ノート:梓川橋
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八景山橋について
[編集]梓川橋の上流側の橋を、新淵橋から八景山(やけやま)橋に、1月4日に変更編集されました。八景山橋は『信濃の橋百選』(信濃毎日新聞社、2011年7月刊)にも収録されています(なんと筆者は「はっけいやまばし」と誤読しています。昔の地図では「焼山」なのですが、縁起かつぎで集落名を「八景山」にしたのです)。そういう意味では、出典根拠さえあるわけです。そのうちに、「八景山橋」を私が立項してもよいと思っています。しかし同時に、私は、「梓川橋の上流側の隣橋は八景山橋だ」とすることに躊躇します。いったい「八景山橋」をまともに橋と言ってよいのか、疑問を持たざるを得ないからです。あれはもともと、和田堰という灌漑のための人工の用水路(疏水と言われることも多いが、松本盆地では堰と呼ぶ)に、梓川を堰き止めて、河川水を導くための設備(堰)です。それを便宜的に歩けるようにしてあるのです。55年くらい前、私は地元の波田小学校・波田中学校に通っていました。その頃、「あの橋を使わないように。危険だ」という注意を学校で受けた記憶があります。同じ村内でも最も離れた集落に住んでいた私は、その橋を見たことがありませんでした。しかし、数年前に初めてその橋を見ると、その注意の意味がわかるのです。波田の人や子どもは、遊びでなければ使わず、梓川八景山地区の方が使うのでしょう。県や市も、まともに「橋」としての管理はしていないでしょう。「ノート」なので、主観や経験に満ちた記述をさせていただきましたが、それが「八景山橋」の実態です。--ジガンザン8108(会話) 2014年1月8日 (水) 07:45 (UTC)
- 当該の編集をした者です。中日新聞2009年5月24日付けの記事<なぜ沈む?梓川の「八景山橋」堰堤を橋に造り替え>で八景山橋が取り上げられています。私は八景山橋を訪れたことがないので詳しく知りませんが、いわゆる沈下橋というものでしょう。旧赤松頭首工を造り替えた経緯はあるにせよ、橋と呼んでも差し支えないと思います。また、記事には「市は本年度、1200万円を投じて橋を補修する」(引用)とありますので、「県や市も、まともに「橋」としての管理はしていない」わけではないようです。(節の見出しレベルを変更しました)--Qurren(会話) 2014年1月9日 (木) 13:56 (UTC)
- そうですか。上に書いたように『信濃の橋百選』では、言わば「信濃百名橋」の1つとして八景山橋を扱っています。加えて、『中日新聞』のような「出典」根拠もあるわけですね。ただ主観なのですが、「あれは橋なのか?」と感じて悩むのです。私が唯一行ったのは2年前の夏で、右岸から河原に入ったのですが、あまり奥までは行きませんでした。『信濃の橋百選』には写真があります。『中日新聞』の写真はなぜか見えませんでしたが、自転車を押して渡る人の映像があったようです。『中日新聞』記事によると、1977年に赤松頭首工が不要になり撤去の話があったので、八景山住民が渡河手段を要請し、安上がりな手段として、頭首工を存置させて一部の上部を削り取り、そこに柱を立てて上部に平らにコンクリートを置き、柱の間を河川水が流れるようにした、ということになります。沈下橋と言えなくもないのですが、ウィキの「沈下橋」にある写真のものとはまったく違います。またよくわからないのは、赤松頭首工が不要になったのは、ずっと以前だったようにも思われる(1940~1950年代に梓川頭首工が上流に造られた時ではなかったか)こと。ただ、頭首工を廃止・撤去しても、堰を撤去することは無用・不要な工事として、そのまま堰を残し置いたのでしょう。この頭首工の歴史については、梓川頭首工脇に看板があり、説明が書かれています。赤松頭首工は、右岸の和田堰に取水するものなので、右岸の旧波田町の『波田町誌』には記述が必ずあるはずです。ただし、止水堰の渡河施設としの活用に触れている可能性は小さいです。ともあれ、私の手元に『波田町誌』はなく、簡単には確認できません。この橋=渡河手段は「八景山」集落にとって重要なものです。その八景山集落のある旧梓川村の『梓川村誌 続編』(1999年、B5判全913ページ)を、昨秋に買いました。この本では「橋梁のかけかえ」の項があり(374~381頁)、梓川橋・下島橋・倭橋・中央橋については詳しい記述があるものの、この本の他の部分を見ても、八景山橋についてはまったく触れていません(旧梓川村の現代史にとって無用のものとしての扱い?)。八景山地区での豪雨災害などには触れられていますが・・。そう言えば、私が、八景山橋=赤松頭首工跡に行った頃、梓川頭首工(梓川に写真を入れました)にも行きました。ここでも梓川本流を水門を並べて堰き止めており、水門の上を渡河可能です。ただ、その時には、猿害=猿の渡河を防止するために渡れないように防止柵をめぐらせてありました。しかし、ここでも柵をはずせば渡河できるので、これも渡河施設=橋と言えなくもないわけです(ただし右岸には人家がまったくなく、渡河施設として活用する必要がまったくない)。長くなりますが、梓川の中に羅列されている橋の中で、稲核橋~倭橋の各橋はほぼ知っています。しかし「明神橋」は知りません。龍安橋と新淵橋の間にあることになっているということは、梓川頭首工ですが、それを明神橋と言うとは、聞いたことがないです(あるいは編集時に上高地の明神橋をコピーしてそのまま残してしまったものか?)。話を広げてごめんなさい。でも、やはり私は、「八景山橋」を橋と認めてよいか、立項しようにもどういう名称にしたらよいのか、迷ってしまうのです。--ジガンザン8108(会話) 2014年2月3日 (月) 05:00 (UTC)
- 八景山橋 (沈下橋)として、先ほど立項しました。つい最近、ほぼ同じ場所になるであろう新しい県道・架橋計画が明らかになりました。その名称と重複するかも知れないので、「八景山橋」とせずに「八景山橋 (沈下橋)」としました。24日、25日と、現地へ行って来ました。--ジガンザン8108(会話) 2014年3月26日 (水) 15:02 (UTC)
- そうですか。上に書いたように『信濃の橋百選』では、言わば「信濃百名橋」の1つとして八景山橋を扱っています。加えて、『中日新聞』のような「出典」根拠もあるわけですね。ただ主観なのですが、「あれは橋なのか?」と感じて悩むのです。私が唯一行ったのは2年前の夏で、右岸から河原に入ったのですが、あまり奥までは行きませんでした。『信濃の橋百選』には写真があります。『中日新聞』の写真はなぜか見えませんでしたが、自転車を押して渡る人の映像があったようです。『中日新聞』記事によると、1977年に赤松頭首工が不要になり撤去の話があったので、八景山住民が渡河手段を要請し、安上がりな手段として、頭首工を存置させて一部の上部を削り取り、そこに柱を立てて上部に平らにコンクリートを置き、柱の間を河川水が流れるようにした、ということになります。沈下橋と言えなくもないのですが、ウィキの「沈下橋」にある写真のものとはまったく違います。またよくわからないのは、赤松頭首工が不要になったのは、ずっと以前だったようにも思われる(1940~1950年代に梓川頭首工が上流に造られた時ではなかったか)こと。ただ、頭首工を廃止・撤去しても、堰を撤去することは無用・不要な工事として、そのまま堰を残し置いたのでしょう。この頭首工の歴史については、梓川頭首工脇に看板があり、説明が書かれています。赤松頭首工は、右岸の和田堰に取水するものなので、右岸の旧波田町の『波田町誌』には記述が必ずあるはずです。ただし、止水堰の渡河施設としの活用に触れている可能性は小さいです。ともあれ、私の手元に『波田町誌』はなく、簡単には確認できません。この橋=渡河手段は「八景山」集落にとって重要なものです。その八景山集落のある旧梓川村の『梓川村誌 続編』(1999年、B5判全913ページ)を、昨秋に買いました。この本では「橋梁のかけかえ」の項があり(374~381頁)、梓川橋・下島橋・倭橋・中央橋については詳しい記述があるものの、この本の他の部分を見ても、八景山橋についてはまったく触れていません(旧梓川村の現代史にとって無用のものとしての扱い?)。八景山地区での豪雨災害などには触れられていますが・・。そう言えば、私が、八景山橋=赤松頭首工跡に行った頃、梓川頭首工(梓川に写真を入れました)にも行きました。ここでも梓川本流を水門を並べて堰き止めており、水門の上を渡河可能です。ただ、その時には、猿害=猿の渡河を防止するために渡れないように防止柵をめぐらせてありました。しかし、ここでも柵をはずせば渡河できるので、これも渡河施設=橋と言えなくもないわけです(ただし右岸には人家がまったくなく、渡河施設として活用する必要がまったくない)。長くなりますが、梓川の中に羅列されている橋の中で、稲核橋~倭橋の各橋はほぼ知っています。しかし「明神橋」は知りません。龍安橋と新淵橋の間にあることになっているということは、梓川頭首工ですが、それを明神橋と言うとは、聞いたことがないです(あるいは編集時に上高地の明神橋をコピーしてそのまま残してしまったものか?)。話を広げてごめんなさい。でも、やはり私は、「八景山橋」を橋と認めてよいか、立項しようにもどういう名称にしたらよいのか、迷ってしまうのです。--ジガンザン8108(会話) 2014年2月3日 (月) 05:00 (UTC)