ノート:桐生氏
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「後桐生氏」の呼称について
[編集]須藤 聡氏の論文「桐生佐野氏に関わる研究史とその史料紹介」(桐生文化史談会・編『桐生佐野氏と戦国社会』所収、2007年)によれば、『桐生市史』(昭和33年刊行)が桐生国綱以降の桐生氏を桐生六郎と区別するため「後桐生氏」と呼んだとのことです。
同論文は六郎が「前桐生氏」とされていた旨明言していませんが、[1]のような桐生市のサイトが存在する事からすれば、恐らくは『桐生市史』が桐生六郎を「前桐生氏」と定義していたと思われ(同書は今のところ未見)、ここに前後桐生氏を区別する理由があったようです。なお、須藤論文によれば『桐生市史』は「後桐生氏」の呼称を用いつつも、国綱を六郎の子孫としていたとの事です。
しかし、『桐生市史』は桐生氏研究において「軍記物や系譜に頼」ったものと批判されており(詳細はノート:桐生六郎#桐生氏研究における『桐生市史』の位置付けについてを参照)、近時では桐生氏と佐野氏との関連に着目して「後桐生氏」の代わりに「桐生佐野氏」と呼ぶ見解が登場しています(須藤論文参照)。
「後桐生氏」の呼称が学界で動揺している現状に照らせば、「後桐生氏」の呼称を断定的に用いるべきではないと考えます。--Сорасоуё 2008年2月29日 (金) 12:47 (UTC)