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ノート:木馬館

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リネーム予定

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今後、現在の2階部分を主に表す「木馬館」、または1階部分を主に表す「木馬亭」にリネームする予定です(現時点で浪曲の唯一の寄席木馬亭の項が存在しないのは見ての通りです)。ただし、こちらで把握している事実内容とかなり異なるため、確認のうえでさせていただきます。要点は、2F1Fの演目変遷、特に木馬の存在期間と安来節の期間、木馬ミュージックホールの存在です。もちろん、歴史的経緯はきちんと残します。ちなみに出典は唯二郎『実録 浪曲史』です。よろしくお願いします。--とほほのほ会話2014年7月14日 (月) 15:24 (UTC)[返信]

この項が、下手な形であったが故に(既に無い施設で、原典が変にあるため、変更するにもややこしい)、特に浪曲「木馬亭」の立項が阻害されていた状況はわかっていただけると思いますが、こんがらがった糸をていねいにほどく作業を現在しております。--とほほのほ会話2014年7月24日 (木) 15:18 (UTC)[返信]
焦点となっていた鉄骨2階建ての時期ですが、そもそも原典とされている横田順彌『明治時代は謎だらけ』には年月の明記はなく、代わりに朝日新聞 1956年6月22日付の記事冒頭に根岸吉之助談として「大正7年ごろバラック建のをつくり、大正の大震災の少し前に、いまの木骨モルタル造りにした。主要なところに鉄骨が入っていて、震災の時ビクともしなかった」と発言しています。ここからすると、曾我廼家五九郎うんぬんのくだり(原典に記載ありだが、その文は推測形で終わる)は客観的に非常に怪しいと言わざるを得ません。--とほほのほ会話2014年7月24日 (木) 16:05 (UTC)[返信]
ということで、双方の発言を最大限に尊重する形で推測するなら、大正12年の関東大震災前に曾我廼家五九郎の支援の元に鉄筋コンクリート、ではなく一部鉄骨の木骨モルタル造りで改築したため、大した被害もなく戦後の昭和31年まで建物が残り、そこで初めて鉄筋コンクリート2階建てになった、ということになります。(ちなみに戦後改築前の記事には建物の写真があります。今とは異なる外観)--とほほのほ会話2014年7月24日 (木) 16:15 (UTC)[返信]