ノート:東條英機/ログ/1
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ワキ方の宝生流はシテ方の宝生流とは血縁関係はありません。
- ↓以下から「目次」までの方、まず、書き込むには必ず署名をして下さい。
- 署名の無い書き込みは返答されなかったり、提案自体スルーされることもあります。--202.157.243.233 2009年5月5日 (火) 10:21 (UTC)
国分佐智子が曾孫っていうのは本当なんですか?
第3段落に、「第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めたあと…(中略)…追い込むことができると考えた」とあります。考えたのは誰なのでしょうか。東條本人だとすると「陸軍の権益を代表する立場を離れさせ」という部分とうまくかみ合いません。天皇が考えたとも読めます。Hareno 2004年12月18日 (土) 07:12 (UTC)
少々、強調が多すぎるような気がします。0null0 2004年12月18日 (土) 07:21 (UTC)
履歴をたどってみると,2004年12月12日 (日) 20:33の時点で,「誰の説得にも応じない東條の強硬さに手を焼いた天皇の側近たちは、」という「できると考えた」主語が外れてしまっていますね。主語を外したことで、東條の記事がどのように改善されるのでしょうか。Hareno 2004年12月18日 (土) 08:23 (UTC) >219.103.194.121さん
「日米開戦を強力に推進していたのは、実は陸軍ではなく海軍であり、東條と武藤章は対米和平に尽力していた」何を根拠にこういうことを書いているのか?珍説の類で、読者に非常に誤解を与えるのでは?
「東條は左利きであり、戦後自決に失敗したのは利き手ではない右手でピストルの引き金を引いたためといわれている。」何で?死ぬのが怖くて思わず利き手ではない右手で引き金を引いたということか?そんな小心者が日米開戦に国民を引きずっていったのか。 先日(2004.12.26未明)のNHKの高松宮日記でのイメージとは正反対だな。(退役軍人)
- 多くの人の心臓は左にあるので、左手で狙い定めて撃とうとすると非常に不安定で難しいのではないかと。結局心臓を外れたとはいえ、それでも瀕死の重傷を負ったのには変わりないが、不幸にもアメリカの最先端医療で助けられちゃったという。211.132.91.158 2005年3月24日 (木) 09:47 (UTC)
-「評価」の「昭和初期の歴史を考える上でそれなりの批判は避けて通れないことも事実であろう」という文言は別段必要ないのではないでしょうか。
あまりにも一方的なんじゃないですか?
[編集]久しぶりのこのページ読んだんですけど、何か最初の戦争責任の賛否論から人格批判に内容が代わったのはちょっとひどすぎるのではないかと?2,3ヶ月前に見たときは中立的な文書になっていたのに・・・・・・。
例えばゴミ箱を漁った話なんて、国民に無事に配給されていたか確かめたという意見もありますし、狭量の人格なんて言われていますが、一方で部下、家族を思いで律儀な一面もあったと聞きます。それに当時の首相なんて、そう接することもできなかったし、東条の間近にいた人の意見を聞くとぜんぜん一般的な評価と違いますよ。(参考文献 佐藤早苗『東條英機 封印された真実』)
確かに狭量の部分もあったと思いますし、ゴシップの範疇であることも書いてありますが、この文書を読んでいるとあまりにも一方的で、もうちょっと読んでいる人が考えることができるようなエピソードを付け加えた方がいいんじゃないですか?これを書いた人はこれだけの知識をもっていらっしゃるのだから、上記のエピソードぐらい知っていると思いますが?
あと「その責任は相応に重いといわざるを得ないのも事実である」て書いてありますけど、全ての意見がそうじゃないでしょ?それに最近の週刊誌や外部リンク等をみてみると、東条についても同情的な意見だったあるんじゃないですが?それに昭和天皇と東条は日米開戦を止めようとしていたのに当時の世論のほとんどは開戦を支持していましたし・・・・あまりのも一方的すぎでは?まぁ、これは偉そうに言っている政治家や知識人、歴史家などにも言えることですけど。
張ってある外部リンクをもっと参考にした方がいいと思います。
最後に評価の部分が長すぎる。それにあだ名とか経歴とは別に必要ないのでは?
-では、ご自身でその部分を加筆されてはいかがでしょう?私個人としては妥当性のあるご意見なので、そのくらいの補筆、修正をなされても問題はないと思います。
- 家庭では良きマイホームパパであっても、外では陰険極まりない人と言うのは、結構居る。現在のヴァージョンに書かれているような陰湿な性格と、「家族を思いで律儀な一面」が同居しているのは、全然不思議ではないと思う。(肖像写真から受ける印象も、優しさと神経質さが同居してる感じだし・・・)東條は公人なので、公人としての評価をメインとし、「家庭では・・・」と言うのは、余談的に紹介するくらいで良いのでは。
それではお言葉通りに加筆させていただきました。以前のと感じがだいぶかわりましたが、書いていることは全て参考文献、外部リンクを参考にしましたので・・・・。
- うーん、今度は、肯定的な部分を強調しすぎでは?
「東条はもともと本質的に真面目で努力な人物で、ルーズで怠慢、ずるがしこい、裏切り者といった肌の合わない人間を毛嫌いし、そんな人間には躊躇なく冷遇したようだ。」 --- (1)
とのことですが、あなたが消去されたエピソード
「逓信省工務局長松前重義は東条反対派の東久邇宮に接近したために、43歳にして召集され、南方で電柱かつぎに使役された。」
の松前は、少なくとも 「ルーズで怠慢」ではないでしょう。結局、主張(1)は、強権的な人物に有り勝ちな性格を、良いように表現しただけとも取れます。また、
「夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては贅沢品を食べてはいないかと首相みずからチェックしたという話が残っているというが、実際は国民に無事、配給が行き届いているかチェックを行ったのである。」
と言うのも、凄く苦しい言い訳に聞こえる。(そもそも、「ゴミ箱」のエピソード自体、「あいつなら、やり兼ねん」的な感じで広まった作り話の可能性も有るのでは?)
「軍人としては有能だった」と言う評価も、以前のヴァージョンの評価と180度反対なので、もう少し冷静な考察が必要と思う。
私としては、8月16日以前のヴァージョンをベースとし、身内には良い人だったことの紹介は、補足的に付け加えるくらいで良いと思う。
あの、お言葉を返すようですが、これは参考文献に書いたあったことをそのまま書いたことですし、松前重義って思想的には左翼よりと私が参考した文献(佐藤早苗『東條英機 封印された真実』)には書いてありまし、有能な軍人だったと言うのも渡辺昇一の言っていたことをそのまま書き込んだだけなので。それに“冷静な考察”とおっしゃっていますが、どんなことを規準にしておっしゃっているのですか?
「左翼より」って判断での意見自体が既に中立的ではないかと思いますが。 NPOVに照らして不適切ですよ。
私の意見ではなく文献に書いたあったことを言っただけです。 何度も言っていますけど、私の意見ではなく文献に書かれてあったことを書いただけです。世間一般的な視点や前のバージョン照らし合わせてみれば、あなたのご意見も理解できますが、納得できないのでしたら文献や外部リンクでもご覧になればいいじゃないですか?
まぁ、私が書いたあとにどなたか加執されてみたいですが、現在のバージョンでしたら中立的でいいと思いますが・・・・。
画像のサイズ
[編集]ほかの画像にもいえることなのですが、元画像サイズが大きい場合には、一般的なディスプレイ環境から言って300pxぐらいが適切だと思うのですがいかがでしょうか? サムネイルだから小さくても・・・という意見もあるかと思いますが、それならそれでかまいません。私個人は現在のサイズでは小さいので300pxぐらいを基準に・・・と考えているのですが、ご意見をお願いします。--完璧主義 2005年7月26日 (火) 19:54 (UTC)
遺骨の記述について
[編集]項目「遺骨」にある遺骨が投機された件と引き渡されていない件について、確認できる資料を示していただきたく思います。またそれ以外の内容についても「A級戦犯」と「靖国神社」へ移動が相応しいようにも思います。項目として残したいのであれば、あくまで東條家としての遺骨や合祀にまつわるエピソードを主にするべきではないでしょうか。--Tukasa ryo 2005年8月25日 (木) 15:39 (UTC)
過去のコメントアウト→削除された記事の覚書
[編集]様々な理由で、(コメントアウトされ結果として本文から)削除された文章を以下にまとめておきます。加筆の際に参考にして下さい。
- 2005年9月3日 (土) 12:05の版で削除
- (ソース不明):拳銃自殺が狂言自殺でないかとする説について、『この意見について小林よしのりは西部邁との対談で実際に22口径の拳銃で自害した人はいると反論し、銃弾は体を貫通し当時の日本の医学ではまず助からないほどの重傷だった。』
- (あまりに通説と異なるため):『「日米開戦を強力に推進していたのは、実は陸軍ではなく海軍で、東條と武藤章は対米和平に尽力していた」と見ることの出来る資料が発見されたともする説がある(ただし、これは今のところ広く認められた説とはなっていない)。』
- (ソース不明):『話しはそれるが、東條は東京裁判時まで中国における末端の残虐行為を知らなく、当時の上部と末端の部下との間の隔たりが非常に大きかったのが伺える。』
- (ソース不明):『また、もともと東條本人も政治的野心がまったくなく、東久邇宮を推薦したにも関らず、皇族内閣の元で開戦すれば天皇に責任が及ぶと危惧した木戸幸一によって無理やり総理大臣にさせられたのである。』
Kanoe 2005年9月3日 (土) 14:32 (UTC)
3番はと4番目は佐藤早苗著『東條英機 封印された真実』を読めば書いてありますし、1番目は小林よしのりと西部邁の対談は共筆の『本日の雑談(7)』(飛鳥新社)にのっています。
東條英機自殺未遂のピストルに関して
[編集]【一般には22口径の拳銃で自殺を図ったと流布されている。しかし自殺するのに「22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話」であると佐々淳行と石原慎太郎が述べているように、この口径の拳銃で胸を撃っても自殺は不可能であり狂言自殺ではないかとの批判している。】 と本分に書かれていますが
これが22口径であるという説得力あるソースが存在するか否か疑問があります。 私自身が調べた限りの資料中には「22口径」との記述はなく「32口径」との証言が非常に多いことが分かります。 石原・佐々対談は「22口径」説を裏付けるようなソースを何等提示してはいません。 「説」として取り上げる信頼性さえないように思われます。 少なくともこれは「一般的」なものではありません。
この部分の削除ないし、具体的ソースの明示を願いします。
横スレ失礼します。22口径でも、至近距離では十分に殺傷能力はあると思います。要は意図か意図せずか急所を外れたことにあるのではないでしょうか?Moltke 2005年10月26日 (水) 23:29 (UTC)
今月号(2005年12月号)の石原都知事のインタビューの中で都知事も
「事実関係の誤りについては素直に改めます。自殺を図った東条英機の使用した拳銃は22口径でなく32口径だったとか・・・。たしかに実際の様子は、私の認識と異なるところがあったでしょう。」(『正論12月号』「靖国をめぐる私の真意 自らの主体的意志を取り戻すために」より引用)
と書かれています。 一般的に流布もされてはいませんし、事実とは異なりますね。 22口径ピストルでの自殺によって「狂言自殺」説を支持することは出来ません。 --222.1.131.97 2005年11月6日 (日) 12:20 (UTC)
使用した拳銃については翌日の読売新聞や朝日新聞に「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との記事が掲載されており、一般的に口径3.2ミリの拳銃で自殺したという説自体は直後に広く流布された説ですよ。--Miwa.SS 2006年9月20日 (水) 07:49 (UTC)
「東條の権限」の節について
[編集]この版までで行われた大規模加筆で加えられた「東條英機の権限」の節に関して意見があります。
- 東條英機は戦争の最高指導者となったわけで、それはアメリカの大統領と対等に渡り合わなければならないことを意味した。合衆国大統領は軍隊の統率権を持っており戦前の日本の首相よりも権限が大きかった。云々。 旧憲法下で戦争の最高指導者は国家元首である天皇であるのは東條にとっては自明で、やはり国家元首である米大統領と自分が対等に渡り合える、との「不遜な」考えが東條にあったとは考えがたいのですが。
- 軍令部総長まで兼務することは出来ず、海軍の掌握までは行えなかったので、海軍の横暴ぶりまでは止めることが出来なかった。 (私は通俗的な「あの頃陸軍はダメで海軍は良かった」的考えはもっていませんが、しかし)「海軍の横暴ぶり」とまで書くなら何が横暴だったのかを書いていただけませんか。(もちろん陸海軍は常に対立関係にあったのですが)東條が参謀総長兼務だったあの短い期間に何が新たに発生したというのでしょう。
- 因に当時の首相というものは今と違い、国民からは権限如何に関わらず、崇め奉られる雲の上の存在であった。(中略)一般市民にとっては逆らったり意見を唱えたりなど出来る存在ではなかった。同様に政治家や特に軍人を悪く言えば即国家反逆に問われた時代であった。(中略)戦前は今のように政治家の地位・格式が失墜に落ちておらず(後略) まずここに限らず散見される「今」という語法に関してはWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないをご参照下さい。「失墜に落ちておらず」に関しては国語辞典の参照をお勧めします。次に内容ですが、「政治家や特に軍人を悪く言えば即国家反逆に問われた時代」と言いますが、「国家反逆に問う」とは具体的に刑法におけるどの条文を意識して書かれているのでしょうか。
- こうした強大権限を掌握した東條首相は表向きには国民から恐れられ(後略) この部分は、「悪評の裏に隠れた意外な一面」の節に挿入すべきではないでしょうか。
以上。--Gloucester 2006年1月12日 (木) 23:52 (UTC)
- このIP氏のノートや編集履歴を見ていただくとわかりますが、他の執筆者と議論をすることを徹底して拒んでおられます。ご指摘の編集は、記述の部分の重複・矛盾等する部分もあるため、私もこの編集は不適切であり、不要だと考えます。IP氏からの反論が期待できませんので、とりあえずrevertします。--Corruptresearcher 2006年1月13日 (金) 03:04 (UTC)
- ただ、「首相=陸相=参謀総長兼任」という事象とその意義に関してはどこかに書き込みは必要でしょうね。旧憲法における統帥権独立の大原則(その功罪自体はさておき)を逸脱したという点では特記されるべきですし、東條個人にとっても、このアクションが逆に政権維持を不可能にしたとの見方もできますから。--Gloucester 2006年1月13日 (金) 03:34 (UTC)
- 兼任については、「現在の一般的とされる評価」にも記述されており、この程度でいいと思いました。ただ、もう少し出典等がはっきりすればなおいいですが。例えば、当時の批判者が具体的に誰でどのように批判していたのか、とか。元のIP氏の表現のような感想文的なものはちょっと遠慮したい感じです。--Corruptresearcher 2006年1月13日 (金) 03:51 (UTC)
- ただ、「首相=陸相=参謀総長兼任」という事象とその意義に関してはどこかに書き込みは必要でしょうね。旧憲法における統帥権独立の大原則(その功罪自体はさておき)を逸脱したという点では特記されるべきですし、東條個人にとっても、このアクションが逆に政権維持を不可能にしたとの見方もできますから。--Gloucester 2006年1月13日 (金) 03:34 (UTC)
- 話はそれますが、略歴のところに書かれた大臣兼任の項目には前任者が辞任して後任者が決まるまで一時的に兼任した外務大臣や文部大臣が含まれているようですが、あくまでも臨時に兼務したものまでも陸軍大臣などと同様の記述をするのはいかがかと考えます。--水野白楓 2006年2月7日 (火) 12:40 (UTC)
「自殺未遂」の項ですが、東條の自殺を予期したMPが救急隊を待機させ即座に救命処置を行ったことを追加しました。夫人である東條勝子さんの手記にありました(「文藝春秋」にみる昭和史)。MPが踏み込んだ主な目的は東條の身柄と証拠の確保にあったと思われるので、「身の回りのものを略奪した」というのは何らかの証拠の押収のことではないかと考えられます。勝子夫人の回想では、首相を辞めた後の東條は畑仕事などをして質素に暮らしていたようです。
右側のテンプレートは変
[編集]学位・資格に位階勲等を表示し前職の欄にどうでもいい経歴を殊更並べて、本来の職名を改編し、選挙区選出が当たり前ではない戦前の首相に非国会議員と表示する悪趣味なテンプレートはどうしても必要なの?--代言人【右】 2006年9月30日 (土) 20:12 (UTC)
--選挙区選出の首相は大正時代から居るわけだし、(選挙で選ばれた)国会議員か否か、貴族院議員か否か、を明記するのは十分意味が有ると思う。少なくとも、「悪趣味」ではないのでは? 2006年10月1日 (日) 08:48 (UTC)
- 悪趣味の基準ってなんだよ。あなたがどう思おうと、俺は「悪趣味」だとおもったの。--代言人【右】 2006年10月1日 (日) 09:00 (UTC)
- その違和感は「挙区選出の首相は大正時代から居る……」という情報がまったく欠落しているからではないでしょうか。たとえば「世襲の有無」の項目には「 無し」と明記してあって、その意義がよくわかります。何か適当な加筆を願えませんでしょうか。僕自身にはあの小さいスペースにいれるべき的確な表現がうまく思い浮かびません。 --Kafuka1964 2007年4月6日 (金) 14:42 (UTC)
現代の基準と違う時代の人物なんだから、無理矢理つじつま合わせたような選挙区とか党派とかは全くもって無用だと思いますが?--118.240.51.144 2008年5月10日 (土) 19:14 (UTC)
「評価」について
[編集]「渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。」
この「渡部昇一によれば」はいらないと思う。渡部氏は専門の歴史学者じゃなく、彼が「軍事官僚としては抜群」だったということを史実や史料に基づいて立証した訳じゃないのだから。渡部昇一が東条を軍事官僚として抜群だったと評価してるんなら分かるけど。
- 「評価」の項の写真が何故か見えません。左クリックすると見えるのですが。どなたか技術面に詳しい方、処置をお願いします。--Kafuka1964 2007年4月6日 (金) 14:37 (UTC)
左傾斜していませんか?
[編集]一読して、批判が多く、肯定的意見の主なものが幾つか上がっていても、必ずその後には反論が載せられている、という特徴に気付きました。この項目は彼を貶めるための項目でしょうか。ウィキペディアの「中立性」にも反しています。修正の必要有りです。--月景 2007年10月6日 (土) 16:39 (UTC)
- 『ウィキペディア(Wikipedia)』はあくまでフリー百科事典です。独自研究の発表の場ではないようです。ですから、世間の「百科辞典」以上の記述はするべきではない、というのが大原則ではないでしょうか。この「東條英機」ですが、世間の「百科辞典」で彼を肯定的な評価でまとめあげているものがあるのでしょうか。世間の辞典の執筆はその領域の文献を広汎に読みこなしているプロが一言一句を厳選しつつ行っています。世間の「百科辞典」の記述に沿うべきです。ですから、世間の一部に「東條英機」を肯定的に捉える意見があっても、最終的には否定的な意見になるのは必然と思われます。「東條英機」については否定的な記述になるのが現在の「東條英機」評価のに即した中立的な立場なのだと思います。ごく一部の「東條英機」肯定派の学者の意見が紹介されるなら、その後には大半を占める「東條英機」否定派の学者の意見が紹介されるべきでしょう。『ウィキペディア(Wikipedia)』は世論を操作するための場所でもなければ、歴史学の学会組織でも無いはずです。最新の学説の紹介の場でもないようです。「左傾斜」という問題ではない、と考えます。--Memosa 2007年10月6日 (土) 23:08 (UTC)
- 肯定論と否定論が、両方平等に掲載されてこそ中立である筈です。しかし、現文章を見る限りは、否定論が多勢を占めていると思えます。ウィキペディアでは、多勢無勢に拘らず、どちらかに傾いた記述は認められていないはずです。、Wikipedia:中立的な観点でも、『まず、最も重要なことは、論争の種になるような立場を、主張することなく単に記述する、ということがどのようなことかを考えてみることです。偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。』と記されています。それに、貴殿の仰るとおり、『世間の「百科辞典」以上の記述はするべきではない』のならば、それこそ花押や子孫まで書く必要は全くないではありませんか。花押はまだしも、どこの事典に子孫まで書かれているのですか。--月景 2007年10月10日 (水) 06:47 (UTC)
- 資料事実のみについて書くというのであれば賛同いたしますけど?それを提示できますか?現代の資料に基づかない感想ならいりません。--Miwa.SS 2007年10月10日 (水) 07:23 (UTC)
- 私が「世間の「百科辞典」以上の記述はするべきではない」と書いたのは中立性に関してです。「花押」「子孫」等を削除すべきとお考えでしたら、ここでは議論が混乱しますので、別途、提案して下さい。Miwa.SS氏の意見には賛成です。それから月景氏の提案は抽象的すぎます。ひとつひとつ具体的に個別の問題として提起していただかなければ月景氏の意図する「修正」が見えてきません。--Memosa 2007年10月10日 (水) 08:49 (UTC)
- では、世間一般の百科事典には、名前、生没年月日、東京裁判の判決により死刑になった事実、大東亜戦争開戦時の首相であったこと、そのくらいしか書かれていないことに就いては、どのようにお考えですか。百科事典よりも、より専門的な書籍を参照すべきです。そもそも、「世間の百科事典」以上の記述が許されないのならば、ウィキペディアの存在自体が無意味です。百科事典を購入すれば済む話なのですから。ウィキペディアは、個々の項目が、より専門的であり、また、中立であるからこそ、意味があるものと認識しております。
- 然し、議論の提起より時間があまりにも経過してしまい、記事の内容自体が大きく変わっておりますね。一先ず、一読したところ、現内容は特別左傾斜してはいないようですので、一旦、議論を停止しようと思います。Memosaさん、Miwa.SSさん、ご意見、ありがとうございました。--月景 2007年12月26日 (水) 06:27 (UTC)
「人を得ぬと軍がソッポを向く」のエピソードについて
[編集]天皇に対する「“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく」例として「人を得ぬと軍がソッポを向く」の発言が挙げられていますが、『細川日記』には、岡田啓介大将の叱責のあとに、前言を撤回し、「陸軍に理解なくば都合悪し」との意味と訂正したとあります。明らかに天皇への忠誠とは無関係なエピソードだと思われるのですが。水晶の兎 2007年10月27日 (土) 17:00 (UTC)
- 秦郁彦や保阪をはじめ多くの書籍で天皇への忠誠についてと解釈しており、以後のそれは叱責されての言い訳と解釈していますから、そうではないと解釈した資料の出典を出せるのなら、その出典を付記して追記すればいいと思います。--Miwa.SS 2007年10月27日 (土) 21:20 (UTC)
- 要は史料上の根拠はないが、現代史家や作家の類が、そう解釈しているので従っているということでしょうか。事例の記載はよいとして、その解釈まで書くのは百科事典として妥当といえるでしょうか。仮に「秦郁彦は、こう評している」と書いてあれば、問題ないと思いますが。一応ノートに書くことで一定の留保は行ったと思うので、私としては後考を待つことにします。付け加えるならば、研究者の書いたことであっても一次史料の裏付けがないものは、歴史学的には論じるに足る説として引用されたりすることはありません。水晶の兎 2007年10月28日 (日) 14:31 (UTC)
- 『細川日記』を一次史料とした研究者の論文を秦郁彦の論文に対峙させればよいのではありませんか。注が煩瑣になると事典として読みにくくなりますが、秦郁彦や保阪の研究も出典として明示していただけるとありがたく思います。--Memosa 2007年10月28日 (日) 16:25 (UTC)
- 私の問題意識は、一次史料による論拠なしに先の事例が忠誠の喪失を表していると書かれている点にあります。このような内容を、ある人の見解として取り上げるのは問題ないと思いますが、定説とするには問題があるので何らかの留保を行うべきではないかと、そういう意見です。なお、保阪氏は一般的にいってアカデミックなレベルの研究者ではないので、学説のようなものとして扱うのは厳しいと思います。--水晶の兎 2007年10月28日 (日) 16:54 (UTC)
- 私はこの件についての文献を読んでいないのですが、本文を読む限り、「だが……」と始まる段落は「勤皇には狭義と広義二種類がある。(中略)陛下を強制しても初心を断行する。」という一次史料の提示で終わっていますので、「“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく。」はこれと対応しているのではないでしょうか。それから、保阪が研究者でないことは認めます。秦郁彦の研究で十分でしょう。ウィキペディアにおける「定説」の基準は知りません。個人的には数年を経ても(無視される愚論ではなく)異論が出ず、他者からも引用されるようなものを言うのであろうと思っています。--Memosa 2007年10月28日 (日) 17:23 (UTC)
- Wikipediaについての「定説」の基準は、他者から検証可能な事実であるということです。東條の前記発言が忠誠心の喪失であるということが検証可能な事実であると言えるでしょうか?学者や作家が東條の心中を勝手に忖度として、書いたというレベルでは到底検証可能とはいえません。--水晶の兎 2007年10月28日 (日) 22:08 (UTC)
- Wikipedia:検証可能性を読んでみましたが、そのようには明記されてはいませんでした。まずは該当所に「要出典」のタグを付け、その後、秦郁彦という「学者(中略)が東條の心中を勝手に忖度」したことについて他の学者がそれを批判している論文をご紹介いただければと思います。「勝手に忖度」ということですが、「勤皇には狭義と広義二種類がある。(中略)陛下を強制しても初心を断行する。」という一次史料を基に「“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく。」という解釈が研究論文にもしあるのならば、まったく問題のない記述と思われます。--Memosa 2007年10月29日 (月) 00:18 (UTC)
- Wikipediaについての「定説」の基準は、他者から検証可能な事実であるということです。東條の前記発言が忠誠心の喪失であるということが検証可能な事実であると言えるでしょうか?学者や作家が東條の心中を勝手に忖度として、書いたというレベルでは到底検証可能とはいえません。--水晶の兎 2007年10月28日 (日) 22:08 (UTC)
- 私はこの件についての文献を読んでいないのですが、本文を読む限り、「だが……」と始まる段落は「勤皇には狭義と広義二種類がある。(中略)陛下を強制しても初心を断行する。」という一次史料の提示で終わっていますので、「“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく。」はこれと対応しているのではないでしょうか。それから、保阪が研究者でないことは認めます。秦郁彦の研究で十分でしょう。ウィキペディアにおける「定説」の基準は知りません。個人的には数年を経ても(無視される愚論ではなく)異論が出ず、他者からも引用されるようなものを言うのであろうと思っています。--Memosa 2007年10月28日 (日) 17:23 (UTC)
- 私の問題意識は、一次史料による論拠なしに先の事例が忠誠の喪失を表していると書かれている点にあります。このような内容を、ある人の見解として取り上げるのは問題ないと思いますが、定説とするには問題があるので何らかの留保を行うべきではないかと、そういう意見です。なお、保阪氏は一般的にいってアカデミックなレベルの研究者ではないので、学説のようなものとして扱うのは厳しいと思います。--水晶の兎 2007年10月28日 (日) 16:54 (UTC)
- 『細川日記』を一次史料とした研究者の論文を秦郁彦の論文に対峙させればよいのではありませんか。注が煩瑣になると事典として読みにくくなりますが、秦郁彦や保阪の研究も出典として明示していただけるとありがたく思います。--Memosa 2007年10月28日 (日) 16:25 (UTC)
- 要は史料上の根拠はないが、現代史家や作家の類が、そう解釈しているので従っているということでしょうか。事例の記載はよいとして、その解釈まで書くのは百科事典として妥当といえるでしょうか。仮に「秦郁彦は、こう評している」と書いてあれば、問題ないと思いますが。一応ノートに書くことで一定の留保は行ったと思うので、私としては後考を待つことにします。付け加えるならば、研究者の書いたことであっても一次史料の裏付けがないものは、歴史学的には論じるに足る説として引用されたりすることはありません。水晶の兎 2007年10月28日 (日) 14:31 (UTC)
インデント戻します。「事例の記載はよいとして、その解釈まで書くのは百科事典として妥当といえるでしょうか」とのご提案ですが、それはそれでひとつの提言であると思います。秦郁彦、保坂正康、まして史学の研究者ですらない渡部昇一、小堀圭一郎、佐藤早苗らの解釈の削除はそれはそれでひとつの提言であると考えます。逆に山田風太郎ら同時代人の当時リアルタイムでの日記などでの感想や解釈は残すべきだと考えますがいかがでしょうか?--Miwa.SS 2007年10月29日 (月) 02:16 (UTC)
- 検証可能性を拡大解釈?していた件と、これまでの内容が、少々激越な文面になっていたかもしれないことを、お詫びします。今回、あまり踏み込むつもりは無かったので、私の側からの発言は、これで終わりにしようと思います。最後にMiwa.SSさんから問いかけがありましたので、その件に私見を述べようと思います。私のスタンスではアカデミックな歴史的記述というものは、基本的には「述べて作らず」であるべきだと思っています。つまり一次史料による検証が可能な範囲の叙述を基本として、それが可能でないものを取り上げる場合は、少なくとも何らかの留保を付けるべきであると考えます。また、この項に関していえば、山田風太郎や昭和天皇、細川等の東條に対する感想は、同時代人の感想として歴史的な価値はあるのではないでしょうか。さらに言えば、検証はできないが有名で面白い逸話を異聞のような形で載せるのも悪くはないとは思います。現代人から見た東條の評価に関しては、我々にとって少なくとも歴史的な価値が高いものとは思いません。数十年後の日本人によっては、貴重な史料になっているかもしれませんが。研究者レベルの仮説、推理で質の高いものに関しては、証明には至っていないことを明記すれば、書いた方が質の高い記事になる可能性があると思います。以上は中立的な歴史的叙述に関しての認識という意味で述べたので、この項目と直接関係ない内容も混じっているかもしれませんが御容赦を。--水晶の兎 2007年10月29日 (月) 14:13 (UTC)