だと思うのですよ。
なお、ご指摘の川崎市のホームページなどでは検証不能なこと(社伝)について言及していることに配慮した表現にしていますから、本記事でもそうした配慮をするのは結構だと思いますが、これについても、恥じたり格差をつける必要などない事ばかりです。 また茂原市にある橘樹神社(といっても今回の事があるまで私は知りませんでしたが)とはその由来も何も関係のなさそうな(偶然、名前と祭神が一致しただけの)話ですから比較する必要もないでしょう。全国的な知名度においても特段の差異はないように思います。
または単純に私の編集が拙く無知な奴だと思われご配慮いただいたのでしたらひとまず御礼しますが、その場合には本記事に誤記や誤解を招く表現が残ってしまったり、見解の違いから編集合戦になるようではいけないので、今後何か見つけられましたら当該記事のノートなどで具体的にご指示いただけますと幸いです。
また、以前に住まわれていたとのこと、その辺りの事情は了解しました。区役所が下作延に移転されたことを御存知でなかったり横浜市の半分が旧橘樹郡だったというような書かれ方がされていたので当地に土地勘がない方なのかと思われたのですが、余計な勘ぐりだったようです、失礼しました。
ちなみに、成り行き上あのように書いたものの、「夢が無くなってしまった感」は正直私も同感です(苦笑)。今回合意が得られそうなので、宅地云々の表記については後ほど検討させていただこうと思います。
長くなってしまいすみません。以上ご理解いただけますと幸いです。--Cory 2006年8月8日 (火) 19:51 (UTC)
了解いたしました。
私が 2006年8月7日 (月) 09:20 に投稿したのは、内容を問題にしたわけではありません。反応の有りすぎに驚いたということです。最初はいわば私が火を付けたのですが燃え上がってしまったように思えたのです。でも火事ではなかったので安心している、ということです。
で、内容については私も前の版の方が良いと思っています。問題にしている所はほとんど私が書いたものなのですから。
また、私は会員ではなく Wikipedia への書き込みもごくたまにしかしません。ですので、ルールとか判断基準については自分の良識を元にして、というようなところかと思います。実際には Wikipedia には Wikipedia のルールとか判断基準があり、それは会員の皆様が良くご存知でしょうから、それには従うつもりです。
それから、卑下する必要はない、ということのようですが、私には具体的なルールとか判断基準がわかっているわけでなく、自分の良識を元にしているということで、先ずは「うちわ目」に、ということです。また、こちらは大体が当事者がそう言っているということなのですが、むこうは例えば「延喜式神名帳」に載っているとか、当事者だけの主張ではない部分がありますので、そこは負けてると考えるべきでしょう。しかし、その点についても更に上位のルールとか判断基準があるようで、そして Cory さんはそれに従うつもりなようですので、実際には問題は無いと思います。
なお、「弟橘媛の櫛や着衣がこの地に流れ着いたので富士見台に埋葬し祀った」との件ですが、川崎市のホームページ に、 橘樹神社の社伝は、おおよそ次のように伝えています。「日本武尊東征の際、--途中省略-- やがて、入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着しました。」とあります。東京湾に身を投げたのに、九十九里浜に流れ着くはずはないとは思っています。むこうは橘の木を墓標にして神社を造ったのでしょうが、御陵はこちらにあった方が合理的だとも思っています。
そういうことで、私は Cory さんが編集してくださるのを非常に嬉しく思っているわけで、たまにしか書き込みできないことでもあり、後はよろしくお願いします。お騒がせしてしまったことをお詫びいたします。-- 210.196.105.78 2006年8月9日 (水) 08:35 (UTC)