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ノート:林秀貞

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信長の家老は誰 通説では林通安の子通勝・通倶が、織田信長と戦い、通勝は許され信長の家老となり、通倶は信長に殺されている。 通安は斎藤利国に仕え、可児郡塩村に住み、永正十年1513五十才で死亡している。(東京大学史料編纂所蔵美濃国諸家系譜参照) 天正八年1580信長に追放された、息子の通勝は通安67才の時の子とならねばおかしい。

そこでまた美濃国諸家系譜を見ると、通勝は織田敏信と信秀に仕え、天文二十年1551五十七才で死亡、弟通倶も信秀に兄と共に仕えている。 通勝の子に通豊・光春がいて、通豊は大永三年1523生まれ織田信秀に仕え、後信行に仕え、信行死後信長家老となり、尾州智多郡で五万三千石領していたが、天正八年に追放されている。弟光春は信行家老となり、稲生の戦いで信長に討たれている。

通勝の存在はいろいろ取りざたされているが。林一族は斎藤妙椿・利国の時、尾張牽制のために六千石程度の領地を持ち、前斎藤没後その維持の為尾張進出となり、織田と組んで津島湊の商権を制し、織田氏の勃興を助け、稲生の戦いの後も、通豊の持つ津島商権の維持を狙い、通豊を生かし、信長が淀・伏見・境の天下湊を得た天正八年、信長に一揆した尾張国人領主の存在を疎み、粛清したのではないかと思う。

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