ノート:東野英治郎
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下書き
[編集]東野英治郎は明治40年に群馬県に生まれた。俳優座に所属した。 多くの映画に出演し、テレビでは「水戸黄門」で1969年~1983年までの14年間黄門様役を務めた。 --以上の署名のないコメントは、218.230.11.23(会話/Whois)さんが 2004年7月27日 (火) 22:21 (UTC+9) に投稿したものです(ワーナー成増(会話)による付記)。
1962年2月のコラムについて
[編集]永井一郎氏の「細胞でとらえた演技」、および『朗読のススメ』、とり・みき氏の『映画吹替王』にて「アテレコ論争」の発端として言及されている『東京新聞』1962年2月19日朝刊9面「月曜モニター」に掲載された東野英治郎氏の「"声"優に危険手当てを 他人の演技に合わす苦しみ」を読みました。
東野氏のコラムを要約すると
俳優の仕事とは、自分独特の方法で役の人物を創造するものである。
自分が動くから自然に声が出るのであり、声が出るから動くのが俳優の演技である。
他人の動きに代役として自分の声だけを当てはめるアテレコは、俳優として片輪になりかねない大へんな仕事である。
だからアテレコをする俳優には危険手当てとして十分な報酬をあげてほしい。
というもので、現行版に書かれている「アニメ」、「アフレコ」、「尺」、「外道の所業」という言葉は出てきません。
同年2月から5月までのマイクロフィルム版『東京新聞』をざっと調べましたが、東野氏の発言はこれ以外に見つけることができませんでした。
もし現行版が、この2月19日朝刊のコラムの要約として書かれているのなら、東野氏が実際には使っていない「外道の所業」という言葉で声優業を侮辱したとの印象を読み手に与え、不適切と考えます。
このコラムは永井、とり両氏の著作では適切に要約されています。
永井氏の「細胞でとらえた演技」、『朗読のススメ』、とり・みき氏の『映画吹替王』にも「外道の所業」という言葉は出てきません。
現行版の出典になっている文章が別にあるのでしたら教えてください。
また、この「アテレコ論争」に関して
東野英治郎「"声"優に危険手当てを 他人の演技に合わす苦しみ」、『東京新聞』1962年2月19日朝刊、9面
安部徹「アテレコと俳優 片輪になるとは思わない」、『東京新聞』1962年2月26日朝刊、9面
夏川大二郎「ビジネスと割り切れ アテレコは特殊な技術」、『東京新聞』1962年3月5日朝刊、9面
福田定良「アテレコの破壊と創造」、『キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号、キネマ旬報社、pp.175-177(熊倉一雄氏のコメントを収録)
永井一郎「細胞でとらえた演技」、『宇宙翔ける戦士達 GUNDAM CENTURY RENEWAL VERSION』、樹想社、2000年、pp.89-96(みのり書房、1981年の復刻版)
永井一郎『朗読のススメ』、新潮社、2009年、pp.136-142(『永井一郎の「朗読のヒント」』、蕗薹書房、1999年の加筆修正文庫版)
とり・みき『別冊映画秘宝Vol.3 とり・みきの映画吹替王』、洋泉社、2004年、pp.184-185
近石真介2014年5月19日付インタビュー、吹替の帝王 -日本語吹替版専門映画サイト-| 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント、http://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview27/
近藤正高『永井一郎——いかに行動するかを考え抜いた声優哲学』、cakes、https://cakes.mu/posts/5038
これ以外の資料があれば教えていただけると幸いです。--El2l2(会話) 2017年12月30日 (土) 14:01 (UTC)
- 『永井一郎の「朗読のヒント」』p.119では夏川大二郎氏の意見が東野氏の意見と混同されています。上の投稿を少し修正しました。--El2l2(会話) 2018年1月9日 (火) 17:51 (UTC)
- 本文を書き直しました。詳細はアテレコ論争という新しい項目を作ってそちらに書いています。中国語版の永井一郎氏の項目にも同様の問題のある文が残っているようなので、編集できる方がいらっしゃったらお願いします。--El2l2(会話) 2018年1月9日 (火) 19:47 (UTC)