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ノート:松江騒擾事件/過去ログ2

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加害者・被害者の実名について

Wikipedia:削除の方針 - ケース B-2との関わりが懸念される可能性もありますので、事前に被害者・加害者の実名について、初稿を担当しました私が記入しておきます。この事件は既に63年経過しておりますが、当時20前後の方々が引き起こした事件ですので、関係者の方がご存命である可能性も考えねばなりません。本稿では以下の理由から、加害者・被害者ともに実名を記載しました。

【加害者側について】

  • 「昭和維新」という政治目的を組織的暴力で達成しようとしたテロリストであり、Wikipedia:削除の方針 - ケース B-2:プライバシー問題に関しての例外「テロリストの実名」に該当すること。

【被害者側・その他の人物について】

以上の考えから、名前を掲載しても問題ないと判断し、記述を致しました。--ZERO 2008年4月17日 (木) 03:24 (UTC)


「独自の研究」ですが参考用メモ

立項して以降、いろいろなところでこの事件に関する資料や証言を集めましたところ、松江騒擾事件の直接の関係者ではないのですが、東京にいた当時の岡崎氏や、周辺の情報をよく知っている方にお話を聞くことができました。当然のことながらWikipediaでは既存の情報源には掲載されていない情報は記載不可能ですので、本文に掲載はしませんが、この事件をより深く知るために参考になる話が多かったので、多少ぼかしつつ、ここに記載しておきます。

東條や一木喜徳郎の殺害を計画していたような人は岡崎氏以外にもたくさんいたようです。街角には『米機撃墜・英機撃墜』という標語なんかも貼られていて(「イギリスの戦闘機」と「東条英機」をかけている)、むしろどの青年グループがやれるのか競っていたような状況ですらあり、岡崎氏は本文にある手榴弾・短銃以外に、爆弾なども入手していたそうです。私がお話を聞いた方も、東条を殺すためにいろんな工作をやったそうです。しかしながら殺す理由については、宇垣の更迭が必ずしも全ての人間の殺害計画理由とは限らないようで、お話を聞いた方は「宇垣は軍縮を進めていたからね、それは考えていなかった」とのことでした。それで、資料間で「斉藤」か「実藤」かで記載がわかれている方は、正解は「実藤(さねふじ)直幸」さんだそうですが、一応最新の論文では「斉藤」さんになってしまっているため、こちらを優先してあります。この方はユダヤの研究会をしていたようですが、それがなぜ東条打倒につながっていったのかはわかりませんでした。

2008年現在、やはりリーダーの岡崎氏は亡くなっているということでした。その他首謀者の方も、実名でインタビューも受けていることから、いろいろな本で実名を公表されていることもご承知だそうです。ただ『電話番号や現住所』が出るのは困る、とのことです。

以上、「独自の研究」ですので、信じるか信じないかは自由です。また、松江市にも実際訪れました。松江護国神社に行きましたが、どれが「皇国義勇軍が集結した椎の木」なのかはちょっとわからなかったため、遠景で写真を収録しました。--ZERO 2008年8月24日 (日) 13:51 (UTC)

当時をご存じの方に再度お話を伺うことが出来たので、やはり独自の研究ですがメモとして置いておきます。岡崎功氏が勤皇まことむすびに所属していた、と既存の辞典には書かれているんですけれども、本当は「勤皇まことむすびと関わりはあったけれども正式なメンバーとして登録されているわけではなかった」そうです。しかし現状の情報源では所属していたと認識されているので、そう書かざるを得ないのが実情ですのでご理解下さい。また、その関係で出てくる岡崎氏の中学時代の友人の名前は「広江孤文」さんではなく、本当は「広江文」さんという方で、戦争でこの方は既にお亡くなりになられているそうです。多分誤植が直されないまま今日に至っているんでしょうけれども、これを直すと独自の研究になってしまうので、直せません。どなたか、信頼できる情報源で修正されている例をご存じでしたら、今後お知らせいただければと思います。--ZERO 2008年10月6日 (月) 21:27 (UTC)

出典にドキュメントを使用していることについて

出典にドキュメント(猪瀬氏・林氏)を使用していることについて、出典を論文のみに限るべきではないか、といった質問・疑問が予想されるため、判断材料を下に記しておきます。

  • これは私小説の類ではなく、首謀者本人に対する取材および事件当時の資料に基づいて作成されている。
  • この2書はそれぞれ独立し引用・被引用の関係にはないにもかかわらず多くの内容が合致し、相互に信頼性を補完する関係となっていること。そして既存の事典類とも矛盾点は少ないこと。
    • また、この2書の内容に合致点が多いのは、記述の論拠のひとつとして、岡崎功『回想録』および同氏へのインタビューを利用していることによる。なお、岡崎功『回想録』は、日本国内の国公立の図書館の検索などには一切見あたらず、古書店にも全く見あたらないことから、岡崎氏の自筆私蔵本ではないかと推測するが、想像の域を出ない。
  • 事件の首謀者に対する実名の直接取材のもとに構成されており、首謀者が死去した現在においては2度と手に入らない情報を多分に含んでいること。
  • 2書のうち1書は、中世史の網野善彦からその手法に関して高い評価を受けていること。
  • 論文のみに限った場合、この事件に関する情報全体からみて、極めて僅かな内容の情報しか説明できなくなってしまい内容を充実させることができなくなってしまうこと。また、この事件に関する論文は「既存の書籍・県史等をまとめ再構成したもの」であり、新出の資料や聞き取りによる分析ではない。突き詰めればその情報源の水準は、他のものとほぼ同一となる。

以上です。--ZERO 2008年8月24日 (日) 14:29 (UTC)


  • 『自決と玉砕-戦時下の日本人』 安田武(朝文社1993)、pp281~297「岡崎功の自殺未遂と島根県庁焼打事件」(郡山政弘)には、『大勢新聞』「岡崎功回想録」昭和35年3月31日号より抜粋、との記載あり。巻末に文献目録あり。--MicNK
ご指摘ありがとうございます、大変参考になりました。『大勢新聞』の記事ですか、どおりで見あたらないはずだ・・・(一応コピーの手はずは整えましたが、あんまり現物の状態が良くないようですね。)--ZERO 2008年10月19日 (日) 19:49 (UTC)
「岡崎功回想録」および『吉田松陰留魂録』、共に閲覧致しました。また、あらたにいろいろ資料を入手しましたので、加筆できるところは加筆していきます。
岡崎氏の学歴なんですが、「立正大学卒」を不審に思う人がいるようです。しかし、あの当時学生だった方は、戦後もう一度大学に入り直している場合が結構あるので、そのへんはもうちょっと調べてみる必要があるように思います。
さいごに、MichiKさんはMicNKさんと同一人物だと推察いたしますが、文末の署名は手書きでするのではなくて、Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をするで記された方法で行うようにお願いします。今回のように間違った署名になってしまう場合があるので、お願いいたします。--ZERO 2008年12月20日 (土) 09:45 (UTC)

年号・法律用語の修正に関して質問

Awalinさんの修正についていくつか質問がありますので、お答えいただければ幸いです。 

  1. 全て西暦を優先して修正されているが[1]、Wikipediaにおいてこの点に関する明確な合意はあるか
  2. 被告→被告人、拘留→勾留の記述修正[2]は、各文脈における当時の法律においても妥当なものであると断言可能か(各資料においては被告・拘留とされている)
  3. 上記に関連し、石橋秀野の句集からの引用文も「被告→被告人」と修正されているが[3]、これは正確な引用の妨げとなるものではないか

以上3点です。よろしくお願いします。--ZERO 2008年9月6日 (土) 07:45 (UTC)

お答えします。
  1. 年号の表記については、Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間により、「西暦年(年号年)」とすることが推奨されています。特に支障もないので、かかる編集を行いました。
  2. 法律用語では、「被告」は民事訴訟について用いられ、公訴を提起された人については「被告人」の語を用いることとされており、また、「拘留」は短期の自由刑を指し、未決期間中における身柄拘束である「勾留」と区別して用います。これらの用語については、改正前の当時の刑法・刑事訴訟法においても変わりません。
  3. この点は、元の引用文通り「被告」のままにすべきであったと思います。
以上。--Awalin 2008年9月11日 (木) 12:29 (UTC)
お返事ありがとうございました。改めて気づかされましたが、1については現状ではガイドライン化されていましたね。Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 日本史#年号表記に付いての状況進展をみまもりつつ、今後ちょっと考えていかなければならない点かもしれないな、と思っています。2、3についても安心いたしました。--ZERO 2008年9月15日 (月) 04:34 (UTC)

年齢表記について

年齢表記について:岡崎功は事件当時、満25歳、数え年26歳。桜井三郎右衛門は満41歳、数え年43歳。満年齢に統一すべき。—以上の署名の無いコメントは、MicNK会話履歴)さんが 2008年9月22日 (月) 11:51 (UTC) に投稿したものです。

ご指摘ありがとうございました。岡崎氏、桜井氏については「満年齢」で統一しました。ただ、その他の方は生年月日が確認できません。情報源ではどちらかで統一されているのか、それともそこだけ誤植なのか区別がつきませんので、とりあえずそのままにしてあります。--ZERO 2008年10月6日 (月) 21:27 (UTC)

記事内容に関する質問

秀逸選考のページから来たものです。この事件については全く知りませんでしたが、大変興味深く読ませていただきました。何点か疑問点・提案がありますので、執筆者の方にご検討いただければ幸いです。

  1. 冒頭部分に、「男女数十名が武装蜂起」という情報を入れるのはいかがでしょうか。同じ蜂起でも数十名規模のものと数百名規模のものでは違いますから、最初のイメージがつかみやすいように思います。
  2. ところどころ、一つの段落に全く脚注がない場合がありますが(例えば「放送局における集結・蜂起の終了」の最初の3段落)、どこからどこまでがどの文献でカバーされるか、分かりにくいのではないでしょうか。文献情報は重複をいとわず各段落末尾に付した方がよいのではないかと思いました。
  3. 関連しますが、脚注は、参考文献リストに載っているものなら「林○○ページ」とか「林 (1987) ○○ページ」のような簡略な形でもよいのではないでしょうか。
  4. 「警察・県当局の動き」の項、第1文ですが、「当時は……対策を行うことを口にしながら」の主語は何でしょうか。警察当局全体を指すのか、警務課のことについて言っているのか、やや分かりにくかったので明示いただければ幸いです。
  5. 「世間の反応・報道管制」の項、25日付け朝日新聞の説明ですが、画像を見ると「わずか7行」には見えないのですが、この点はどういう趣旨なのでしょうか。
  6. 「公判」の項、第1文には初公判が「11月8日」とされているのに対し、直後の「決起の動機」の項では「翌日11月7日の第2回公判」となっていますが、これは誤記ではないでしょうか。
  7. 同じく「公判」の項、第2段落に「三島裁判長」とありますが、おそらく「三瀬」が正しいのではないでしょうか。
  8. 「検事側からの位置付け」の項、「求刑の検事論告書」とありますが、このような表現は当時一般的だったのでしょうか。現在の法律実務を前提にすると、「検事は検事論告書を読み上げ(た上で)、求刑を行った」のような使い方が自然のような気がするのですが(論告の最後の部分が求刑というイメージ)。あるいは「求刑の検事論告書」とは別の検事論告書があったのか……。この点ご説明いただけると幸いです。
  9. 「松江地裁裁判長から見た印象」の項、「松江地裁の裁判長」とありますが、地裁には通常裁判長は何人かいるでしょうから(所長とは異なる)、「(松江地裁の)担当裁判長」あたりが適当ではないでしょうか。

以上、細かいことばかりで恐縮ですが、これらの疑問点が解消されれば秀逸記事として何の問題もないと思いましたので、ご検討いただければ幸いです。--ゴーヤーズ 2008年10月5日 (日) 01:27 (UTC)

執筆者のZEROです。ご覧いただきましてありがとうございました。
  1. 加筆してみましたが、いかがでしょうか。
  2. 「どこまでがどの文献でカバーされるか」は、この記事については「段落を超える・越えないを問わず、その情報源から引き出した当該文脈の終端に脚注をつける。その後ろからはまた新しく同一の原則に基づいて脚注を付ける。本文の()内についた脚注は()内のみの出典にとどまる」という一貫した思想で記事が出来ていると考えて下さい。たとえばこの「放送局における集結・蜂起の終了」の最初の3段落については、段落を超えて「〜とりとめた」までが同一の情報源です。Wikipediaのなかには、ゴーヤーズさんのような意見がある一方で、「脚注を多く付けると見づらい」という意見も今だ根強くありますので、当記事作成時には、この点についてかなり腐心して脚注を付けたつもりです。そういう眼でもう一度見ていただければ、「一つの段落に全く脚注がない」のではなくて「後ろについている」ということが解ると思います。
  3. これについては選考でもご意見をいただきましたので、変更いたしました。
  4. これはどっちともとれます。島根県警防課長兼警務課長は、「吾々は口癖のように『警察は万全の対策を行わねばならない』と言っていた」(文章構造要約)、とのことなので、「吾々」を警察全体と見るか、警務課のみとみるかで変わってきますが、ちょっと断言はできません。
  5. 8月25日と9月25日の違いで誤認されたかと思うので、ちょっと加筆しておきましたが、いかがでしょうか。
  6. 申し訳ありません。誤記です。修正いたしました。
  7. 三瀬です。直したと思っていたのですが直しきれておりませんでした。訂正いたします。
  8. 「当時一般的だったか」ということについてお答えできませんが、情報源となる論文には「求刑の検事論告書が読み上げられた」(中川 (2002) 、125ページ)と間違いなく書かれています。ただ順番はゴーヤーズさんの言われるとおり、最後に求刑をしていることも間違いないです。当時の裁判制度に照らし合わせて問題であるということであれば、文意を損なわない形で書き換えていただいてもかまいません。
  9. ご指摘の通り、変更いたしました。
以上です。まだまだ疑問点などありましたらお答え致します。--ZERO 2008年10月6日 (月) 21:27 (UTC)
  • 丁寧に対応していただきありがとうございます。朝日新聞のところは私の誤読でしたが、書き換えていただいたおかげで分かりやすくなったと思います。求刑の検事論告書についても了解しました。出典にそのとおり書いてある以上は、あえて書き換えるほどの理由もないと思いましたので私の方では手は加えないことにします。--ゴーヤーズ 2008年10月6日 (月) 23:13 (UTC)

以上の質問者の方とは別人ですが、一点、気になったところがあったので、便乗して質問させていただきます。

  • 「裁判所所長や検事正の令嬢らを女子挺身隊員として選出、令嬢らが女子挺身隊となることを地元新聞にリークして大きく報道させた。署長や検事正はこれに激怒し岡崎を恫喝したが、岡崎は引き下がらなかった」の部分について、「署長や検事正はこれに激怒し」は、「所長や検事正はこれに激怒し」の変換ミスではないでしょうか。そうではなく、「署長」で正しいのであれば、誤解がないよう、どうして「署長」が出てくるのか、わかりやすく明記された方がよいように思います。

ご検討いただけたら幸いです。--98.212.169.210 2008年10月5日 (日) 21:27 (UTC)

ご覧いただきましてありがとうございました。これは署長のままで間違いありません。加筆したのでわかりやすくなったかと思うのですが、どうでしょうか。--ZERO 2008年10月6日 (月) 21:27 (UTC)
 なるほど、私の誤読でしたね。すみません。でも、よりわかりやすくなったかと思います。--98.212.169.210

「後世の評価」について

秀逸な記事の選考において、条件付賛成票を投じた者です。その後のゴーヤーズさんとZEROさんを始めとするやりとりを踏まえた加筆も申し分なく、本記事がわれわれWikipedianにとって模範的な記事に仕上がっている点に異存はございません。ただ、やはり投票時に述べた点――すなわち、「後世の評価」節において、一介の元新聞記者が大学紀要の類において述べた心情論的評価ならびに同氏による当時の日本社会に対する時代診断を掲載することの意義――が気になりますので、大変恐縮ながら、(私の今後の記事作成の参考にさせていただくためにも)この点、皆様にお伺いできれば幸いに存じます。

事件発生以降、敗戦の廃墟と失意の状態から立ち上がった日本と日本人は、復興期、高度経済成長期を経て経済大国となった。しかしバブル経済の反動による長期不況の時代に入り、そこから脱出せずに停滞している。巨額の不良債権がもたらした金融不安からでさえ脱出できない様相であると、当時の日本の状況について指摘した。……事態からの脱出・解決へと向かった皇国義勇軍の「姿勢」は、戦後の現代人が忘れてしまった、物事に敢然と挑戦する「生きる姿勢」といえるのではないか。(「松江騒擾事件」 2008年10月7日 (火) 02:55版より引用)

具体的には以上の記述を「後世の評価」として百科事典に掲載する意義についてです。たとえば(社会的知名度がほとんどない)私が自分の大学の紀要なり地方学会誌に(それほど有名でない)事件について論文を発表し、そこで書いた何かしらの「心情論的」評価が、とくに社会的ないし学術的に注目を集めたわけではないのに、(Wikipediaとはいえ)百科事典に「後世の評価」(のひとつ)として掲載されたと考えると、どうにも落ち着かないものがあります。いかがでしょうか。--Clem 2008年10月11日 (土) 13:54 (UTC)

ZEROです。選考の方でご意見をいただいていたのは承知しておりましたので、これについてお返事を書いていましたら4000字を越えそうになってしまいましたので、ヤキモキされるのもと思い、以下にエッセイ的に書いておきます。要はWikipedia:中立的な観点Wikipedia:信頼できる情報源(草案)にかかわる問題です。
とても平たく言いますと、Wikipediaには、様々な記事が様々な情報源を元にして載っていますよね。そうした状況において、松江騒擾事件の記事内の「一介の元新聞記者が大学紀要の類において述べた心情論的評価ならびに同氏による当時の日本社会に対する時代診断」の部分について「のみ」をなぜ除去せねばならないか、という点を、どれだけの説得力を持って説明できるかを、突き詰めて考えるべきだと思うのです。
Clemさんのたとえで言うところの「社会的ないし学術的に注目を集めたわけではない」から削除するならば、
  • 「社会的ないし学術的に注目を集めた」かどうかを、何をもって選別するか。
  • (仮に選別できたとして)Wikipedia:信頼できる情報源には「より信頼できるのは、学術団体が関与しているもの」とあるため「『学術論文の情報でさえ「社会的ないし学術的に注目を集めたと言えない」なら、学術団体の関与していないドキュメントの情報など当然使用するに値しない』という論理も通ることとなり、その結果ほとんどの文章を除去することになるが、その結果残った数行の文章で「記事が充実している」と言えるのか。
等々の疑問に答えなければならないですけれども、これについて明確なお答えを私自身は用意できません。
「執筆者の社会的(もしくは学術的)知名度」や「有名かどうか」といった点は、常に他の情報源との比較で語られるべき問題だと思います(Wikipedia:信頼できる情報源)。
Clemさんのたとえを使わせていただくと、Clemさんが自分の大学紀要に「心情論的」評価を書いたとして、それが『桶狭間の戦いについての「心情論的」評価』だったら、他の桶狭間の戦いに関する多数の情報源と研究史等の比較によって、Wikipedia:中立的な観点の「複数の観点を比較する記事では、少数派の意見についてより広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はない」という言い方をもって除去が可能かもしれません。
しかしながら、この論文のこの部分は、この事件に関してのほぼ唯一の論文の(枝葉の部分や註の部分に書かれていることではなく)「おわりに」の大まとめに書かれていることなんです。それを除去するのは、ちょっと難しい。
Clemさんのご意見は心情的には理解できますし、私も同感ですが、正直世の中の研究がそれに追いついていっていないので、もし除去する方向に持って行くならば、「これは少数派の意見だ」と言えるぐらいになるまで、研究の発展を待つしかないのかな、というのが正直なところです。--ZERO 2008年10月12日 (日) 07:40 (UTC)
ZEROさん、丁寧なご解説をいただき、まことにありがとうございました。大変、恐縮であります。さて、アカデミズムに属する人間としては、「心情論的な評価や感想を記してしまうような論文は、とてもじゃないが学術論文と呼べる代物ではねえぞ」との判断が第一にありました。おそらくは、件の論文に対するそうしたネガティブな主観的評価が私の中にあったことが、今回の疑問提示の背景にあったと考えます。
しかし、ZEROさんがお示しくださったように、Wikipediaでは、Wikipedia:信頼できる情報源を満たしており(名誉毀損に関わるおそれもなく)、その主題に関する複数の情報源がない状況であれば、「ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができ」(Wikipedia:信頼できる情報源)るのであって、編集者は単一の情報源の中身について絶対的な(つまり相対的ではない)評価を下してはならないことを理解致しました。別言すれば、通常の百科事典とは異なり、編集者が自らの主観的評価に基づく掲載基準を定めてはならず、その掲載情報の価値は読者の主体的な判断に委ねることになっているのだと。
以上のような理解でよろしいでしょうか(誤りがあれば、忌憚なくご指摘いただければ幸いです)。--Clem 2008年10月13日 (月) 13:45 (UTC)
私もWikipediaに対する考え方がまだ一定しているわけではなく、右往左往しながら考えを固めています。2、3ヶ月前の自分の考え方ともかなり違ってきていますので、本当にこれでいいかどうかはまだ確認が必要ですが、基本的な私の思考の方向性はClemさんと同じです。2点補足しますと、
1点めは「その主題に関する複数の情報源がない」という前提条件の部分で、もし本当に「複数の情報源がない」ならばWikipedia:特筆性の点から立項が難しいはずなんです。
もうひとつは、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは単なる知識ベースではありませんの「情報を無差別に収集する場ではない」という点とどう折り合いを付けるかという点。Wikipediaには、記事に対して「冗長だ」「説明不足だ」「偏っている」「必要最低限にすべき」といった批判・コメントがいとも簡単に述べられています。しかしながら、この議論を読んだ方ならば「どのように情報を差別するか」という点において、少なくとも一読者の「いる・いらない」という感情のみによって判断してはならない=「編集者は単一の情報源の中身について絶対的な(つまり相対的ではない)評価を下してはならない」ということは分かるはずです。
以上ですが、あと選考でいただいた意見に対しまして、「世間の反応・報道管制」の部分についてあたらしい資料を入手できましたので、僅かですが記述を追加しておきます。ご覧いただければ幸いです(出典は『激動二十年 島根県の戦後史』という資料で、あまり図書館になくちょっと入手が難しい本です)。--ZERO 2008年10月19日 (日) 19:49 (UTC)
ありがとうございます。(通俗的な構造主義的主張にみられるがごとく)ルール(構造)と実際的な営為との関係は固定的なものではなく、今日の社会学が明らかにしているように、実際的な営為の(主客二元論を超えた)フレキシビリティこそが要諦でありますから、ZEROさんによるご教示もそのように受け止めておりまし、私もそのようなスタンスで言葉を発しております(脱線しますが、この柔軟性を失った規則主義者の横行こそが現代日本社会の抱える主要な問題の一つでありましょう)。
さて、上にいただきましたご指摘を今回の話題に沿って敷衍しますと、(客観的な「事実」が存在しない)「後世の評価」という「主題」に関して複数の情報源がない状態では、特筆性が満たされているとはいえず、したがって掲載することは難しいが、本記事では複数の視点から記述されたことで、掲載のための条件はすべてクリアされた、となると思います(ちょっと牽強付会でしょうか、すみません)。さらに、当時の世間の反応にまで触れていただき、その結果、「松江騒擾事件」というひとつの歴史的な「できごと」がいっそう多層的、重層的に描き出された類いまれな記事へと発展し、本記事を秀逸な記事として選出することに対する私の疑義はすべて氷解致しました(早速、票を変更して参ります)。
今回は、何ら有益な情報提供ができない当方の疑問に対して、真摯にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。今後の記事執筆に向けて、大変、勉強になりました。今後とも、よろしくお願い致します。--Clem 2008年10月21日 (火) 14:37 (UTC)

「無条件降伏」の語の除去に関する議論のまとめ

以上、議論のまとめ--Yasumi 2009年9月25日 (金) 10:49 (UTC)

概要に在る記述の出典

概要に「1945年(昭和20年)8月15日、ポツダム宣言の受諾による日本の降伏が玉音放送によって国民に発表されると、その2日後の8月17日、東京都では降伏に反対する尊攘同志会の会員らが愛宕山に篭城、全国に決起を呼びかけた。」との一文がありますが、これの出典について一見しただけでは分り難いので教えて下さい。--廿粁 2009年7月7日 (火) 00:38 (UTC)

どの巻か全部見直してみないとわからないのですが、宮脇俊三編著「鉄道廃線跡を歩く」シリーズの中に、厚木基地から東京に向けて決起を呼びかけるために鉄道を使って上京したという描写があります。それが該当するように思いますし、同様の話はかなり以前に別の著作で読んだ記憶がありますので、もっと正確な出典は存在するはずです。--Carpkazu 2009年7月17日 (金) 12:42 (UTC)
廿粁さんこんにちは。それ、ふつうに段落飛び越えて脚注3だったと思います。
ちなみに、記事無条件降伏での精力的な活動、拝見しております。そちらのほうには手を出しませんのでご安心ください。さて。廿粁さんが無条件降伏に関する出典として示した『東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋』、あんまり本屋にでてないので、ひまつぶしに図書館でちょこちょこ読んでたりします。ちょっと厚いこの本、無条件降伏ってことを清瀬一郎は認めてませんか?100ページ前後だったと思いますが、ちょっとメモしてません。何ページあたりに無条件降伏に関する問題点が書かれてるのか、教えてもらえませんか?この事件と関係なさそうですし、Wikipedia:井戸端/subj/Wikipedia:中立的な観点に於ける制限と「その主題」が指すものについても廿粁さんは冷却期間を置くそうなので、もし執筆の合間、至極ヒマでしょうがないときでかまいません。--ZERO 2009年7月27日 (月) 15:19 (UTC)
有難う御座います。東京裁判日本の弁明「却下未提出弁護側資料」抜粋について、清瀬一郎弁護人冒頭陳述総論Aになります。「無条件降伏」という語についてZEROさんはどのような意味で使っていますか。--廿粁 2009年7月28日 (火) 00:37 (UTC)
どうもありがとうございました。今回の質問においては、「清瀬一郎の言っているのとおなじ意味の無条件降伏において」です。たいして深い意味をもたせて今回の質問をしたわけではありませんので、気楽にお考え下さい。また図書館で読んでみます。--ZERO 2009年7月28日 (火) 01:09 (UTC)
ポツダム宣言13条と降伏文書第二項に「無条件降伏」との文字があるが、これは何れも日本の軍隊に関することでこれが為に他の条項が拘束力を喪うものではないと述べていますね。--廿粁 2009年7月29日 (水) 00:14 (UTC)

ii

韓国語版は履歴不継承の記事であるにもかかわらず秀逸な記事が確定か

韓国語版の同記事が秀逸な記事を獲得するのは時間の問題です。(cf:ko:위키백과:알찬 글 후보/마쓰에 소요 사건)しかし、この記事は出だしから日本語版の履歴不継承の翻訳です。(本人も認めました。)金星を貼りに来ても版指定削除のうえ正しい方法による履歴継承がされない限り保留すべきでしょう。--hyolee2/H.L.LEE 2011年4月17日 (日) 02:09 (UTC)

こういう記事に秀逸な記事が確定しました。--hyolee2/H.L.LEE 2011年5月31日 (火) 22:48 (UTC)

論文で述べられた、検証可能な見解を「個人の感想」、「感想文」として除去することの是非について

「後世の評価」節に記述されていた、元毎日新聞記者中川登史宏によるこの事件への見解について、「個人の感想」、「感想文」として除去する編集が行われました[4][5]。しかし私は、当該記述はWikipedia:信頼できる情報源によって検証可能であり、Wikipedia:信頼できる情報源#意見にある「ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます。」という規定に照らせば掲載可能であると考えます。当該記述の掲載の是非について、皆様のご意見をお聞かせ下さい。--Pastern 2011年6月23日 (木) 12:33 (UTC)

コメント意見の表明者を明記したうえで掲載することが適当だと考えます。--Himetv 2011年6月23日 (木) 22:39 (UTC)
コメントそう思っている人がいるという事と、そのことについて信頼できる情報源があるという事について疑うつもりはありません。ガイドラインにも適合していると考えますし、どんなに内容が低レベルでもそれが情報原に記載されていることを記すことについては特に問題ないと思います。しかし、消去部分は事件と無関係な筆者の戦後史に関する印象の記述がほとんどではないでしょうか。「敗戦の廃墟と失意の状態から立ち上がった日本と日本人は、復興期、高度経済成長期を経て経済大国となった。しかしバブル経済の反動による長期不況の時代に入り、そこから脱出せずに停滞している。巨額の不良債権がもたらした金融不安からでさえ脱出できない様相であると、当時の日本の状況について指摘した」という部分は日本の戦後から現代に至る状況に関するなんとも大雑把な感想ですが、この部分は事件の評価として必要ないかまたは15字程度で充分です。また、冒頭の「2002年発表の論文で述べたところによれば、」も蛇足です。上記の『「後世の評価」について』でClem さんとZEROさんが述べておられるとおり、資料の選択には問題が残っていますが、私は「Wikipediaは情報を無差別に収集する場ではない」というガイドラインも重視してこのような、話題と無関係な冗長な記述をできるだけ削除していくべきだと考えます。具体的には中川による「論文」に関する部分は全削除すべき、もしくは「中川[1]。は、戦後から2002年に至る日本の状況と事件当時を対比しながら、その誤りを認めつつ皇国義勇軍の姿勢を敢然とした挑戦と評価している。」のような1ー2行程度の言及で充分との意見です。ブリキ 2011年6月24日 (金) 10:12 (UTC)
まず、中川の見解に関する記述を簡略化したほうがいいというお考えには反対しません、その上で申し上げますが、ブリキさんが書かれた要約欄の文からは「元新聞記者のものだろうが個人の感想だから削除」というニュアンスしか伝わってこず、上に書かれているようなこととはかけ離れているように思います。出典付きの記述をバッサリと削る以上、無用な編集合戦が起こらないようどうか説明には正確を期して下さい。--Pastern 2011年6月24日 (金) 12:56 (UTC)
補足すると、私の意見は全削除すべきというもので、簡略化は既に行われた議論に対する敬意の表明と、事件に対する言及自体に言及するだけのことに意味があると考える方のための次善の案にすぎません。上で述べたことと最初に要約に書いたことは特にかけ離れているとは思いません。項目に関係ない説明と感想を削除していったらもともと無内容な感想文の紹介が全部消える結果になっただけです。あんな短い要約欄にニュアンスもなにもそのまま書くほかないと思うのですが。元新聞記者という点にこだわっておられるようですが、誰が書こうと項目に関係ない蛇足は蛇足です。また、編集合戦とおっしゃいますが先に差し戻したのはそちらです。ブリキ 2011年6月24日 (金) 14:38 (UTC)
そうですか。私はWikipedia:信頼できる情報源によって検証可能な意見を「個人の感想」、「感想文」と切り捨て全文を削除することは乱暴に過ぎると考えます。また、あなたが要約欄に書いたことは、「個人の感想だから削除」という趣旨のものに思えました。それではおよそ評価というものを記述することは非常に困難になってしまいます。始めから「項目に関係ない説明を削除」などと説明してくださっていればそちらの意図が理解しやすかったのですが、残念ながら「個人の感想を削除」といった文からそのような意図は読み取れません。いずれにせよブリキさんも全削除に拘っておられるわけではないようですので、記述を簡略化して残す方向で合意形成を図っていきたいと思います。--Pastern 2011年6月24日 (金) 15:10 (UTC) (加筆)--Pastern 2011年6月24日 (金) 15:20 (UTC) --Pastern 2011年6月24日 (金) 15:23 (UTC)
簡略化した形で記述を復帰させることについて合意形成ができそうですので、念のためあと3日ほど待って復帰を実行したいと思います。--Pastern 2011年7月9日 (土) 08:33 (UTC)
復帰を実行しました。--Pastern 2011年7月12日 (火) 23:16 (UTC)

文献

  1. ^ 前掲 中川 (2002) 、128 - 129ページ。