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ノート:松平容保

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死去した場所について

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本文記事には「東京・目黒の自宅にて肺炎のため死去」とありますが、昭和16年刊「若松市史」には「病で東京小石川の邸に薨ぜらる」とあるようです。本文記事の「目黒の自宅」に関する典拠のようなものはあるのでしょうか? --以上の署名のないコメントは、220.213.52.89会話投稿記録)さんが 2007年2月23日 (金) 08:45‎ に投稿したものです(Megevand会話)による付記)。

死去した頃に邸宅としていたのは、小石川の第六天町8番地(現文京区小日向1丁目)のようです。引っ越した詳しい日は分からないようですが、明治20年頃から住んでいたようです。 (『文京ふるさと歴史館だより』第14号「文京の坂道―新坂と荒木坂―」[1]) また「明治26年12月6日発行の『読売新聞』には、「老公」(容保のこと)の正三位昇叙が、長男容大と松平家家令により広告されます。そして同じ紙面に、12月5日に容保が死去したこと、9日に第六天町の自邸より出棺することなどが掲載されます。」とあるので、突然死でなく患いの末の病死ですから、自邸の小石川の邸で亡くなりそのまま葬儀、出棺したというのが自然に思えます。--122.24.104.32 2013年5月11日 (土) 09:39 (UTC)[返信]

報告 質問者ではありませんが、上記のご回答、ご見解を受けて「東京小石川の自邸にて肺炎のため死去」と改めておきます。--Megevand会話) 2013年5月11日 (土) 09:47 (UTC)(訂正--Megevand会話2013年5月11日 (土) 09:55 (UTC)[返信]

京都守護職が廃止されたのはいつか?

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本文中には、「慶応3年(1867年)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。」とあります。 大政奉還の際に、江戸幕府が消滅し京都守護職も廃止された。との解釈も可能だとは思いますが、京都守護職が実質的な意味で廃止されたのは、「王政復古の大号令」及び「小御所会議」を経て、「鳥羽・伏見の戦い」により佐幕派の勢力が京都から駆逐されたときになります。 さらに、形式的にも実質的意味においても京都守護職が完全に消滅したのは、江戸城開城の時点になります。--以上の署名のないコメントは、182.171.104.125 会話投稿記録)さんが 2013年5月11日 (土) 08:42‎ ‎ に投稿したものです(Megevand会話)による付記)。

参考として、金戒光明寺の記事では、「慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。」とあります。--182.171.104.125 2013年6月14日 (金) 04:23 (UTC)[返信]