ノート:林氏
美濃林氏 美濃揖斐川の国人領主、林七郎左衛門通兼の一族は、藤原氏の一門で加賀江沼郡林郷に住み、南北朝期に越前で新田義貞や、伊予の得能通綱・土井通治・河野七郎らと共に戦い、破れて吉野へ脱出した脇屋義助を、美濃揖斐川まで送り、そこに住み着いた人々で、吉野朝と足利尊氏が、尊氏の弟足利直義を鎌倉に攻めるため、和議を結んだ折、揖斐川・根尾川・長良川・木曾川・天竜川沿いに南下していた、進士・林・山岸ら南朝軍勢と共に、守護土岐頼康の配下に付き、その後土岐と共に戦ってきた。 足利義満の、有力守護潰しの罠に落ちた土岐康行の乱に、濃尾の国人侍も巻き込まれ、康行に味方し没落して行った者もあったが、林通兼の一族は足利義満の命令で、讃岐の細川頼之を討つべく兵を挙げ、伊予佐志久原で破れ四散した、伊予河野通直四十八族の一人河野通高を、足利義満の計らいで、通兼の孫林通祐の娘婿に迎え、足利義満が推す西池田の土岐頼益に従う事で、命脈を保ち、新守護になった頼益も林を頼った。 そのような応永六年(1399)十一月、康行の乱で康行に味方した土岐詮直が、周防大内氏と同心して、七百余騎が尾張国に討ち入り、美濃革手城に近い長森城に攻め込み、東濃の遠山氏や、西濃土岐頼康の孫康政の池田勢も、詮直勢に馳せ加わった。 美濃守護となった土岐頼益は、林通高・通村・通雄ら美濃の国人侍と共に和泉の陣にいたが、これを聞いて急ぎ馳せ帰り、時をおかずに土岐詮直勢に押し寄せた。 土岐詮直・池田、周防勢が一緒になり、頼益勢に立ち向いさんざん戦い、詮直勢は二百人あまりが討死して敗れた。 長森城に退き、立て籠もって戦ったが、土岐頼益や林通祐・通高・通村・通雄らに攻め落とされ、主立つ者の首三十六をとられた。 その時の林通祐の働き、大力量で勇猛絶倫衆に勝り、よって世人は通祐のことを、その時より鬼太郎と呼んだ。 土岐頼益は八幡の義満のご陣に進上して、少なからぬご感を被り、この戦いで滅んだ美濃兼山の名門稲葉通資の跡を、林通祐が継ぎ稲葉を称し兼山に住んだ。 養子と成った通高は、細川頼之牽制のため、伊予に幕府の勢力を残したい、足利義満の計らいで、細川に奪われた土地と、土岐の美濃軽海土地を交換し、稲葉通高と名乗って軽海の明城に住んだ。 土岐は交換した伊予の土地を拠点に、細川を牽制するよう義満に申し渡されたが、文書には義満にお願いして交換してもらったと書かれた。 林は通祐の弟通村が、安八郡林村四百石の領地を得て、林の家名を継いだ。
大垣市林町の林氏、 林町宝林山顕性寺由来に拠ると、平家物語で有名な平景清の子孫が、景直・景成・景顕と続き、景顕の時、母方の伊勢員弁郡志知郷の林信正の林を名乗り、林重左衛門主馬允景顕とし、北条経時に使え家宝の薬を献じ、経時死後、時頼より美濃大井荘の一角を、褒美としてもらい、名字をもって林郷と付け、耕して領地とした。 信長公記にある、景清怪刀の出所は、この一族からで出たのではないか。