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ノート:梅宮大社

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強化記事への投票に際して

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強化記事投票における加筆前加筆後を基準として疑問点なのですが、

  • 創建当初から現在地に落ち着くまでの場所の変遷について。加筆前は「奈良」とか「木津川上流」とあったものが、加筆後は「洛隅内頭」とか「相楽郡堤山」という表現になっています。出典に則した正確性は向上したのだろうと思うのですが、「洛隅内頭」や「相楽郡堤山」にリンクや説明もないので、具体的にどの辺りなんだろうというのがわかりにくくなってしまったように思います。或いは、文献上は「相楽郡堤山」とあるけれども、それが現在のどこに相当するのかは断定できない、木津川上流にある、現在の「京都府相楽郡」のあたりであるという保証はない、ということなんでしょうか。遷座の時期も、加筆前は「平城京遷都の際」とか「平安遷都の際」という表現が、「のちに」「その後」に“後退”しています。「わかりやすさ」でいえば加筆前のほうが「わかりやすい」のですが、どうなんでしょう。加筆前の記述は不確かな記述で、精緻に出典に基づくと不明/不詳ということになる、ということなんでしょうか。
お世話になっております。的確なご指摘、感謝いたします。
  • まず1点目として、創建節の異同について。これは原典が異なることによるためです。すなわち加筆前の記述は神社の公式表記によるもの(基になる史料は存じません)、加筆後の記述は『伊呂波字類抄』に基づくものになります。前者は歴史学的な裏打ちに欠け、私が参照したほとんどの資料で後者の記載のみがなされていました。そのために前版では前者を削る判断をいたしておりました。ご指摘を受け、後者のみの記載もまずいと考え直し両説併記と改めました。ご参照下さい。
  • 次に位置情報について。どの資料も「洛隅内頭」と「相楽郡堤山」に関する考証を記述しておらず、仰る通りこれらを断定できません。あくまでも文献の引用として「」を付して記述はしていましたが、少し付記をいたしました。現状の資料では「洛隅内頭」が平城京なのか恭仁京なのかも存じませんし、「相楽郡堤山」が井堤寺を指すのか他の地を指すのかも存じませんので、私としてはこれが精一杯の記述になります。
  • 3点目として時間情報について。ご指摘の通り本項では初版以来、光明皇后・牟婁女王による奈良遷座を「平城京への遷都の際」、壇林皇后による遷祀を「平安遷都の際」と記述されていました。しかし、年代はそれぞれ平城遷都(710年)と光明皇后(701年-)、平安遷都(794年)と檀林皇后(786年-)となりますので、これは表現として明らかに誤りと判断されます。明確に述べられる限りの時期は述べたつもりですが、私には先の記述のように遷座と遷都を関連付けるかのような独自研究に踏み込む勇気がありませんので、ご了承下さい。
  • 4点目として橋本以行氏について。橋本以行氏を解説することは梅宮大社本体の解説から外れるので除いておりましたが、完全な情報削除は確かに誤りでした。かと言って梅宮大社の歴史の一貫として歴史節に載せるのもどうかと思い、関連項目の記載と改めました。
以上になります。よろしくお願いいたします。--Saigen Jiro会話2014年6月26日 (木) 16:04 (UTC)[返信]
  • 返信 お手数をお掛けしてすみません。ご対応有難うございます。趣旨はよくわかりました。4点目については、Saigen Jiroさんがなさったように、関連項目ぐらいの扱いでじゅうぶんだろうと、私も思います。
  • 1から3についてはよくわかりました。出典に基いて正確な・真摯な記述をするという考えかたからは、手直し前のSaigen Jiroさんの編集が理想だと思います。しかし、中には、私のようなうっかり者がいて、「実際に神社に行ったらこう書いてありました!」みたいなノリで「平城宮遷都がどうの」とか「堤山というのはどこそこのことで」とか書き足しちゃうかもしれません。そういうのを未然に防ぐという意味では、「◯◯という説があるが、きちんとした証拠では□□である」というような感じで◯◯についてもチョロっと触れておいていただくのは、お互い(しっかりした執筆者さんとうっかり者の双方)にとって損はないかなと思う次第です。--零細系統保護協会会話2014年6月27日 (金) 11:36 (UTC)[返信]
確かにそうですね。承知しました。今後の参考になるご指摘、感謝申し上げます。--Saigen Jiro会話2014年6月27日 (金) 12:47 (UTC)[返信]