ノート:木村義雄 (棋士)
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名人の先代次代テンプレート
[編集]名人在位者に、{{先代次代}}が貼られましたが、削除したいと思います。理由としては、このまま残しておくことですべてのタイトルの在位者、場合によっては棋戦優勝者も含めて同様のテンプレートが貼られることが予想され、テンプレートだけで相当の領域を占めてしまうために視認性が著しく劣るためです(大山康晴や羽生善治などは、10個以上のテンプレートが積み重ねられます)。また、国王や内閣などと異なり、先代・次代の順序がそれほど重要ではないとも考えられます。個人的には永世名人くらいはあってもよいかと思いますが、それ以外のタイトルや永世称号にこのテンプレートを用いるのは反対です。--Tamago915 2007年2月21日 (水) 09:30 (UTC)
- いや、実は私も名人ぐらいはと思って貼ったのですが確かに余計だったかなと思っています。中原・谷川両名人は三つになってしまいましたし。貼っておいて今さら言うのも何ですが、削除しても良いと思います。代わりに永世名人位は貼っても良いとは思うのですが。ご指摘ありがとうございました、ご迷惑をかけました。--3丁目の男 2007年2月22日 (木) 01:44 (UTC)
- 削除しました。「名人ぐらいは……」と考えていたとしても、ほぼ間違いなくほかの誰かが全タイトルに貼り付けますので、早いうちに手を打っておきたいと思いました。なお、永世名人は江戸時代は世襲でしたし、仕組みを変えながらも現代まで続く流れとして、{{先代次代}}を貼り付けてもよいと思います。--Tamago915 2007年2月22日 (木) 03:51 (UTC)
「A級棋士を指し込む」の事実関係
[編集]「当時のA級棋士を全て指し込みに追い込み」という部分について、出典とともに事実関係を確認させてください。「当時」がいつで、「A級」が何を指すのかわかりませんが、順位戦A級であれば(順位戦が開始された)1946年以降となります。ただ、この直後の名人戦で木村は塚田に敗れており、「全て指し込みに追い込み」という表現が適切であるとは思われません。木村の強さを示す表現は他にもあると思いますので、表現の見直しも検討したいと思います。--Tamago915 2007年9月29日 (土) 09:12 (UTC)
- 戦前は順位戦がなかったため、「当時のA級棋士」は「戦前の八段陣」などとするのがよいかと思います。おそらく、名人戦の第4期やほかの棋戦でも香落ちで八段陣に大きく勝ち越したことを言いたかったのではないかと推測します。これに関連して「定跡研究に尽くす」の項目を修正しました。--Silver rush 2008年2月28日 (木) 19:39 (UTC)
- その推測のほうが事実に近そうですが、はっきりとした何か(検証可能な資料)がほしいですね。書かれたのが2006年11月、非ログインユーザーによるものですから、書いた当人が出てくるとは思えませんし、資料を探すのは難しいかもしれませんが……。--Tamago915 2008年2月28日 (木) 23:50 (UTC)
- 「検証可能な資料」というのは、上記の私の情報は「名局紀行」という本を元に書いたのですが、それでも大丈夫なのでしょうか。それによると、戦前には読売新聞が三次にわたり「木村名人対八段五雄二番手直り指し込み五番勝負」というのを主催し、木村は平手で13-6、香落ちで38-13という成績だったそうです。--Silver rush 2008年2月29日 (金) 12:36 (UTC)
- 大丈夫、というか「GJ」だと思います。書籍の出版社や出版年、作者(ISBNもあれば)、記載のページなどの情報を含めて本文に反映していただいてよろしいでしょうか。--Tamago915 2008年2月29日 (金) 13:51 (UTC)
- 上のコメントに「作者」の部分を追加しました。この「名局紀行」という本ですが、週刊将棋から出版されている『名局紀行―初代宗桂から将棋400年』(ISBN 978-4895636490)のことでしょうか? --Tamago915 2008年3月1日 (土) 01:45 (UTC)
最終的な段位については不明とする提案
[編集]現在は「十四世名人」と「八段」が併記されていますが、これを「十四世名人」「段位については不明」と表記することを提案します(あるいは単に「十四世名人」とする)。理由としては木村名人の最終的な段位が八段であると明記した典拠が提示されていないことと、江戸時代の家元制度においては名人イコール九段であり、その後の終身名人制や、木村義雄が名人であった実力制名人制の過渡期においても同様の考えが残存するのではないかとも考えられることからです。--倫敦橋 (Londonbashi)(会話) 2013年11月17日 (日) 20:29 (UTC)
脚注に「2007年現在、親子九段は板谷四郎・板谷進と木村親子のみ。」という説明が存在するのが気になりましたが、典拠は何でしょうか。典拠が示されなければ、上記の提案を実施する時に併せて編集除去します。--倫敦橋 (Londonbashi)(会話) 2013年12月29日 (日) 11:09 (UTC)
いくつかの文献について名人を失ったら八段格、のような記述は見られなくもないのですが、最終的な段位が八段と断定できるとは言いがたいと判断し、そもそも永世称号と段位とを併記する表記自体がウィキペディア以外ではまず見られないものであることも踏まえて、ほぼ上記の提案どおり(親子九段のものも含めて)除去しました。--倫敦橋 (Londonbashi)(会話) 2014年2月25日 (火) 22:32 (UTC)
八段表記が復活してますね。--倫敦橋 (Londonbashi)(会話) 2022年6月22日 (水) 21:06 (UTC)
改名提案
[編集]木村義雄を木村義雄 (棋士)に、木村義雄_(曖昧さ回避)を木村義雄にしたいと思います。理由は一意ではなく、平等な曖昧さ回避にすべきだと思ったからです。--Yosizuya(会話) 2019年10月12日 (土) 03:49 (UTC)
- 済必要な処理は行いました。--Yosizuya(会話) 2019年10月27日 (日) 08:54 (UTC)
2020年7月
[編集]ここは木村義雄のノートページです。 木村義雄関連の議論をする場です。--片隅のみかん(会話|投稿記録) 2020年7月1日 (水) 10:55 (UTC)
木村義雄14世名人の四段昇段年月日について
[編集]1920年1月1日としているのは、ほかならぬ日本将棋連盟の棋士データベースですね。松本博文氏の2020年2月22日付の記事「20世紀初めに生まれた木村義雄14世名人は、やしゃご弟子・藤井聡太七段と比べても遜色ない早熟の天才」にもある通り、これをそのまま引用するのは誤りです。
1920年(大正9年)8月19日から8月23日にかけて朝日新聞の東京朝刊に掲載された『高段勝継特選将棋(133回)村越為吉 木村義雄』では、木村義雄三段表記となっており、終局図が掲載された8月23日の記事で「別項記載の特選将棋に連戦連勝しつゝある少年棋客三段木村義雄氏は今回四段に昇進したり」(漢字は新字体に修正)と『木村氏昇段』の事実が述べられ、翌日8月24日以降の記事ではすべて四段表記となっております。そして1920年(大正9年)9月2日の『木村少年の七人抜き 本社特選将棋の殊勲者/木村義雄氏<写>』の記事の中で顔写真とともに「関根八段の門下には既に鬼才をもって目せらるゝ花田六段ありて本社所載の特選将棋に屡連戦連勝の殊勲を樹てたるが今又一人の偉才を出せり。此は同門の木村義雄氏にして本年十七歳の少年なるが同じく本社の特選将棋に根岸二段(香引)小泉四段(香落)花田六段(角落)金子二段(香引)村越六段(香落)に連勝し素功を以て三段より四段に進み更に寺田五段(平手番)村上六段(香落)との手合いに勝ち(別項参照)都合七人抜きとなりたれば例により本社は内規による賞を贈り其労を犒ひたるが戦闘は尚継続すれば其成績は刮目に値すべし。因に義雄氏は府下亀戸町字柳島木村鎌吉氏の長男にして将棋研究の一方神田の錦城予備学校に通ひ修学しつゝあり 」とあり、こちらでも村越為吉六段との対局直後に昇段した事実がわかります。
『木村義雄全集 修業篇 第2巻』によると「第五十一局 朝日新聞掲載 大正九年八月十九日 関根先生宅に於て (角香交 六段 村越爲吉 香落番 三段 木村義雄)」とあり、対局が1920年(大正9年)8月19日に行われたことがわかります。本棋戦は関根金次郎名人宅にて関根名人の前で開催されたものです。当時は昇段を認める、認めないを巡って関根名人と将棊同盟社の間に対立が起こっていた時代ですが(参考土居の八段昇進問題)、基本的には関根名人に昇段の決定権があり、関根名人が昇段を認めて免状を書けば、その場で昇段したはずです。Orichalcum(会話) 2024年6月10日 (月) 05:39 (UTC)Orichalcum(会話) 2024年6月10日 (月) 05:49 (UTC)Orichalcum(会話) 2024年6月10日 (月) 10:06 (UTC)Orichalcum(会話) 2024年6月11日 (火) 02:45 (UTC)
年齢について
[編集]なお当時は数え歳表記が普通でしたが、1920年の記事では17歳となっていて矛盾しています(1905年生まれであれば数え16歳)。ただ朝日新聞で木村義雄の名前が登場する一番古い記事は1917年(大正6年)1月17日の少年将棋手合で13歳とあり、こちらだと1905年生まれの数え13歳と矛盾はありません。少なくとも新聞記事では1902生まれの金子金五郎よりずっと年下のままです。Orichalcum(会話) 2024年6月11日 (火) 07:00 (UTC)