ノート:朴正煕
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青瓦台襲撃未遂は北朝鮮ではなく、韓国軍特殊部隊の・・・というのが最近映画でも公表されませんでしたか?詳しくないので書きませんけど。
答)これは「青瓦台襲撃未遂のみかえりに、韓国特殊部隊が金日成を暗殺する目的に結成された」というあらすじの映画だと思いますが・・・。利用者:219.160.234.67
朴正煕に関してはポジティヴ一辺倒だな。軍国日本を模倣した独裁体制に反感を持っていた国民がいたことも書かなければダメだ。--以上の署名の無いコメントは、61.192.170.40(会話・投稿記録)さんによるものです。2005年12月21日 (水) 13:57署名補填はIosifによる
- ……とのことですので、朴正煕の
悪行ネガティブな面も書こうと思ったのですが、枚挙に暇がないため、何から書けばいいのかわかりません。とりあえず、反体制派弾圧が苛烈だったとだけ書いてみました。▼「朴正煕にはクーデター当初から経済基盤建設に対する強烈な意欲を見出すことができる。彼のメンタリティについて「敗戦後の日本人」「アメリカの生産力に負けた」という世代的な認識を共有していたのではないかとする論評がある。」と書いたのですが、誰がそう評したのか思い出せないうえに見つけだせなかったためコメントアウトしてあります(複数いるはずですが)。思い出せなければ書くべきでないかもしれませんが、どなたかご存じの方が現れるに違いないと思って残しました。--2006年7月11日 (火) 17:01 (UTC)再度、修正と署名を付加。--Iosif 2006年7月11日 (火) 18:41 (UTC)- Tatsujin28さん、おはようございます。2007年2月12日 (月) 02:02の編集について、POVを正したとの趣旨だと思われますが、さらに手を加えました。▼まず、「植民地統治下」という表現は(日本の)朝鮮史における標準的な表現です。ノート:日韓併合を、けっこう量がありますが語暗礁ください。ただし、文脈から日本統治下と表現したほうがわかりやすい場合があって、そう表現されていることもありますが、少ないです。ネット上やWikipedia上での風潮なのか「植民地支配」を全部「日本統治」を言い換えている例がたまに見かけられますが、これは現在までの(採用されている)書き方から逸脱しています。最近では、むしろ「植民地の語を避けよう」というPOVに基づく言い換えではないかという疑いをもっております。実は同箇所を加筆したとき、Iosifにも特に考えがなく「日本統治下」と書いた記憶があるのですが、そこに戻されたことをきっかけに、必然がないのであれば諸々の研究所に表現をあわせるべきだと考えなおして修正する次第です。▼日韓基本条約反対の要旨は記述されるべきです。朴正煕政権下で起きた反対運動でも最も大きいものの一つです。かつ、この反対理由も朴正煕政権がどのようにみなされていたかを物語る常用な情報だと思います。--Iosif 2007年2月12日 (月) 02:32 (UTC)
- ノート:韓国併合を拝見しました。Iosifさんの言では「植民地統治下」は朝鮮史における標準的な表現とありますが、専門家の間にもそれに反論する意見があり(植民地じゃないよ論)、結局は研究者による政治的立場の違いではなかろうかと見受けられました。専門家の間で割れているのなら、相互有利と思しき文献を持ち寄って、ずっと続く議論かなとも(笑)。ただ、冷静に行為のみを記すのであれば、日本統治下という単語の選定もそれほど悪くはないと思います。用例もある訳ですし、統治したこと自体はfactですから。
- 日韓基本条約の下りについては記すに吝かではありません(rvの最大の理由は前述した様に、ベトナム戦争云々の表現です)。日本でも反対論があったことですしね。ただ、金泳三 - 金大中 - 盧武鉉と続いた文民政権の中で、戦後の韓国の歴史が民主化運動史の様な面白い事になっているので、当時韓国の置かれた状況も踏まえて、それに引っ張られない様にしていただければ良いと思います。
- さて、お詫びついでに小ネタを一つ。朴正煕時代を懐かしむ人は居る様で「月刊朴正煕」なる雑誌があるそうです[3]。趙甲済が一枚噛んでいるんだろうなぁと思いますが。Tatsujin28 2007年2月12日 (月) 06:36 (UTC)
- 以下Iosif記:
- >POVリバートの理由ですが、最大の理由はベトナム戦争云々のくだりです。(Tatsujin28さん)
- 了解いたしました。この点は同感ですので、Tatsujin28さんの編集をいじっていません。特に対立点もあるようではないのでここでお仕舞いにすべきですが、それではあまりに無愛想なので少々……。
- >ノート:韓国併合を拝見しました。(Tatsujin28さん)
- >専門家の間にもそれに反論する意見があり(植民地じゃないよ論)、結局は研究者による政治的立場の違いではなかろうかと見受けられました。(Tatsujin28さん)
- いや、長大なノートですので、誤解を招いていると思います。お時間のあるときによくご覧いただけるとわかるのですが、「専門家の間にもそれに反論する意見(植民地じゃないよ論)」などというものはありません。聞こえが悪いから言い換えようという政治評論が少数ながら存在するようですが、研究者間では「どのような植民地だったか」という議論は存在しても、「植民地か否か」という議論は管見では存在しない。「植民地」とは単なる名前であって、そういう名前で括って他の帝国主義国と比較したほうが学問的に意義があるという考えが背景にあるのでしょう。しかし、そういう問題以前に、朝鮮史研究者は右も左も「植民地」の語を使っていて、政治的立場は関係していませんし、そういう論争自体、戦後には見かけられません。しかし、ネット上ではどんな言葉遊びも広がりやすいですから、敢えて典拠を求めたのですが案の定、1年ほど出てこないというだけです。もちろん「植民地イコール悪ではない」とかそういう意見はちゃんと存在しますよ。対立するとしたらそういう部分であって名称をめぐるものではないということを書きたかった次第です。
- ▼雑談のつづきですが、おっしゃるとおり解放後韓国の政治史が民主化運動史としてだけ書かれるのはつまらないですよね(無論、誤解を与えるものでもあるし)。個人的に、説明してもなかなかもらってもらいづらいと感じることの一つに次のことがあります。いわゆる「民主化人士」とは労働運動・学生と地方の地主・資本家の利益代弁者である保守政治家で構成されているのだという側面です。自由民権運動を例に出してみたりするのですが。この項目を加筆するときは保守政治家vs.近代化の担い手である軍部という視点は消えないように注意していたつもりですが、うまくいっていないかもしれません。お気づきの点、ご注意いただければ幸いです。--Iosif 2007年2月12日 (月) 07:44 (UTC)
- さて、お詫びついでに小ネタを一つ。朴正煕時代を懐かしむ人は居る様で「月刊朴正煕」なる雑誌があるそうです[3]。趙甲済が一枚噛んでいるんだろうなぁと思いますが。Tatsujin28 2007年2月12日 (月) 06:36 (UTC)
文世光事件の年度は1975年ではなく1974年なので訂正を。
経歴詐称?
[編集]朴正熙の満州国軍時代の経歴に疑問があります。満州国の軍官学校については十分な知識がないので不問としますが、その後に日本の陸軍士官学校に「編入」とも「留学」とも本記事では記述されています。またその留学は「優秀な成績のため、特に選ばれて」と記述されていますが、この根拠となる出典を希望します。なぜならば、満州国軍官学校の予科を卒業した日系生徒が日本の陸軍士官学校で本科教育を受けるのは「優秀な成績のため、特に選ばれ」なくても、珍しいことではなさそうだからです。すくなくとも陸軍航空士官学校については成績に関係なく日本で教育を受けることは確認済みで、当該記事を私が編集しています。
さらに「陸軍士官学校を3位の成績で卒業」にいたっては、怪しさ満点の記述です。いま手元にある秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(1991年初版)の595頁から599頁までには歴代の陸軍士官学校卒業生のうち恩賜品を授与された優等卒業生の全氏名が掲載されていますが、第57期は全卒業生1268名のうち15名が優等とされ、その全氏名の中には「高木正雄」も「朴正熙」もいません。明快な出典の提示がないのならば、経歴詐称ともとれる記述です。--220.102.104.34 2012年12月19日 (水) 09:59 (UTC)
満州から陸士への留学については『朝鮮戦争/韓国篇』の上巻に書いてあったように記憶しています。まず「優秀な成績のため、特に選ばれて」ですが同期の丁一権と金白一のうち成績最優秀の丁が陸士に留学、2番だった金は行けなかったというエピソードがありました。また白善ヨプも最優秀で卒業したも、この時、留学制度が廃止されていたいうのも書いてありました。
『朝鮮戦争韓国篇上巻』の終わりの方に陸士を卒業した朝鮮人達が書いてありますが満州からの留学生は〇〇期卒相当としています。そこに朴正熙が居たように記憶します。あまり覚えていないので後で確認してみます。「陸軍士官学校を3位の成績で卒業」についてはわかりません。--Odfjdkgfh(会話) 2013年8月24日 (土) 13:54 (UTC)
朝鮮戦争韓国篇上巻に書いてある略歴です。 42年、新京軍官学校予科(二期)卒業、成績抜群により皇帝賞授与、陸軍士官学校に留学し44年卒業(57期相当)、関東軍に配属され、終戦時に満軍中尉。P.463 --Odfjdkgfh(会話) 2013年12月23日 (月) 14:38 (UTC)
- 今回加筆に際し参照した趙甲済『朴正煕――韓国近代革命家の実像』永守良孝訳、亜紀書房、東京、1991年10月20日、第1版第1刷発行、69頁に以下のような記述がありました。以下の文脈だと「帝国陸軍士官学校57期生として留学した朝鮮人将校4人の中で3番」だったのか、「帝国陸軍士官学校57期生全体で3番」だったのかは判然としませんが、恐らく元記述の参照点はこの本の69頁だったのではないか?と思いましたので、参考までに引用します。
--Baalcy korbo(会話) 2014年5月6日 (火) 07:02 (UTC)
IPユーザーによる編集の取り消し
[編集]3人のIPユーザーによる編集を取り消し、「Pooh456による 2023年4月20日 (木) 01:24の版」に戻しました。
理由は下記の通りです。
- WP:Vを満たす出典である「秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年」には、
- 「1939年4月に満洲国陸軍軍官学校予科(大日本帝国陸軍の陸軍予科士官学校に相当、満洲国の首都新京に所在)に入校し、1942年10月に満洲国陸軍軍官学校本科(大日本帝国陸軍の陸軍士官学校に相当)に進み、1944年4月に卒業した(第2期、成績優秀により皇帝賞を拝受)。1944年4月に満洲国陸軍軍官学校本科を卒業した後、大日本帝国陸軍の陸軍士官学校の留学生課程に短期間(最長で3か月間)派遣された(大日本帝国陸軍士官学校57期相当)。」
- という旨が記載されている。
- 3人のIPユーザーによる編集は「Naverに掲載されている画像」を根拠としているようですが、この画像はWP:Vを満たしません。