コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:木村氏

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

すべての木村氏か?

[編集]

114.154.43.138による2009年2月3日 (火) 18:23版をwikifyしましたが、ほとんどが平康頼についての記述に終始しております。また、それ以前の版での「神系木村氏」「豊後木村氏」「下総木村氏」「陸奥木村氏」「豊臣家臣 木村氏」についての記述がすべて除去されています。これは問題です。ご意見と本文への編集をお願いいたします。--Kmrt 2009年4月9日 (木) 03:38 (UTC)[返信]

2007年10月13日 (土) 06:43版までの記述を復活、整理しました。--Kmrt 2009年4月9日 (木) 03:51 (UTC)[返信]
Google検索をかけてみましたが、これでは検証可能性を担保できなさそうです。木村氏の家紋を扱ったページでも平康頼には全くふれてません。該当の部分を編集した徳島のOCNユーザー氏に出典を示していただけないかぎりは記述を除去するのも仕方ないと思います。—以上の署名の無いコメントは、暗黒な方会話履歴)さんが[2009-04-09T04:10:55 (UTC)]に投稿したものです。
お手数ありがとうございます。わたしも検索しましたが、当記述以外に「木村大明神 = 平康頼」説も見当たりませんね。--Kmrt 2009年4月9日 (木) 15:18 (UTC)[返信]
すみません、署名忘れてました。やはり見つけられませんでしたか。--松山の暗黒騎士・暗黒な方| 2009年4月9日 (木) 15:38 (UTC)[返信]
もし出典が見つけられたとしても、この記述は長過ぎますね。「…一人は「鶴田」を名乗った。」以降、「第3代」以降の間の記述は、除去あるいはコメントアウトでよろしいのではないかと思われます。--Kmrt 2009年4月9日 (木) 16:14 (UTC)[返信]

とりあえず、本項目と直接関係がなく不必要部分をコメントアウトし、「要出典」タグを貼付しました。出典があっても、関係があるのは、平康頼と3代目までというよりも、その絶滅と、平康頼が伴った3名の話だけだと思われますので。--Kmrt 2009年4月9日 (木) 16:23 (UTC)[返信]

同一人物と思われるIPユーザ114.156.88.97が、要出典タグを破壊してしまったので修復しました。--Kmrt 2009年5月8日 (金) 20:31 (UTC)[返信]
同一人物ですが、出典 ふるさと森山 は鴨島町森山公民館郷土研究会により 阿波誌をはじめ三十以上の出典を基に書かれています。木村大明神の碑文 田村大明神の碑文 を始め 小学校の校歌にも歌われて居り、徳島には幾らでも出典はあり書ききれません。出典を郷土に求めず、他に求めてもある筈がありません。できるだけ正確に書きたいと思います。--以上の署名のないコメントは、114.156.88.97会話/Whois)さんが 2009-5-13 04:33 (UTC) に投稿したものです。
「木村氏」と直接関係がなく他の項目に記述すべき内容は全てコメントアウトさせていただきました。また、以前[1]の版で出典を記載頂いていたようですが、体裁がおかしいため削除されています。出典の記述方式(<ref></ref>で囲む、文献名を著者名『文献名』出版社名、出版年、掲載ページとする。詳細はWikipedia:出典を明記する参照)を正しくした上で、再度出典明示をお願いします。また、署名はノートに自分が書いたコメントの直後に記載してください。また、本文には署名を記載しないでください。それと大変失礼な言い方で恐縮ですが、一度Wikipedia:記事を執筆するを始めとした、各種方針・ガイドラインをよくお読み下さいますようお願い致します。--Snap55 2009年5月19日 (火) 15:51 (UTC)[返信]
木村神社再建記念碑
今より742年の昔 平康頼公 麻植の国保司となる 木村家祖神も康頼公と共に都より当地に来り 森藤一丁地に館を築き 康頼公を助けて善政をしき 寺谷に熊野神社 鬼界山補陀洛寺及び慈眼山玉林寺を建立する 以来幾星霜 熊野神社の傍に 木村祖神として祀るが この度 ゆかりの者30数家相集い 神社を拡張 社殿を改築 祖先の御偉徳を顕彰すると共に 木村一族の心のより処とし これを後世に伝える
昭和53年春日--以上の署名のないコメントは、114.156.88.97会話/Whois)さんが 2009-5-29 09:45 (UTC) に投稿したものです。
私的な記念碑は出典として適切ではありません。適切な出典がどのようなものであるのかは、Wikipedia:信頼できる情報源をご確認下さい。--Snap55 2009年6月4日 (木) 15:08 (UTC)[返信]


平通盛を討つたのは野三成綱(旧姓小野)の倅の俊綱 佐々木三郎野三成綱は、平家全盛の頃に、源氏を見限って敵方に付いたのです。しかし、平家一族が都落ちをした後に源氏へ寝返って、去年一の谷合戦で、倅の俊綱は越前三位通盛を討ち取ってしまいました。そこで、その恩賞を臨んできましたが、前の平家への見方した事を憎んで、わざと許可をしませんでしたので、侍従公佐を通じて、盛んに嘆いてきたので、息子の手柄に免じて、元からの領地については知行してよいと約束をなされました。(吾妻鏡 元暦二年 1185年 六月大二十五日丙子) --114.156.88.97 2009年6月3日 (水) 19:31 (UTC)--位置が不適切のため署名移動--Snap55 2009年6月4日 (木) 15:08 (UTC)[返信]

現段階で「近江の木村氏」セクションに記載すべき内容は、近江の木村氏の出自に関する情報であり、今回加筆頂いた文の本来の趣旨は「『源平盛衰記』では木村成綱を紀成高の四代の孫としている」です。「史実として」平通盛を討ったのは木村俊綱である、と主張されることについて否定しませんが、加筆頂くのであれば、このセクションの趣旨を壊さない形で加筆してください。なお、史実かどうかは別にして木村成綱が平通盛を討った、との記述は『源平盛衰記』や『平家物語』で見られますので、史実でないことを理由としての該当部分への単純な上書きは全く適切でないと思慮します。
114.156.88.97さんにおかれましては、項目の趣旨を十分に踏まえず、闇雲にご自身の知見を加筆されているケースが散見されます。ついては、今後加筆をされる場合は、前後の文脈はどのようなものであるのか、あるいは該当項目・セクションで本来記載されるべき事項は何であるのか、をよくお考え頂き、百科事典として適切な執筆を心がけて頂きますようお願い申し上げます。
それと、情報源の記載内容を記述頂いていますが、著作権の問題は大丈夫でしょうか。Wikipediaでは著作権に関する取り扱いがかなりシビアになっていますので、ご注意下さい。詳細はWikipedia:著作権をご参照下さい。
また、以前も指摘させて頂いていますが署名が適切ではありません。Wikipedia:署名をよくご確認下さい。--Snap55 2009年6月4日 (木) 15:08 (UTC)[返信]

なを、田村姓の概要に於いて、「田村庄司職を奪取したとみられる田村氏(三春田村氏)は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから平姓であることが明らかである。」としている。--114.156.88.97 2009年6月8日 (月) 04:00 (UTC)[返信]

上記コメントで引用している戦国大名田村氏の出自は、ここで問題となっている平康頼系田村氏とは別系であり、関係がありません。田村氏のところでは114.169.161.155さんが同様の論説を書きこんでいます。おそらく、114.156.88.97=114.169.161.155 であり、ここで記載している平康頼系の阿波木村氏もしくは田村氏の子孫と伝承されている家のものではないかと推察します。wikipediaは個人の家系自慢をする場所ではありません。また、個人の家の屋号や場所の移転など百科事典としては要らない情報です。もし、これを114.156.88.97=114.169.161.155が観ているのなら、荒らし同然の編集を止めたほうがよいと思います。それはあなたが誇りに思っているご先祖様を貶めることにもなりますよ。--220.215.160.165 2009年10月26日 (月) 17:34 (UTC)[返信]
本欄の6.2 水戸藩の志士・義民たる木村氏 に天狗党に加わった木村勘兵衛と言う人の名前が載っておりますが、元々の木邑本家から家だけを譲り受け、文化年中の頃に本家を名乗る者が居なかった様で、話し合いで決めて本家を名乗って居りますが、当家の今は廃家になっている家を建てた人が棟木によりますと「 茂兵衛 倅 勘兵衛 代 」となっております。没年は少し異なり、元治元年申子(1864年)十二月廿九日 となっております。 単なる同姓同名と言うことだけなのか、気になります。平に縁の、長門守縁の木邑氏の多くが天狗党の尊王攘夷派に加わり倒幕に加わったので幕府から命を狙われ、同族にも累を及ぼす恐れがあったので秘密にされたのか何も伝わってはおりません。平や長門守とは無縁の木村氏を名乗ることで幕府の追跡を逃れたのでしょう。

天狗党に加わった木村勘兵衛と言う人の出生地をご存じの方が居られましたらお教え下さい。木邑--210.234.28.92 2013年4月11日 (木) 14:28 (UTC)[返信]

水戸藩の志士・義民たる木村氏に載っている茨城郡島田村の郷士木村又蔵は木村勘兵衛芳道の長男とのことであるが、加藤清正の家臣で加藤十六将の一人の木村又蔵とは全くの別人であろう、時代が全く異なる。なを当家にも木村勘兵衛と言う者が居り元治元年申子(1864年)十二月廿九日に亡くなっている。亡くなった日時は多少異なる様だが単なる同姓同名とも思えぬ。驚く事に大塩平八郎の乱の後に勘兵衛の五人の子供が相次いで亡くなっている。戸藩の志士・義民たる木村勘兵衛に付いて解るのであれば詳しく教えて欲しい。--219.120.253.2 2013年10月19日 (土) 16:22 (UTC)木邑[返信]

IP(114.169.161.155)さんへの質問

[編集]

以下が『ふるさと森山』内に直接記載されている内容かどうかについて、「はい」または「いいえ」、で教えてください。

  1. 平姓を称した家人の一人が木村(木邑)姓に改姓したこと。「はい」49ページ
  2. 家人の平姓から木村姓への改姓事情について、無位無冠となった家人の平を世間にさらすに忍びず改姓したものと思われる、という推測。「いいえ」別の解釈をしている
  3. 「邑」の字について、正確には邑は口に巴ではなく、巴の中の縦棒下の横棒は人になること。「いいえ」本家に伝わるもので、そこまでは把握されていない、書物や掛け軸などには木邑氏所蔵のサインはあったが、今は本はないが、別の方法で確認は出来ます。
  4. 家人の子孫が明治時代まで木邑姓を名乗っていたが、現在は木村姓であること。「いいえ」木邑を名乗っていたことは把握されていない
  5. 活字が作られなかった為、異なる氏族が同じ木村を名乗ることになったのかもしれない、とする推測。「いいえ」私の推測です

ちなみに、木邑の邑の字の意味は 口(くにがまえ、領域)+ 巴(屈服した人を服従させ、その地に止めるの意) なを、もう一人の家人の平についても同誌では「田室」を名乗り、更に「田村」に改姓したとしている。発祥の地 山路寺谷は木村と田村のニ家がほとんどを占めます。木邑と田室を名乗るものは今はいません。 明治の氏姓制度で姓を変えられた人はたくさんおります。 越智宿禰博文は伊藤博文に、菅原朝臣重信は大隈重信に、藤原朝臣利通は大久保利通に、源朝臣直正は鍋島直正に源朝臣有朋は山縣有朋に  木邑姓から木村姓へもこの時に変えられたのでしょう。--木邑 --118.13.100.95 2009年12月25日 (金) 11:12 (UTC) --Snap55 2009年12月24日 (木) 14:48 (UTC)[返信]

IP(114.169.161.155)=(118.13.100.95)さんは当該記事以外にも、信頼性が薄い自身の推測に基づく論説を
追記する編集を繰り返しております。
また、編集にあたってのルールやフォーマットを理解せずに無秩序な編集を続けております。
この点について、IP(114.169.161.155)さんの会話ページで討論を続けてまいりましたが、Wikipediaの方針も編集に
あたってのルールも理解していただけませんでした。(むしろ理解する気もルールに従う気もないように見受けられます。)
いくつかの記事に至っては他ユーザが直しても再度編集を行い自身の論説をのせる、または脈絡のない文章が追記されることに
より記事の内容が滅茶苦茶になったものもあります。
悪質なユーザとして、投稿ブロックを検討する時期に来ているのではないでしょうか?--220.215.160.165 2009年12月25日 (金) 17:26 (UTC)[返信]


ご回答ありがとうございます。1については出典もありますので、本文へ記載を残すことに反対いたしません。ただし、2-5については出典が不明ですので、本文への記載をされる場合は出典を明記ください。--Snap55 2009年12月26日 (土) 02:10 (UTC)[返信]


>明治の氏姓制度で姓を変えられた人はたくさんおります。越智宿禰博文は伊藤博文に、菅原朝臣重信は大隈重信、

氏と姓(カバネ)、苗字(苗字)の違いを御存じないのでしょうか?
明治の氏姓制度は「苗字」と「本姓(氏)」、「通称」と「実名」の併称を禁止しただけです。
例えば越智宿禰博文と名乗るのは宮中関係の正式な場合のみで普段は「伊藤俊輔(博文)」。
これを「姓を変えた」と捉えることはできません。
推論といえど、もっと歴史を勉強なされたほうがよいと思います。--220.215.160.165 2010年2月1日 (月) 17:53 (UTC)[返信]

1.7 豊臣家臣 木村氏 とする項目は阿波の木村氏の系統である。

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/ajiro1.htm 末尾の(注釈3)を参照のこと    【写真 鶴橋斎場墓地、木村司馬之輔建立の墓碑 (略)】

前者は『大塩研究』第四一号「木村司馬之助の一足跡」政野敦子・二000年三月刊p40に記録されている。後者は、左側面に

天保二辛卯初秋建焉 木邑権右衛門(註3)

正面に「釈浄和」など六人の戒名が刻まれたもので浄円墓碑から左回りで二つ目か三つ目位の場所にあった。春・秋と建立の季節は違うが同じ天保二年であることに何か意味がありそうな気もする。

(註3) 後述のように、これら無縁墓碑が悉く失われた現在、再び実物を見ることができないので、後考のため、この墓碑の正面の文字を一応書き留めておく。 木邑 --119.150.65.91 2011年2月5日 (土) 17:08 (UTC)[返信]