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ノート:松葉会

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  • 「義侠ヤクザ伝 松葉会」(竹書房)によると、「土建業『関根組』の看板を掲げた」と書かれていますので、そう表記しました。
  • 「義侠ヤクザ伝 松葉会」(竹書房)によると「昭和四十年十一月『松友会』として再結集した」と書かれていますので、そう表記しました。--竜造寺和英 2007年1月2日 (火) 07:34 (UTC)[返信]

「この頃より傘下の組員の中でも幹部クラスの活動は、芸能社、右翼団体、株主総会の総会荒らしと多岐に渡った。 「王子製紙」、「近江絹糸」の騒動にも介入した。珍しいのは「競売屋」なる職業であり、一時は東京の地方裁判所で不動産物件が競売にふされる会場に素人の人間が入れない有様であった(競売不成立で安く物件を手に入れるのが目的)。」と書かれていますが、出典のご明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月6日 (火) 09:34 (UTC)[返信]


「関根から盃を下ろされた乾児の数は一説に4000人といわれる」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月28日 (水) 06:54 (UTC)[返信]


「同年11月、王子製紙の株主総会で、総会屋の嶋崎栄治と総会屋の小川薫の両派が乱闘となった。その後、嶋崎栄治が松葉会・菊池徳勝を後見人に立て、小川薫が二代目共政会・服部武会長を後見人に立てて、手打ちを行った」と云う記述は、溝口敦『撃滅 山口組VS一和会』講談社<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9のP.153に因ります。--竜造寺和英 2007年3月28日 (水) 06:54 (UTC)[返信]


「昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた」、「昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた」、「同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった」と加筆しましたが、検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.221~P.222です。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 08:30 (UTC)[返信]


「その後、関根組組員・木津政雄は、関根実の若衆に刺されて瀕死の重傷を負った。関根組組員・藤田卯一郎は、関根組事務所に顔を出したとき、藤田の舎弟・石渡幸吉から、木津政雄が重体であることを知らされた。藤田卯一郎は、関根実への報復を押しとどめて、石渡幸吉とともに、関根組若衆の運転する車で、木津政雄が運ばれた病院に向かった。藤田卯一郎は、瀕死の木津政雄に五分の兄弟分になろうと声をかけた。それから、木津政雄は死地から脱した。すぐに、藤田卯一郎は、木津政雄と兄弟分になった。

このころ、関根組の若衆が、他の組にさらわれた。藤田卯一郎は、出かけていた先で、この事件を知った。藤田卯一郎は、関根組には帰らず、、関根組若衆の救出に向かった。藤田卯一郎の舎弟2人が、藤田の跡を追った。相手の組事務所前には、ドスや木刀や日本刀を持った者が、数十人待機していた。藤田卯一郎は、ドスを手にして、単身で、相手の組事務所に乗り込んだ。相手の組長は、藤田卯一郎が乗り込んできたことを知って、回りの者に手を引かせた。相手の組長は、藤田卯一郎に、関根組若衆を返した。

このころ、藤田卯一郎が1人で吉原に遊びに行ったとき、愚連隊・大木ら5人にハイダシ(無心を装った恐喝)をかけられた。藤田卯一郎は、大木ら5人に対して、堅気にはハイダシを止めるように言い聞かせながら、金を渡した。翌日、大木は、兄貴分の関根組組員・和泉武志の東京・浅草の事務所に顔を出した。その後、藤田卯一郎が、和泉武志の事務所を訪れた。大木は、和泉武志に、藤田卯一郎に対してハイダシをかけたことを告白した。和泉武志は、藤田卯一郎に詫びを入れた。藤田卯一郎は、笑って、大木を許した。その後、大木は関根組組員となった。」と加筆しましたが、出典は、山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9のP.17~P.20とP.23~P.26とP.119~~P.123です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月13日 (水) 06:43 (UTC)[返信]


山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9のP.123~P.174を出典として加筆修正しております。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月14日 (木) 09:24 (UTC)[返信]


溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社、2000年、ISBN 4-06-256445-9のP.139を出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月26日 (火) 02:20 (UTC)[返信]


山平重樹著『ヤクザ大全』(幻冬舎アウトロー文庫、1999年) - ISBN 4-87728-826-0を出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年7月3日 (火) 09:10 (UTC)[返信]

各組の歴史について 

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暴力団ミニ講座19)上納金には、「暴力団社会は富も権力もすべて親分に集中する仕組となっており」と書かれています。暴力団は階層的な社会であり、トップである当代は、配下の組員の生死の権限までも握っています。従って、実質的に暴力団は、そのときの当代の私物です。こう考えると、暴力団の歴史と、そのときの当代の来歴は、完全に一致していなければいけません。もしも暴力団と関係のない記事ならば、当然当代の関知しないことであり、当代の来歴にも登場しないはずです。また、当代と関係のない記事ならば、当代が関与したことではないために、暴力団にも登場しないはずです。それで、暴力団の歴史と当代の来歴にリンクさせ、「暴力団の歴史」の記事では、当代の記事へのリンクを表示するのみにするのは如何でしょうか?もちろん、当代の記事がない部分は、当代の記事が出来上がるまで、そのままにしておくしかないのですが。--竜造寺和英 2008年2月26日 (火) 09:27 (UTC)[返信]