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ノート:枕詞

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歌枕の一覧があり、ほぼ同義の歌枕の記事と統合すべきだと思います。 どちらを残すかの議論もあると思いますが。--Washisama 2005年3月27日 (日) 18:11 (UTC)[返信]

枕詞と歌枕は全く異なる概念なのでは?--ウミユスリカ 2005年12月24日 (土) 00:05 (UTC)[返信]


ってゆーか流石に古代朝鮮語っていうのはウソだろ。ソースだせソース。

最近は、土地神などへのほめ言葉が起源となって、文学的な修辞に変化したとする説が有力となっているようです。たとえば、「あすか」という土地の土地神へのほめ言葉が「とぶとりの」という風なものが起源というわけです。加筆したいですが、ちょっと持病などで体力的ゆとりに乏しいので、少々お待ちください。このあたりに詳しい方がいらしたら、加筆してくださって結構です。--ウミユスリカ 2007年5月12日 (土) 11:35 (UTC)[返信]
追記すると、国文学の学術的専門書であるとか百科事典でも比較的版の新しいバージョンでは、この「ほめ言葉起源論」を容易に知ることができるのですが、まだ一般向けの啓蒙書、学校教科書や副読本などではあまりみかけず、「意味を持たない修辞」としか書いていないことが多いのが実情です。また、白川静さんの漢字研究への昔からの風当たりなどを見るにつけ、一昔前は特に、また今日でもある程度、古代文学における呪術の影響を議論することに対するかなりの風当たりがあるように見受けられます。そういうことを背景に、「意味を持たない」とする一般的説明にロマンをかき立てられた数多くの人々が謎解きに挑戦し、そこに的外れなやり方で強引に意味を探していく向きの研究が、在野の研究家を中心に盛んに行われたようです。そういう文脈で確かに「古代朝鮮語起源説」というのがあるのは確かであり、研究史的な議論においてある程度言及する必要もあるとは思います。--ウミユスリカ 2007年5月12日 (土) 11:54 (UTC)[返信]
韓国起源説は紹介しなくてもいいと思いますけど。こういったものは枚挙に暇がありませんし。--43.244.202.22 2008年2月11日 (月) 23:02 (UTC)[返信]
いや、これは柔道やら剣道などで最近になって騒がれるようになったいわゆる「韓国起源説問題」とはちょっと一線を画していいんじゃないかと思うんです。というのも、1080年代1980年代ぐらいだったかと記憶しているんですが、韓国の学者や作家だけでなく、日本の外国語学習グループのヒッポファミリークラブでも独自に古朝鮮語起源説を検証して本を出したりしています。むしろ大野晋の日本語タミル語起源説などが提唱されて市民レベルのブームを引き起こしたりした日本側の時代の気分とか空気とかなり密接な関係がありそうなんですね。その流れで、むしろ日本側から提起された古朝鮮語起源説のことも書き添える必要が(全体とのバランスを欠くことがないようにしなければなりませんし)あるかもしれないとも思うのです。--ウミユスリカ 2008年2月11日 (月) 23:25 (UTC)[返信]
なるほど、剣道のそれとは確かにちょっと違うみたいですが、学説としてほとんど支持もされてないものを載せようとしたらキリがなくなる恐れもあると私は思います。やや話は逸れますが、>日本の外国語学習グループのヒッポファミリークラブでも独自に古朝鮮語起源説を検証して本を出したりしています。むしろ大野晋の日本語タミル語起源説などが提唱されて市民レベルのブームを引き起こしたりした日本側の時代の気分とか空気とかなり密接な関係がありそうなんですね。このことと枕詞が古代朝鮮語由来であることの信憑性(ウミユスリカさんは上の文を根拠として用いていないことは重々承知ですが)とは全く関係ありませんよね?日本から提唱されようが朝鮮からされようがどうでもよくて、一番の問題はその説に信憑性があるか否かだと私は考えます。広く伝播している説なら偽説でも紹介されるべきだとは思いますが、この件に関してはそうも思えませんし。たとえばインド辺りから、「枕詞はインド起源だ」という説が発表されたら「バランスをとる」ために根拠がなくてもこれも載せるでしょうか?むしろ、広く知られてもいない根拠薄弱な説を載せる方がバランスを欠いているように思えます。う~ん、長くてすみません。--43.244.202.22 2008年2月12日 (火) 02:31 (UTC)[返信]
ちょっと私の書き方が悪かったんですが(本当は「バランスを欠くことがないようにしなければなりませんが」と書くつもりだったのです・・・)、私の言いたかった「バランス」とは、学界でそれなりに可能性が評価されている学説というわけでもないからことさら大きく取り上げるべきでもない代わり、ことさら除去すべきものでもないのではないかなという辺りにあります。というのも、私の記憶ではヒッポファミリークラブの外国語学習の副産物として、いろいろと意欲的な出版がされていた時期には、それなりに市民の注目を集めていたように思えるのですね。今とはだいぶ世相の異なる80年代末のことですが。それと、実際には呪術的な意味が元来あったという今日の有力仮説がかなり古くから提唱されていたにもかかわらず、「それ自体に意味がない」という「国語教科書的」説明への疑念・反発からか、いろいろとユニークな仮説が昔から出されていたんですね。一例を挙げると在野の考古学者として糸島遺跡などの発掘で活躍した原田大六は、弥生時代の宗教儀礼に用いられた祭具のあり方に関する記憶がルーツになっているという仮説を提唱しています。ですから、さらに「バランス」という点から、こうした今日学界では否定的に捉えられている多用な仮説が提唱されてきた歴史を説明する中で、その中のひとつとして「古朝鮮語起源説」というのもあるのだということを取り上げる意味もあるのではないかと思うわけです。--ウミユスリカ 2008年2月12日 (火) 06:53 (UTC)[返信]

「加筆してくださって結構です」とのお言葉に甘えて文章に手をくわえさせていただきました。趣旨に沿わない場合はご訂正ください。--Zerozeros 2008年2月9日 (土) 07:49 (UTC)[返信]

ありがとうございました。かなり充実した記事になってきたと思います。あと、「人名」よりも「神名」のほうが一般的だったんじゃないかなという気もするのですが、手元にあまり文献を置いていなくてちょっと自信がありません。--ウミユスリカ 2008年2月11日 (月) 23:25 (UTC)[返信]

記紀歌謡の例ですと、人名(主として天皇)と神名のどちらもあります。ですので、正確を期すなら「神名や人名」とすべきかもしれません。また、うえの古代朝鮮語語源説は、(信用できるか否かとは全然別の問題ですが)藤村由加・小林惠子をはじめ、1990年代前半くらいに随分と流行したものですから、紹介するのはありじゃないかな、と思います。説として認めるられるとは思えませんが、市民権を得たのは事実ですし。以上、感想めいたことを述べました。--Zerozeros 2008年2月14日 (木) 18:00 (UTC)[返信]

中立性について

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藤村氏の著書について、脚注で書かれているのは219.98.150.221さんでしょうか? 事実誤認ではないかと思われる箇所があるので、その旨をここにのべておきます。「万葉集の初期と後期とでは、400年という長い時代の幅があり、後期の万葉仮名を初期の和歌に当てはめるべきではないという」とありますが、(もっとも、これは藤村氏の所説の概略でしょうが)確かに万葉集には仁徳天皇の「妹」(現在の意味での妹か、恋人の意味かは不明ですが)とある人物のうたがあり(巻4・486番歌)ここから家持の天平宝字3年歌(759年・4516番歌)までを含めれば確かに400年ということになります。しかし、実際の万葉集をみていくと、舒明天皇以前の歌というのは、冒頭歌(雄略天皇)を含めてほんの数首しかなく、実際には舒明天皇以降のうたを載せたものがほとんどです。つまり、万葉集の資料となったものというのは、基本的には舒明朝以降のもので、家持までを射程におさめても150年ほどとなります。また、巻1から巻20まで一貫して使われている万葉仮名はすくなくなく、助詞の「の」にあたる「之」や、おなじく助詞の「は」にあたる「者」などが代表的な例ですが、こういった例だけをあげても、万葉集の前半と後半を違う態度で訓読するということは、まず考えられないことと思われます。とくに巻1・2(藤村氏のいう古い歌がおさめられている巻ですが)の表記が、巻として統一性が極めて高いことは、稲岡耕二『萬葉表記論』などが詳細に説くところです。
しかも、近年の木簡等の発見で知られるように、万葉仮名(あるいは真仮名)の使用というのは飛鳥時代までさかのぼれることが確かめられており、これは前期の万葉の時代と合致します。ですから、「万葉仮名がまだしっかり成立していない時代の和歌もすべて万葉仮名で解釈する」という論法自体が成り立たないわけです(もっとも、これは藤村氏の著作が出されて以降の成果ですので、氏のあずかり知らぬところではありますが)。
藤村氏の著作の論法には、わたしはそもそも無理のあると思うものですが、著作の批判についてはあえておこないません。しかし、以上のような日本語書記史を考慮するだけでも、氏の説の前提が成り立たないものであることは、認められるであろうと思います。
そのうえで「しかし、彼女の説は学界からは黙殺されている。現在の学界の主流派の考え方は、万葉仮名がまだしっかり成立していない時代の和歌もすべて万葉仮名で解釈する、というものだ」というような批判的な文言ははぶいたほうがよいのではないでしょうか。藤村氏の説を紹介するのは賛成ですが、それに反対する学会が問題がある、というような書きぶり(と私には読めました。誤解でありましたら、申しわけありません)はあまり見ていて気持ちのよいものではないと思います。また、黙殺とありますが、安本美典『朝鮮語で『万葉集』は解読できない 』のようにこの問題にふれている著作もあります(安本氏は万葉集の専門家ではありませんが、日本語研究の専門家)。逆にいえば、藤村氏が学会の成果を「黙殺」しているともいえます(氏はうえの『萬葉表記論』などにこたえてはいません)。なによりも、漢字表記というのは、あくまで歌を書くための便宜なのであって、歌が口に出して詠まれるものであるという点をなおざりにしてはならないと思われます。漢字の意味、というのは、書いた際の結果なのであって、歌そのものの本質とはかかわらないものです(もちろん、万葉集には読み手を意識した漢字表記の例は沢山ありますが)。
以上のような点を考慮しますと、すくなくとも「しかし、彼女の説は」以降は削除される方がいいのではないでしょうか。--Zerozeros 2008年9月8日 (月) 15:45 (UTC)[返信]


脚注17については、上記の理由によって削除しました。問題があると思われた場合には、その旨連絡いただければ幸いです。--Zerozeros 2008年9月18日 (木) 07:58 (UTC)[返信]