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ノート:村上光清

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富士講は食行没後、その弟子たちによって作られたと考えられます。光清は食行と起源は確かに同一ですが、富士講には全く関与していません。ただし、光清の弟子たちの代には富士講を模倣した形態をとるようになったようです。だから光清が「江戸で富士講の布教に努め」たという表現は不適切です。また、富士講の最盛期は取締りの状況などを考えると文政~天保のころ以降と考えられます。食行たちから一世紀近く経過した時点なので「両者の活動により」という文言も適切ではないように思います。更に、「乞食身禄」「大名光清」の表現は『嬉遊笑覧』に出てくる説ですが、どこまでこの表現が当事者たちの間で普及していたか疑問です。

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