ノート:枯山水/2008年2月4日 (月)明確化(情報源と記述)
表示
< ノート:枯山水
典拠[1]と記述がずれていきそうな気配がある(この編集、この編集、この編集、この編集)ので、ここノートに下記を転記しておきます。
日本庭園の様式は、築山泉水庭(池泉庭園)、枯山水庭園、茶庭(露地)の3つに分類される。
620年頃、蘇我馬子が飛鳥川畔に作った「島」が、日本庭園の最も古い記録であり、その流れを受けたと思われる草壁王子の住居「島の宮」は、中島、橋、池汀、荒磯を配置した、自然風景を描写したものであった。奈良時代に入り、平城宮の東院の庭園は、海景、流水を描写したもので、水辺の景色を石を使って描写したものであった。平安時代、神泉苑や洛外の離宮など、池が広大になった。ここまで、水を含む自然の景色を描写する地割りを基本として、日本の庭園の様式は形作られた。作庭の技術者は僧侶で、平安時代末期には「石立僧」と呼ばれた。
この日本の庭園の伝統の上に、禅宗がその寺院の伽藍配置のなかに後庭を作庭するとき、禅宗思想、大陸から渡来した思想、芸術、文化を多く取り入れた。また、水利のよくない都市地域に寺院が造成されるとき、作庭は集約化されたものとなり、特徴的な様式が発達した。こうして生まれたのが、庭園の様式「枯山水」である。室町時代の作庭技術の発達には、山水河原者が多く関与している。
夢想国師の作庭思想に強く影響を受けた足利義政は山水河原者善阿弥を寵愛した。善阿弥が造った山水画風の睡蔭軒の小庭は、『蔭涼軒日録』にて絶賛されている。
- 枯山水
- 「枯山水」という字が作庭の用語として最初に現れる文献は、『作庭記』(『前栽秘抄』)で、藤原頼通の子橘俊綱(968年-1094年)の編集とされる(『群書類従』の奥書によれば九条良経(京極良経、1169年-1206年)である)。これには読み仮名が振っていなく、堀口捨己は「カレセンズイ」と読む、と意見している。またここで記されている「枯山水」は、庭園のなかの1区画に置く石、景石の置き方の様式を指していると考えられ、これを「平安時代式枯山水」「前期式枯山水」と呼び、後世の「平庭枯山水」と別のものと把握しよう、とする意見と、同じ流れであり分ける必要はないとする意見がある。
- 『栄華物語』巻12の玉村菊の長和5年(1026年)の項に書かれている三条院の庭を現在でいう「枯山水」であるとする見方がある。
- 乾山水
- 『源平盛衰記』巻25に「乾山水」「乾泉水」の記述がある。これは盆栽のようなものを指す言葉と考えられ、現在の「枯山水」が指すものとは別のものを指す言葉と考えられるが、これが、たとえば龍安寺の石庭など盆石風庭園の流れの元になっているのかもしれず、繋がりはわかっていない。
- 唐山水
- 唐(胡)から渡来したものだから、「唐山水」と呼ぶべきだ、として呼ばれる字と推測されている。中国の庭園様式を取り入れたので、そういわれる、とされている。しかし、確定した字義の源泉はわかっていない。『臥雲日件録』の文安3年(1446年)10月12日の項に、中国の夷人が食す水を入れない餅菓子を唐山水と呼ぶ記述があるが、それとの関係もよくわかっていない。
- 枯山水(フルセンスイ)
- 『尺素往来』に、枯山水に「フルセンスイ」と振り仮名を振ってある記述がある。
- 枯水形(カレミズガタ)
- 享保28年(1735年)の『築山庭造伝』の元になったといわれる『築山山水伝』に「枯水形」の記述がある。これは、現在でいう枯山水が指すものと同じものを指す言葉であると考えられる。
- から泉水
- 石垣島に伝わる1800年頃に書かれた『庭作不審書』に、「から泉水」(カラセンズイ)の記述がある。水を用いない築山山水、海乃景を指して使っており、現在でいう枯山水が指すものと同じものであると考えられる。沖縄の自然環境とは無関係に書かれた本で、吉川需は、この用語がこの時代に沖縄まで伝わったことを示すもの、と示唆している。また、「空」でも「唐」でもなく「から」と記述してあることに、吉川需は関心を示している。
- 枯山水(コセンスイ)
- 天保元年(1830年)の『嬉遊天覧』に、「枯山水」は「フルセンスイ」とも「カラセンスイ」とも読むのではなく「コセンスイ」と読むべきだという記述がある。
出典
[編集]- ^ a b c d 『枯山水の話 -水無くして水を楽しむ庭-』 龍居庭園研究所 編 建築資料研究社 ISBN 4-87460-315-7 P24 - 40 枯山水総論(その意義と語源、そして作者) 吉川需
記述を変える ときに/人が 欲するところのもの が判る様に
[編集]Wikipedia:出典を明記するという観点から、ノートにこの記述を保持しておきます。Uryah 2008年2月4日 (月) 14:58 (UTC)