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ノート:楊貴妃

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以前の記述では『あまりにも玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたので』とありましたが、玄宗の楊貴妃に対する寵愛と安史の乱への直接的な相関性は弱いと考えたため、表現を弱めました。

また、『玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした。その結果、楊貴妃の従兄の楊国忠の専横を許すこととなった。中国史では伝統的な、外戚の専横である。』とありました。

楊国忠と外戚の専横はその通りですが、玄宗がすでに政治に関心を失っていたのは、天宝3載(744年)の資治通鑑の記述などで明かですが、『楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため』かどうかは長恨歌の文学的表現かも知れません。決定的な事実はうかがえないので削除しました。また、『彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした』にしても、皇帝権力の維持のため、外戚を重用することは頻繁に見られます。また、楊国忠の李林甫に対する積極的な対抗がなければ、李林甫の死後、あれほどの専横を振るうこともできなかったでしょうから、ある程度は楊国忠による権力闘争の結果と見てもよいと考えたため、これも削除しました。

『さらに楊国忠は権力争いのライバルである節度使安禄山を蹴落とすために玄宗に讒言を行った。結果的に、これに危機感を覚えた安禄山は反乱を起こした。』という記述も、王忠嗣による安禄山の謀反への警鐘もありますし、高力士も警告を鳴らしています。『讒言』とまで言えるかは微妙と思いました。ここも改変しました。

ご意見などがありましたら、よろしくお願いします。--Mamme 2008年10月26日 (日) 02:42 (UTC)[返信]

長恨歌の項目もありますが、小説の長恨歌伝もありますので、楊貴妃に関連するという解釈でこちらの項目に加筆しました。「長恨歌」「長恨歌伝」と楊貴妃は、三国志演義と三国志の人物以上に関連性が深いので問題ないのではないかと思います。

また、楊貴妃に関する文学はこちらの項目で、長恨歌の与えた文学的表現については長恨歌の項目でとりあげる形でよいのではないでしょうか--Mamme 2008年11月7日 (金) 14:35 (UTC)[返信]

カテゴリ

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少し疑問を感じたのですが、その名の通り、楊貴妃は「貴妃」なので、「皇后」ではありません。カテゴリを見たところ、[category:唐の皇后]に入れられてますが、厳密には、違うのではないかと思うのですが、如何でしょうか。ただ、楊貴妃以外に、項目のある「貴妃」を知らないので、どこに入れるか、となるのですが、やはり、[category:唐の皇族]が妥当ということになるのでしょうか。それとも、唐代の場合、楊貴妃の存在が大きいので、「皇后」ではなく、「后妃」でカテゴリを作るか、かと思います。如何でしょう。 --Chi-Ham 2009年2月21日 (土) 00:14 (UTC)[返信]

それは自分も思っておりましたが、とりあえず、そのままにしておきました。そのため、私が梅妃の項目を作成した時は、徐賢妃と同様、[category:唐代の人物]にしておきました。ただ、楊貴妃は、太平公主などとは違い、[category:唐の皇族]には当たらないでしょう。「唐代の人物」にするか、他の妃たちとともに、「后妃」のカテゴリーを作成し、「皇后」カテゴリーと統合するのがよいのではないかと思います。--Mamme 2009年2月22日 (日) 04:21 (UTC)[返信]

Mammeさま、有り難う御座います。大きな違いではないかとも思いますし、多少、思っているカテゴリと異なっていても、検索すれば、たどり着ける筈なので、[カテゴリ:唐代の人物]に移動させておきます。異論のある方が居られれば、こちらに書き込みをお願い致します。 --Chi-Ham 2009年2月22日 (日) 10:01 (UTC)[返信]

変更

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以前の記述で、『「楊肥」などと呼ばれ、実際は太っていた説、纏足の起源説などもある。』とされてましたが、「楊肥」は、「楊肥趙痩」という言葉の一部ですし、生前からそう呼ばれていたように誤解を生みかねないのでエピソードに補足していれました。纏足も唐代の記述では楊貴妃の足が小さかったという記述はなく、唐代にはなかったとはほぼ定説といってもよいと思いますので、これもエピソードにいれ、補足しました。太っていたという説は有名なのでそのままにしました。

ご意見などがありましたら、よろしくお願いします--Mamme 2009年2月28日 (土) 01:43 (UTC)[返信]

以前、自分の書いた記述で

>ただし、楊貴妃が寿王妃と明示しているのは「新唐書」だけであり、「旧唐書」「資治通鑑」ではいずれも寿王府出身とされる。

>この場合は、寿王から玄宗への移籍といえ、当時としては、大きな問題とはいえない可能性がある。

としておりましたが、自分の誤認で、「旧唐書」でもそのように明示されておりませんし、「資治通鑑」では寿王妃としていました。(自分の読んだ資料に「新唐書」以外の資料は寿王妃としておらず、寿王府出身としていると記述されていたのと「資治通鑑」の該当箇所を読み落としたための間違い) また、調べたところ、「唐大詔令集」という一級資料もあり、内容を変更しております。よろしくお願いします。--Mamme 2009年3月7日 (土) 12:40 (UTC)[返信]

内容の追加と整理

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エピソードについて、整理されていない、雑多な内容になっているという指摘がありましたので、出典が明らかな「数々の伝承」とそれ以外の「その他」に分け、加筆の上、整理しました。『楊太真外伝』については、さらに多数の出典がありますが、作者である楽史は、宋代の博学な歴史学者であるため、資料としての価値は高いと見て、そのまま出典としております。また、「死後の評価と後世の楊貴妃像」は、想像的な表現を弱めることにし、楊貴妃研究において、度々言及される音楽・舞踊に関する記述を増やしています。

これにより、スタイルマニュアルと雑多な内容のタグは外しますので、ご意見がありましたら、よろしくお願いします。--Mamme 2011年2月19日 (土) 13:40 (UTC)[返信]

・「梅妃」の項目とリンクさせておいて下さい。誰にでもよく分かるように目立つところに。 よろしく。 --以上の署名のないコメントは、59.157.100.113会話投稿記録)さんが 2020年3月23日 (月) 07:33 (UTC) に投稿したものです。ノート履歴に従って投稿者並びに投稿時間を追記。--2400:4173:6C1B:CC00:D584:46A8:E94F:1B80 2020年11月1日 (日) 01:59 (UTC)'[返信]