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ノート:松平張忠

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西尾市寺津に、矢田松平氏の居館があったという話しですが。

矢田松平氏など、存在しません。徳川実紀に、張忠という人物はいますが、矢田松平の祖である、などと書かれていない。

そもそも、西尾市・吉良町・幡豆郡は、足利一族の吉良氏の所領であったはず。 なぜ、西尾に、松平氏の分家がいるのか?

養國寺っていう寺の寺伝で、祭り上げているだけで、徳川の公式記録には記載ないでしょ。 そもそも、養國寺ってのが、何なのか、わからない。徳川家の菩提寺でもないのに。 HP見ると、徳川家康の朱印もらったと書いてあるけど、朱印状の本物が公開されていませんね? どうなってるんでしょう?--180.197.157.21 2011年9月8日 (木) 09:20 (UTC)[返信]

『徳川実記』のみを参考にして断定とは、一を知れば十を悟ったが如き議論ですか?いろいろ文献を読まれてはいかがでしょう。そういえば、以前に東海地方関係の記事編集で、180.197.157.21さんと似たような傾向の方がいましたが。--故城一片之月 2011年9月8日 (木) 15:17 (UTC)[返信]

家康の神格化で歪められた松平・徳川家の歴史を正し、真実を描いた労作。三河松平一族 平野明夫。江戸時代、徳川家康の神格化・正当化のために、松平・徳川家の不利になる事実の隠蔽、歪曲が行われた。江戸時代に作成された史書のこのような傾向から脱却。多くの同時代の文書・記録にあたって松平一族の歴史を明らかにする。

見出しに、こう書いてありました。なぜ、平野って人は、徳川の歴史がウソで、自分は正しい、なんて主張するのでしょうか?その時代に生きて、見たわけでもないのに。多くの同時代の文書・記録にあたって?この時代の同時代史料は、少ないはずですけど?

徳川の歴史をただ認めたくないひねくれ者でしょ。参考文献として問題ありますね。

養国寺の寺伝の、井田野合戦も年次がおかしいようだし。養国寺の寺伝を、参考文献として認めるのもどうかと思う。 江戸時代の文献の三河国の寺の一覧表見る限り、養国寺が徳川・松平の菩提寺とか、特に何の説明もないですね。

改正三河後風土記の十八松平に、矢田松平氏って、記載されていません。なのに、なんで、矢田松平氏の初代当主なんて、断定しているのですか?理解不能ですね。

あと、譜牒余録って、江戸幕府官撰による大名や幕臣(ばくしん)等の系譜集成。総目1巻,前編60巻,後編40巻。1799年成立。《寛政重修諸家譜》編纂の資料とするため,同家譜の編集総裁であった堀田正敦(ほったまさあつ)が,1684年に諸家より提出された家譜(《貞享書上》)を転写させ,一書としてまとめたもの。

と書いてありました。これも、徳川幕府が江戸時代になって編纂した資料のようです。同時代史料でも何でもなく、ただの家譜ですね。譜牒余録です。牒の字が、間違ってますけど?

徳川の真実の歴史を正すために、徳川幕府が編纂した資料を利用するとか、矛盾してませんか?--180.197.157.21 2011年9月9日 (金) 04:10 (UTC)[返信]

個人見解に満ちた感想に驚くばかりです。貴方にかかっては平野氏もただの「ひねくれ者」ですか。だいたい、貴方はこの本を実際にお読みになったのですか?この本の「はじめに」(3 - 8頁)には平野氏が「本書の目的」を書いておられます。読まれたのであれば、上のような「徳川の歴史をただ認めたくないひねくれ者」などという感想にならないと思いますが、読んだ上での所感をどうぞ書いてください(出典を確認しないでの個人的感想はノートの無駄ですので控えてください)。なお、松平張忠についても、同書の153頁にありますから、どうぞ読んで確認してから御意見を下さい。--故城一片之月 2011年9月9日 (金) 14:54 (UTC)[返信]