ノート:村上頼勝
村上頼勝の没年が疑問ですが、お解りの方、ご教授願います。--立志堂 2008年3月11日 (火) 01:41 (UTC)
手元にあった「廃絶大名読本(新人物往来社)」によると、慶長16年(1611年)頃に隠居、元和元年(1615年)に没し、耕雲寺に葬られた、とありました。諡も判明しているので、寺の帳簿か何かに記録があるんでしょう。1604年没説は何が論拠になってるんでしょうかね?同じく疑問です。--ポテンシャル0 2009年9月28日 (月) 04:23 (UTC)
京都大徳寺の過去帳に拠ります。--KASAGI 2009年12月5日 (土) 23:28 (UTC)
独自研究になるので、これはノートに。断家譜には「村上義明 : 政之助、次郎右衛門、周防守、実戸田武蔵守氏繁子、実母村上周防守義清娘、妻花井主水正娘」とあり、これは村上頼勝と忠勝の二代を合成圧縮したものである疑いがあります。忠勝の父(追記:または祖父--Rasalghul(会話) 2018年10月31日 (水) 21:19 (UTC))は戸田武蔵守(勝成、重政)であり、母は村上周防守頼勝の娘であり、妻は花井主水正の娘とされています。つまりこの系譜上、頼勝と忠勝の養父子が合成される一方で、頼勝と義清の父子も合成されていることになります。
そのため、事績についても頼勝の部分と忠勝の部分の弁別が困難であり、「十二歳のとき加賀で丹羽長秀に仕えた」、とあるのはどちらの話なのかわかりません。頼勝が十二歳でいきなり加賀小松城主に抜擢されるとは(いくら村上義清の子孫でも)考え辛く、これは忠勝が養子縁組した年齢を言っているものとも考えられます。もっとも、仮に忠勝が1585年に12歳としたら1623年に享年25とあるのとは整合しません。単に加賀というのが誤記で、頼勝は十二歳のとき尾張とかで丹羽長秀に仕え、もう少し成長してから加賀に赴いたのかもしれませんし、本当に十二歳で加賀小松城主になった可能性も、あるいは十二が誤記である(二十とか)可能性も無きにしもあらず。
新井白石が「頼勝の妻が花井主水正の娘(妹)では世代が合わない、やはり周防守は二代か、しかし今とりあえず一代としておく(大意)」と述べている通り、断家譜の記述は頼勝と忠勝の混同が明らかに見て取れるものですが、志村2012年もこれに触れておらず(?)不明。志村氏に連絡が取れるなら聞いてみようか、とも思いますが、しかし今とりあえずノートに備忘しておきます。--Rasalghul(会話) 2018年10月31日 (水) 21:13 (UTC) 誤字修正--Rasalghul(会話) 2018年10月31日 (水) 21:21 (UTC)