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ノート:松平信康

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「松平信康」か「徳川信康」か?

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現在、記事名が「松平信康」から「徳川信康」に変更されています。信康は不慮の死を遂げた人物なので客観的な史料があまり残っていないでしょうけど、当時の松平氏では家康以外の一族はすべて「松平」を名乗ったのではないでしょうか。「徳川」は三河守家康だけの特例ということで。11人以上いた家康の息子のうち、徳川を名乗ったのは二代将軍秀忠と御三家始祖の計4人だけ(江戸開府以前は秀忠のみ)ですし。信康が「徳川」でなかったことは記事「徳川氏」参照。家康から安祥松平家当主(岡崎城主)を譲られたということで「松平信康」に戻してはいかがでしょうか。 2006年9月9日 (土) 20:17 (UTC)[返信]

家康に徳川氏を一代限りにする意図があったとは思えません。後世の将軍家や御三家の嫡系男子は徳川氏を許され傍系子女の松平氏と差別化されていましたが、おそらく信康も同様に嫡男として徳川氏を許されていたと思われます。--Extrahitz 2006年10月19日 (木) 16:57 (UTC)[返信]
確かな資料で「徳川信康」としているのを見たことがありません。たいてい「松平信康」か「岡崎信康」です。「岡崎三郎信康」という安祥松平家の名乗りからも、松平を継いでいたものと思われます。松平庶流でなく本家に復したはずの次男も「松平秀康」を名乗っています。「徳川」は一種の称号のようなもので、家康が夭折していたら消滅していたのではないでしょうか。 2006年10月21日 (土) 17:02 (UTC)[返信]
資料で「徳川信康」が見当たらないのであれば記事名にするわけにはいきませんね。「称号」という概念がピンとこなかったのですが、「世良田清康」の例があるのに気がつきました。「徳川」も同様のものだということですね。--Extrahitz 2006年10月26日 (木) 04:17 (UTC)[返信]
そうですね。「世良田」を「徳川」にして朝廷の許可を得たというだけで、一族の者たちは「徳川」にせず相変わらず「松平」を名乗っていたのですから。主要な日本史人名事典を見てもだいたい「松平信康」になっています。 2006年11月17日 (金) 17:15 (UTC)[返信]

充分時間が経ったので、「徳川信康」から「松平信康」に戻しました。 2006年12月23日 (土) 22:23 (UTC)[返信]

松平氏の項目や、この項目の下等で、信康が宗家の家督を継いでおり、信康の死とともに松平宗家が断絶したという記述がなされています。この事に関する史料をご存じでしたら、松平氏のノートにご連絡お願いします。--222.150.199.132 2008年9月29日 (月) 12:37 (UTC)[返信]

かなり昔の話題ですが、信康の姓については現在松平と表す書籍が多い一方で、松平・徳川氏の研究家である新行紀一氏や平野明夫氏がそれぞれの本や論文で「徳川信康」としていることや、織田氏の研究家である谷口克広氏が著書「信長と家康」の中で「信康の元服以前に家康は徳川に改姓しているので、生前は徳川姓を名乗っていただろう」と主張していることも見過ごせません。また個人研究になるので記事にはしませんが、江戸幕府の編纂である朝野旧聞裒藁の引用史料では信康の姓を徳川とするものが数点確認できる一方、松平とするものは総見記(織田軍記)の「松平竹千代殿…(略)…徳川次郎三郎信康ト名ノラレヌ」以外確認できません。ただし、秋本茂陽氏の「徳川将軍家墓碑総覧」より、清瀧寺および高野山の信康の墓碑に、「松平三郎」と彫られていることも確認できます。以上より、信康の姓は松平である、とするのはいささか勇み足ではないかと考えます。そこで提案なのですが、記事名は「松平信康」のままにし、記事内における名前を徳川家康の記事のように「松平信康/徳川信康」とすることにしてはいかがでしょうか?--無水月 2014年3月15日 (土) 16:00 (UTC)[返信]

生前に徳川姓を名乗っていた可能性が高い以上徳川信康を記事名にすることが適切と思われますが… 昔はともかく今は徳川信康でも知名度としては通用するでしょうし問題もないでしょう。--NoNameWalker会話2023年2月22日 (水) 08:52 (UTC)[返信]

信康自刃の謎

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上記の項ですが、大変興味深い内容になっているにも関わらず、出典がないまま各説の紹介が為されているのが残念に思います。特に219.115.190.129さんによる加筆分[1]が出典無しになっていることは大変惜しいことだと思います。確かな資料名が一つでも書かれるだけでこの記事の信頼度は大きく上がると思いますので、ご存知の方居られたら是非ご協力をお願いいたします。--Sat666 2007年10月8日 (月) 09:21 (UTC)[返信]

ここの項で、信康が祖母である於大の方とトラブルを起こしたと書いてあるんですけど、出典先が分かりませんのでご存知の方居られましたらご執筆下さい。後、どの様な事があったかもご執筆お願いします。--60.68.133.22 2008年3月28日 (金) 10:21 (UTC)[返信]

酒井忠続の処遇は必ずしも矛盾してないのでは?

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本文にこうあります。 >その一方で、後年の徳川家康は酒井忠次が嫡男の家次の所領に対する不満を訴え出た所、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。信長に対して忠次が弁明を行わず、結果として信康を自刃に追い込んだとして後々まで忠次に恨みを抱いていたという事を表す逸話であり、家康自らが信康を葬り去ったとする説と矛盾するものである(この逸話が創作ではないかという説もあるが、忠次が晩年冷遇されたのは事実である)。

しかし、例え、家康主導で信康を殺したとしても、それについてあとで後悔して、信康切腹に関わった酒井や信長を恨むという事は心理的には納得できるのではないでしょうか?必ずしも矛盾しているとは思えません。
酒井が冷遇されたのにも、必ずしもこの件だけではなく、外戚の叔父にあたり徳川四天王の中で唯一、家康より年上で晩年の家康には煙たい存在であった点や、味方が原で家康が脱糞した事を「殿も情けない」とせせら笑った逸話がある人物ですし、家康が晩年に冷遇する理由はいくらでも考えられます。--ちょーばみ 2008年3月3日 (月) 22:40 (UTC)[返信]

(インデント戻します)wikipediaは推測記事を書く場所ではありません。Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことの「自分の主張を書き込むこと」をご参照下さい。--MioUzaki 2008年3月8日 (土) 07:01 (UTC)[返信]

うーん、あまり言いたくないのですが「ウィキペディアでやってはいけないこと]]の「自分の主張を書き込むこと」」というのが、本文なら理解はできます。しかしノートは議論を行う場であり、そこでまでそんな事を言われてはノートの意味をなさないと思いますが?--ちょーばみ 2008年3月9日 (日) 12:01 (UTC)[返信]

たしかに、本文で自分の主張を書いてはいけませんがノートで論議するのに、それは延々と掲示板代わりにしてはいけませんが、ごく普通の論議で、その規定をいうのはおかしいと思います。--奈良たかし 2008年3月9日 (日) 16:49 (UTC)[返信]

信康切腹事件の史料に基づく本が出ました

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谷口克広『信長と消えた家臣たち』がこの事件や言い伝えと記述されている話についても、詳しい資料分析と出典を書いてます。それで整理をしました。ごらんになって下さい。--奈良たかし 2008年3月4日 (火) 13:26 (UTC)[返信]

その書物だけで「お前でも息子がかわいいか」の逸話が細部まで史実だとは確定できないと思いますが?--ちょーばみ 2008年3月5日 (水) 04:06 (UTC)[返信]

ちょーばみさん、そのとおりで、本もこのことにはふれていないのですが、これも含め本に登場しないけど以下の史実に関することはそのままになっています。さすがに史実が絡むと勝手にさわれなかったので。この逸話は悩みましたがそのままになっています。冷遇と言っても本多忠勝に対するのと同じで武功派から行政官僚へと言う流れかなとは、ちょっと思いますが。

  • 信康の墓が貧相で改葬もされていないこと。
  • 五徳が2000石奉給されていたこと。
  • 信長が蹴鞠などして重大なことを決めていた様子がないこと。
  • 家康が酒井に対し、「お前でも息子がかわいいか」といった。

説話の分類というのは、どこが出典か研究者が整理するのは、「本能寺の変」の例からいって数十年かかります。--奈良たかし 2008年3月6日 (木) 02:35 (UTC)[返信]

気にはなったので、家康が酒井に対し、「お前でも息子がかわいいか」という逸話に「要出典」を付けて、「本当ならば」、「武功派から行政官僚重用の流れ」コメントを付けました。読んだ方の混乱を避けるためです。--奈良たかし 2008年3月6日 (木) 07:57 (UTC)[返信]

岡崎派について

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信康切腹の理由について岡崎派と浜松派の抗争があったとありますが、具体的に誰がそれぞれの派閥で、誰が処罰・逐電したかが不透明ですので要出典を付けさせてもらいます。平岩親吉や植村家存が例として挙げられるかもしれませんが、前者は以後も十分な厚遇を受けていますし、後者も子が大名になっています。

派閥争いというのはあまり根拠あるようには思えません。--HI 2008年3月6日 (木) 02:55 (UTC)[返信]

ここに書くべき事とややズレてはいますが、単に家康と信康の年齢差がわずか16歳しかないことから、信康は家康の息子というでけでなくライバルのような側面があったという意見もありますね。信玄が義信を廃嫡したように揉め事で切腹を命じたという事はありえます。--ちょーばみ 2008年3月7日 (金) 05:49 (UTC)[返信]

HIさん、ご指摘ありがとうございます。谷口克広氏の中公新書を全部読んで『信長と消えた家臣』が使えると判明したからこうしました。史料探査で知られる谷口氏が信康切腹をこうまとめたことは大きく有力説への補強となったと思います。 武田氏を引き合いに出してばかりいますが、信玄は嫡男の義信と争いになっただけではなく、自らの家督相続も宿老に擁立され実父の信虎を隠居させ追放したのです。戦国大名の親子間は派閥争いになりやすいということはご理解下さい。--奈良たかし 2008年3月7日 (金) 08:05 (UTC)[返信]

岡崎衆と家康の軋轢を推測させる記事は「松平家忠日記」という史料にあります。またこの史料にはお家騒動に緊迫する徳川家の様子は描写されてますが、信長の介入等は一切記されておりません。--ちょーばみ 2008年3月7日 (金) 11:32 (UTC)[返信]

「家忠日記」を見ましたが、岡崎衆との分離を図らせたという説は国人衆が岡崎在番をしなくても良いといわれたことをその理由としてあげていますが、これは女房衆を故郷に戻したとか、その前後に徳川家が遠江で攻勢に出ていることから、どちらかというと武田の圧力が低下したことにより人質をおく必要がなくなったからでしょう。
家忠も岡崎に屋敷を維持する必要がなくなったためか、この後に蔵や座敷の増築を行っています。また、在番終了についてのお礼を岡崎の石川数正や本多重次にしています。
さらに信康が岡崎から追放された際に家忠も岡崎に行っていますが、そこでは平岩親吉を振舞っていたりと特に岡崎重臣がこの件にかかわっているという描写はありません。--HI 2008年3月7日 (金) 13:17 (UTC)[返信]

HIさん、別にこの説を固執するつもりで言ってるわけではありません。しかしHIさんの説では独自研究になってしまいます。独自研究は載せない、参考Wikipedia:信頼できる情報源。一次史料も研究者のフィルタと整理を通してしか、利用できないのです。何か裏付ける本はないのでしょうか。HIさんが書かれたことは、一応谷口克広氏の論点で説明しておきます。信康事件の4年前天正3年(1575年)には、武田氏が美濃から一掃された後、武田氏側の懲略が広がり、家康の伯父の水野信元親子が、信長より武田氏内通の嫌疑を受け、家康から切腹を命じられています。また信康事件の翌年天正8年(1580年)には信長準譜代の美濃の安藤守就も内通嫌疑で追放。発覚しなかったが美濃郡上郡遠藤氏も内通。つまり、大変な緊張と疑心暗鬼の中で同事件が起きているのです。それを前提に「家忠日記」を解釈すると記述した内容になるのです。これも本文に整理が必要かな。私ばかりしていてはだめなので勝手ですがどなたか『…家臣たち』の本でしていただけませんか。--奈良たかし 2008年3月8日 (土) 06:20 (UTC)[返信]

派閥説が作家の典厩五郎の唱えた説であることを明記しました。原書が98年出版の割には既に絶版なので現在入手できてませんが、目次のみを見る限りどうも家康に悪意のある前提で書いているように見受けられます。--HI 2008年4月13日 (日) 11:27 (UTC)[返信]

記事内容の混乱について

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現在記事内容がかなり雑然としていて、混乱を来しているように見受けられます。特に「逸話」の項目について、「信康自刃事件」に整理して書くべき内容があるのではないかと思います。これについては、自分で整理してみようとは思ったのですが、断念しました。理由は「関ヶ原での家康の嘆き、家康と酒井の問答、幸若舞の場面、信長が信康を恐れたという逸話は『武辺雑談』『東武談叢』『寛元聞書』をそれぞれ出典として」という箇所です。出来事が4つ、それに対して出典が3つで、どの出来事がどの出典なのかわかりません。これについては、この箇所を書いた方の説明を頂きたい所です。--PATMAN 2008年10月11日 (土) 07:31 (UTC)[返信]

http://www.ikedakai.com/text/jikki1-h3.html
以上を参照しました。--HI 2008年10月11日 (土) 12:31 (UTC)[返信]

出典が一つに依拠しすぎ?

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出典が、谷口克広 『信長と消えた家臣たち-失脚・粛清・謀反』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年7月。ISBN 978-4-12-101907-3。に依拠しすぎている感がありますが、いかがでしょうか。--219.35.22.28 2015年5月13日 (水) 12:06 (UTC)[返信]

これに関してですが、谷口さんは中公新書での著書も多いのですが、本職の歴史家ではない点が、出典として難があると感じています。これは星亮一さんも同様です。こうした「専門外の人物の意見は無視/軽視してもいいのか」については、『逆説の日本史』で、井沢元彦さんが繰り返し述べている点でもあります。井沢さんの言うこともわかりますが、専門家ではない人物の発言を出典とする場合には「○○さんはこのように主張している」という形式で引用するしかないのではないかと思います。なお私は谷口さんや星さんの著書は、そういった形式でも出典には使いません(他に八幡和郎さんや童門冬二さんも。いずれも歴史関係の出版があるが専門家ではない)。--Alexander Poskrebyshev会話2016年11月3日 (木) 20:45 (UTC)[返信]

天方山城守の名について

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この編集から加えられた記述がそのまま断続的に残っている(約10年)のですが、出典がありません。また、この利用者も現在は活動していないようなので質問は無意味のように思われます。半蔵が泣くのみで手を下せなかったので天方が首を落とした、という話自体は間違いないようです。--Alexander Poskrebyshev会話2016年10月30日 (日) 21:57 (UTC)[返信]