ノート:木戸松子/過去ログ1
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下記内容について出典はおろか根拠史料等全く提示されておらず、通説ともなっていない内容であるにもかかわらず、まるで史実であるかのように断定した表現で書かれていたため修正しておりました。 何らかの根拠となる一次史料をご提示頂ければと思います。
- 京都木屋町13番路次(現在・上木屋町幾松 現住所京都市中京区木屋町御池上る上樵木町497番地)
- 維新後は京都木屋町木戸別邸として、京都での木戸の政治の舞台となった思い出深い当地で
- 18番地の寄留所(現住所:京都市[[中京区上樵木町507番地に相当する
- 主治医は半井療病院長の山田純友であった。
- 木屋町木戸別邸より出棺される。
--Funky-groove 2009年1月7日 (水) 15:39 (UTC)
えらく細かい表記でもめてるんですねぇ・・・・。 一次史料の提示を相手にお求めになるのでしたら、 7・13番路次の場所については現在特定されていないが、木戸松子自筆の書簡に記された住所から13番路次であった事は明らかである。 という記載についても、「木戸孝允関係文書3」に掲載されている手紙の住所表記がどこかにあるのか、 それ以外の書簡だとすれば、そちらの出典も明らかにされたほうがいいのではないでしょうか。
--Bikuni 2009年1月12日 (月) 23:40 (UTC)
先ず13番路地との住所表記ですが、松子・忠太郎が西島青浦夫妻に宛てた数通の書簡です。 松子の書簡ですので木戸孝允関係文書には掲載されていません。 その書簡は西島家所蔵品が売り立てされた際、京都の古書収集家が落札されたものです。 実物は拝見していませんが複写したものを所有しており、そこに13番路地と記載されています。13番路地が497番地であるという史料は現在何も存在しませんし、仮に他の史料から推察するとしても、497番地を13番路地とした場合、他の多くの史料と整合性が無くなります。
又二条から南に地番だけで数えれば497番地が13番目になりますが、路地が存在しなかった地番や、地番は分かれていても実際は屋敷は一つであったところも存在するので、地番と路地番号をそのまま結びつける事はできません。
7番については507番地の事か、あるいは5番路地の事でしょうか。
療病院が507番地であったであろう事は旧土地台帳からも大凡判断できますが、507番地が18番の寄留所であったとは現在断定できません。
5番路地については木戸公が槙村正直に宛てた書簡の中で「先年拝借いたし居り候五番路地」と書かれています。
確かに細かい表記かもしれませんが、以前週刊ポストで歴史捏造とされた営利企業だけが発信する根拠の示されていない情報と類似しているため、当該企業の宣伝である可能性も現段階では否定できないからです。
様々な説があることは当然ですが、まるで史実であるかのような断定した記述は問題があると感じます。 --Funky-groove 2009年1月14日 (水) 06:41 (UTC)
そうですか、去年刊行された「木戸孝允関係文書3」には、松子夫人の書簡が37通掲載されているので、 その差出人住所としてどこかに公開されているのかと思いました。 個人蔵の書簡とすれば、少々話は難しくなります。まず、書簡の由緒来歴がはっきりしていること。 西島青浦宛とのことですが、「木戸孝允文書」に、西島家の書簡は数通掲載されておりますから、 これらの書簡が宮内庁書陵部に採取された際に、何故漏れて民間に出回ったのかということですね。 それらが公開され、真贋の判定も含め、広く研究の対象として開かれていることが必要でしょう。 そうでなければ、あなたが13番路地と史実でもないのに断定していることになります。 (注)7.は補注の番号です。 --Bikuni 2009年1月18日 (日) 03:23 (UTC)
どこまで書けば良いか非常に悩みますが、掻い摘んで書けば13番路地については書簡の住所だけではありません。昭和32年に嘉治隆一氏が執筆された文芸春秋の小稿の中で木戸忠太郎氏が「生後木屋町二条十三番地に引き取られた」と記載されています。同稿は嘉治氏が忠太郎氏に取材し執筆されたものですので、これすら真贋を問うと言われれば何も言えません。
又先の書簡についてはその内容が松子・忠太郎氏で無ければ書けないものであり、他者が書いたと疑う余地も無いものです。仮に他者が書いたとするなら、誰が何のためにという疑問と同時に、忠太郎・松子と西島夫妻の密接な関係を否定しなくてはいけないでしょう。果たして西島夫妻が忠太郎・松子の文字と判断出来ず騙されて返信するのかという事です。密接な関係については嘉治氏が執筆された「人物万華鏡」の中で忠太郎氏の文章を用い克明に記されています。
何故民間に出回ったのかについてはわかりませんが、果たして西島家の書簡が"全て"宮内庁書陵部に採取されたかどうかについて興味は湧きます。
尚書簡については所有者が地元歴史研究家に調査依頼された事を報じる、京都新聞・毎日新聞の記事は記憶に新しいです。
「公開され、真贋の判定も含め、広く研究の対象として開かれていることが必要」というご意見を否定する気はありませんが、それが絶対とするのはどうかと感じる部分があります。例えば生咲家に伝わる系図や資料、あるいは菩提寺に残る過去帳等は、一般に公開されていませんし広く研究の対象にもなっていませんが、この真贋を問う事に意味は見出せません。又同様に木戸千子の日記等についても同じです。
著名な研究家が本物として某所で展示されている松子ゆかりの品が、実は全く関係の無い品であることなどは、実際に地元で購入先から調査を行なわなければ文献等だけでは判断出来ないでしょう。
--Funky-groove 2009年1月18日 (日) 14:32 (UTC)
大変興味深い研究ではありますが、funky様は、ここがwikipediaであることを忘れておられるようです。もう一度基本方針を読み直しましょう。
ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます。
検証可能性は、ウィキペディアの記事における三つの方針のうちの一つです。あとの二つは、「Wikipedia:中立的な観点」と、「Wikipedia:独自研究は載せない」です。ウィキペディアではこれらの方針を併せて標準名前空間、つまり記事に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互に補完しあうものであり、それらをばらばらに切り離して解釈すべきではありません。編集者はこれら三つの方針を併せて理解するよう努めてください。この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。
--ざんぎり頭 2009年1月19日 (月) 06:40 (UTC)
一番最初に書きましたように、求めていたのは何らかの根拠となる一次史料の提示あるいは、断定した書き方の修正です。
前者は検証可能とするためのものですので、問題は無いですよね。後者については中立性という部分に該当すると思い記載いたしました。 その後の部分については、可能な限り検証可能とするために史料等を明らかにしたつもりですが、そもそも検証可能ということが、誰でもネット上で無料で簡単に等々の制約がひとつでも付くのであれば当方の提示した資料等は検証できないものかもしれません。この点についてはお詫びいたします。
Bikuni さんからご指摘頂いた補注7の路地番号及び住所表記についても、現段階で上記を理由とし削除されても全く問題がありません。検証性については、木戸松子に関する他の部分でも果たして検証できるのか?といった疑問がありますが、不確定な内容を根拠史料の提示も無しに、まるで史実であるかのうように断定した書き方をされている部分が修正できるのであれば、疑問をあえて問う気はありません。
さて落しどころを探すのはどうすれば良いでしょう。
--Funky-groove 2009年1月19日 (月) 08:38 (UTC)
まず最初にお詫びしなければならないのは、僕がwikiの基本の方針をちゃんと読んでいなかったために、 無用な混乱を引き起こしたことです。ざんぎり頭様とfunky様にお詫び申し上げます。 でも、そのおかげでfunky様とbikuni様のやりとりを拝見できたのは有意義でした。ありがとうございました。
もう一つお詫びしたいのは、funky様に営利企業の宣伝という疑いをもたれたことです。 これは幾松様のことですよね? 僕は寺田屋のページに貼り付けられたfunky様のサイトを見て、こちらに参りましたただの坂本先生崇拝者の幕末ファンですので、 営利企業の宣伝という意図は全くありません。
今回まとめて読ませていただきましたが、funky様は何年も前から幾松様を歴史ねつ造と断定され、活発に活動されてたんですね。
そして週刊ポストの記事もfunky様が書かせたものだと告白なさっていたので驚きました。
僕はポストの記事を非常に残念に思っていたので、funky様が幾松様を抹消されるのは間違いであり、
松子夫人の項目には、この施設の掲載が不可欠と思い編集しておりました。そして、前記のwikiの方針に無知なために編集合戦と判断されて、保護の措置となってしまいました。
寺田屋は、坂本先生の崇拝者にとっての聖地であり、再建であろう東隣であろうとその重要性はかわりません。
同じく幾松様は木戸先生の崇拝者にとっての聖地であり、木屋町に幾松様以外に木戸先生と松子夫人を顕彰し偲ぶことができる施設は他にありません。
それに、僕が13番路次の記述の後にfunky様が消した(上木屋町幾松)を書いたのは、僕の本にも13番路次が幾松様の土地であることを示すものがあったからです。秘蔵の史料ではなく、どこの図書館にも普通においてあるであろう史料です。
松子夫人直筆の書簡については僕は知らなかったので、一致に驚き、これは間違いないと思ったのです。
でも、これは独自研究であるので載せられないわけですよね?
主治医については、funky様の前の文章に書かれていたものなので、出典は知りません、すみません、しかも転記間違いで山田文友でした。
木屋町寓居に色んな政治家が出入りしていたことは、日記や文書により明らかだと思います。
wikiの読者の便宜のために、何番地かよりも施設名により、色んな人が検証できるようにすることが必要だと思います。
funky様の説が正しいか正しくないかはこれからの研究に期待したいと思います。
中立的な観点からも検証可能性という点からも、(上木屋町 幾松)は掲載するべきと考えます。
--維新の志士 2009年1月23日 (金) 15:19 (UTC)
週刊ポストに記事を書かせたという事実はありません。 聖地との表現や木戸公・松子夫人を偲ぶ施設が幾松以外にあるかどうかは維新の志士さんの主観でしょうし、番地・施設名等の不確かな記述は全て削除するほうが一番中立的でしょう。仮に番地・施設名が無くてもページには影響は無いでしょうから。
--Funky-groove 2009年1月24日 (土) 01:11 (UTC)
聖地という表現はもちろん僕の主観ですが、木戸先生、松子夫人を顕彰し偲ぶ施設が木屋町には幾松さんしかないというのは客観的事実です。他にあるなら是非教えて下さい。 それにこれは、僕が書き加えたものではなく、funky様が削除したものを復活させただけです。 funky様は、三年もかけて幾松さんに関心を持ち、告発記事を書き続けてこられたのですから、wikiという公平な場で検証可能性を開くことによって、正しい歴史に近づくことは、望むところではないのでしょうか。 施設名さえ掲載させないということは、自論以外は結論と認めない態度の表明になると思いますがいかがでしょうか?
--維新の志士 2009年1月25日 (日) 16:31 (UTC)
まだご理解頂いていないようですね。 維新の志士さんは何ら根拠も示さず主観により断定しお書きになる。寺田屋ページのリンク先執筆者と断定されているようですが、その根拠は何でしょうか。各紙で報道された京都市の会見資料が一番詳細に紹介されていたのでリンクしたに過ぎません。
前回の「週刊ポストに記事を書かせた」について何ら説明されない状態で、今度は「三年もかけて幾松さんに関心を持ち、告発記事を書き続けてこられた」とされている。これでは検証可能性の有無以前に、維新の志士さんの主観は全て正しくそれが事実であると押し付けられている状態では無いでしょうか。
顕彰についてはwikiページでも「市民による顕彰は、ときに主観的で公共の価値観と乖離する恐れがないわけではない。」とされています。同施設の情報発信が果たして顕彰であるのかは議論の余地があると感じています。顕彰の名の元に何をやっても許されるわけでは無いでしょうし、実際木戸公・松子夫人を利用しているだけと感じておられる方も存在するようです。
もし維新の志士さんが同施設の発信する情報が正しいとされるのなら、様々なエピソード?についてはページ編集されず、木屋町の住居についてだけ拘られるのは何故なんでしょう。
木屋町の住居について幾松というところが「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論」なのでしょうか。それであるなら掲載されれば良いでしょうが、同時に小学館という広く信頼されている発行元から観光偽装・捏造と公開されている事も併記すべきと感じます。
しかしそのような記述をあえてしなくても、「木屋町の住居に移り住んだ」とだけ記せば木戸松子のページとして充分では無いでしょうか。
維新の志士さんは何が何でも「幾松」という企業名を掲載しなければ気がお済にならないようにも感じられますが、「ただの坂本先生崇拝者の幕末ファン」であるならそこまで拘られなくても宜しいかと。
しかし何よりも寺田屋ページのリンク先執筆者と決め付けた上に様々な主観を元にされているご発言なので、その前提について明らかにして頂け無ければ議論として成立するのか疑問です。
--Funky-groove 2009年1月26日 (月) 06:17 (UTC)
根拠も前提も全くなくて、ただの直観です・・・って書いたらまたfunky様はお怒りになるでしょうね。
申し訳ございません。僕の方には、funky様とリンク先を結びつける証拠は何もないです。
勝手に決め付けたことをお詫び申し上げます。
僕が幾松さんの名称掲載にこだわる理由はたくさんあります。
まず、京都の幕末史跡がどんどんなくなっていること。
パチンコ屋さんさえも潰れてしまった池田屋さんを代表として、近江屋さん跡にも幕末を偲ぶよすがは全くありません。
寺田屋さんにしても、今回の騒ぎで、ではもう辞めます・・・になったらどうしようかと思いました。
幸い、世論はその方向には動かなくて、寺田屋の拝観客は増えているというニュースにホッとしました。
明保野亭さんもちゃんと記載されています。それから・・・と、またfunky様の御反論があると思いますので、
一つずつ書きます。funky様、どうぞ。
--維新の志士 2009年1月27日 (火) 17:29 (UTC)
日めくりドリル・一問一答をする気はありませんので、主張・反論がおありなら小出しせず纏めてお書きください。
--Funky-groove 2009年1月28日 (水) 06:59 (UTC)
funky様、様々な興味深い史料のご提示を有難うございました。私もwikiの原則をよく知らないままにお尋ねしてしまい、ざんぎり頭様のご指摘を頂戴してしまったこと、お詫びいたします。でも、~誰でもネット上で無料で簡単に~というような制約はwikiにはないと思いますよ。 信頼のおける情報源に基づいた検証可能な内容であればよいのですから、後世の研究者のためにも、早い機会に論文になり公開なさっていただけたらと思いました。
それから、funky様があのサイトの執筆者じゃなくて本当によかったです。私はもう十年近く前になりますが、長州藩について卒論を書いた時、幾松様には膨大な史料をお貸し出し頂き、ご当主には何度もご解説を頂きました。また修学旅行生もたくさん見学に来られていましたし、歴史ファンの交流の場として機能しているように思えました。公共性から見ても、施設名称の掲載はなんら問題ないと思います。
維新の志士様、幕末の史跡がなくなっていくとの嘆き、全く同感です。ポストの記事には私も心を痛めておりました。 私はもう研究の場を離れてしまいましたが、もっとたくさんの方が歴史に興味をもつことで、研究が進み、それが史跡を守ることにつながればいいですね。
--Bikuni 2009年1月31日 (土) 17:47 (UTC)
- Bikuni、維新の志士、ざんぎり頭の三つのアカウントを「多重アカウントの不正使用、議論撹乱、自演行為、もしくは共謀行為。」という理由でブロックいたしました。--海獺 2009年2月2日 (月) 18:06 (UTC)
そうですか、自作自演の疑いもあったのですか。
これでは否定された「当該企業の宣伝である可能性」も疑わざるを得ない状態ですね。主張されている内容については、このノートで議論すべきかどうかを別にすれば、「幕末の史跡」等理解できる部分もあったのですが、非常に残念です。
--Funky-groove 2009年2月3日 (火) 01:58 (UTC)
DCyokohama 氏により編集された下記部分についてです。
[編集] 死去 明治19年4月10日(1886年)午前4時、上京31組上樵木町(現住所:京都市中京区木屋町通御池上ル)18番地の寄留所[8]にて、胃病により病死。享年44歳。
場所が特定されていない段階で
補注8. 18番地の寄留所については現在特定されていないが
「御池上ル」とするのはどうなんでしょう。ノートでこれまで議論されてきた検証可能な状態でも無いと感じるのですが。
--Funky-groove 2009年2月22日 (日) 13:51 (UTC)
まず、僕の投稿ブロック解除については、Funky-grooveさんとBikuniさんのノートページには書きましたが、維新の志士とざんぎり頭が同居人であったことからの一時ストップで、自作自演の疑いではなく、また当該企業の宣伝マンでもありませんのでよろしくご理解下さい。
さて、DCyokohamaさんの編集部分ですが、僕はO.K.だと思います。当時と今の住所表記が違うことは、Funky-grooveさんもおっしゃっていることですし、Wikipedia読者の便宜のために、たどりやすく断定しない住所、想起しやすい施設の記述でいいのではないでしょうか。番地の決着をWikipedia上でつけるつもりではないでしょうし、その辺りで晩年をお過ごしになり、亡くなられたのか・・・ぐらいで充分だと思いますが。--維新の志士 2009年2月22日 (日) 16:33 (UTC)
> Wikipedia読者の便宜のために、たどりやすく断定しない住所、想起しやすい施設の記述でいいのではないでしょうか。
いや、既に「御池上がる」と断定されている事について述べているのですから、それを断定していないと書かれても議論になりません。
御池通は昭和20年に強制疎開により拡幅されています。
「御池上がる」が現在の御池通を指すのであれば、18番地の寄留所は御池通上であった可能性もあります。
「御池上がる」が拡幅以前の御池通を指すのであれば、18番地の寄留所は御池下るであった可能性もあります。
どちらにしても18番地の寄留所が特定されていない状態ですから「上來三十一組上樵木町」に存在した事しか判断できません。又、「御池上がる」であった事を検証できる情報源も記載されていません。
そのような状態であるにも係わらず、これまで何度も書かれてきた検証可能性という基本方針より、読者の便宜・辿り易さ・想起し易さを優先されるかのような維新の志士さんのコメントは到底理解できるものでは無いです。
> 番地の決着をWikipedia上でつけるつもりではないでしょうし、その辺りで晩年をお過ごしになり、亡くなられたのか・・・ぐらいで充分だと思いますが。
その辺りで良いのであれば「上來三十一組上樵木町」で充分でしょう。
--Funky-groove 2009年2月23日 (月) 06:44 (UTC)
「上來三十一組上樵木町」という表記を見ても、現在のWikipedia読者にはさっぱりどこのことかわからないですよね。 DCyokohamaさんは、 >上京31組上樵木町(現住所:京都市中京区木屋町通御池上ル)18番地の寄留所[8] と書かれていますから、18番地の寄留所が木屋町通御池上がるだと断定されているわけではなく、上樵木町という町名の位置の説明として投稿されたのではないでしょうか。--維新の志士 2009年2月24日 (火) 14:56 (UTC)
>上樵木町という町名の位置の説明として投稿されたのではないでしょうか。
それであっても先に書いたのと同じ。 町の境界がどうなっているのかを理解していれば上樵木町を御池上ルと書く事が適切かどうか判断できるはず。理解できないのであれば字図を調べてみると良い。
上樵木町の大まかな場所を書くのであれば、「木屋町通り二条御池間辺り」といった書き方もできるわけだし、それをあえて御池上がると書かなければいけないとは思わない。
又記述方法については補注を用いる事も可能であるのだから、誤解を招く恐れのある記述方法は避ければ良いと思う。
--Funky-groove 2009年2月25日 (水) 07:22 (UTC)
DCyokohamaさんは、ノートページに出現なさいませんが、このような場合はどうすればいいのでしょうかね。 僕は18番地の寄留所については、あまり重視しておりませんので、DCyokohamaさんの記述に特に問題があるとは思いませんが、Funky-grooveさんには、強固なご主張がおありになるようなので、お二人の間で解決していただければ、どちらに加担するわけでもありません。 --維新の志士 2009年3月2日 (月) 13:47 (UTC)
強固な主張って…。
最初から一貫して不確かな内容を断定した書き方で表現する事を避けるべき、仮に不確かであっても書く必要が高い内容であるなら、出典等を明示し誰もが検証出来る状態にするべきだと主張しているだけ。
これまで不確かで出典の明示の無い内容についても掲載は問題無いと主張されてきた維新の志士さんが、「あまり重視しておりません」と言われるのはどうかと。それなら読者の便宜・辿り易さ・想起し易さなんて書く事も無かったと思うけど。
--Funky-groove 2009年3月3日 (火) 08:51 (UTC)
> 僕は18番地の寄留所については、あまり重視しておりませんので
編集合戦と判断された中に、18番地の寄留所に関する記述は大きく係っているんですが、重視されていない記述を何度も編集されたのですか。それであるなら他にもあまり重視されていないにも係わらず編集された部分が存在するのでしょうか。
--Funky-groove 2009年3月3日 (火) 20:57 (UTC)
いいえ。僕はFunky-Grooveさんご主張の13番地に木屋町別邸があったと思い、そこが松子夫人最後の土地であり、現在、幾松さんが立地する場所だと思っていますので、寄留所であるに過ぎない18番地については、別に記載の必要はないと思っています。ただ、Funky-GrooveさんやDCyokohamaさんが必要性を主張なさるなら、掲載されてもよろしいんじゃないですか・・・という意味合いです。編集合戦と判断された時は、まだWikipediaの三大方針のことをわかっておりませんでしたので、思いこみで書いておりましたが、Funky-grooveさんとBikuniさんの議論は興味深かったものの、独自研究なので、本文には載せられないだろうし、同じく僕が13番路次が幾松さんであるというのも独自研究であるので、載せられないであろうと。そりゃ、これだけノートで議論を重ねてきているのですから、自分の説を修正するのが当然でしょう。初めに自分が主張したことをまるっきり譲らず、押し通すだけでしたら、ノートでの議論なんて無価値ですから。18番地については、僕の主張を引き、Funky-GrooveさんとDCyokohamaさんにお任せしますよという意味だったのですが、僕の主張は全て悪意にとられてしまうのですか?
ただ、幾松さんが木戸松子ゆかりの施設であること、桂小五郎幾松寓居跡であったことは通説として世間に認知されておりますし、検証可能な史料も列挙できますから、掲載されるべきであろうというのが僕の主張です。--維新の志士 2009年3月5日 (木) 13:41 (UTC)
> そりゃ、これだけノートで議論を重ねてきているのですから、自分の説を修正するのが当然でしょう。初めに自分が主張したことをまるっきり譲らず、押し通すだけでしたら、ノートでの議論なんて無価値ですから。
説・主張を修正される事に異議はありませんが、修正されたのであれば誰もが理解できるようにお書き頂かないと、修正されたと理解する事は無理です。
2009年3月2日 (月) 13:47で突然「僕は18番地の寄留所については、あまり重視しておりません」と書かれても、それがその時点で修正されたのか以前からそう主張されていたのか、どうやって判断するのでしょう。
> 寄留所であるに過ぎない18番地については、別に記載の必要はないと思っています。
維新の志士 さんと議論していたのは、寄留所の記載では無く寄留所がどこであったか、あるいは上樵木町がどこであるかについてだと認識していましたが、寄留所の記載についてさえ意見が異なるという事でしょうか。少なくとも日出新聞という検証可能な史料から引用していますので問題は無いと感じています。
> Funky-grooveさんとBikuniさんの議論は興味深かったものの、独自研究なので、本文には載せられないだろうし、同じく僕が13番路次が幾松さんであるというのも独自研究であるので、載せられないであろうと。
13番路地については公開されている史料では無い事から、2009年1月19日 (月) 08:38 時点で「削除されても全く問題がありません。」と書いております。しかし維新の志士 さんは「僕の本にも13番路次が幾松様の土地であることを示すものがあったからです。秘蔵の史料ではなく、どこの図書館にも普通においてあるであろう史料です。」と、既に公開されている史料が存在しお持ちである事を書かれているのですから、出典を明示されれば良い事です。
> 僕の主張は全て悪意にとられてしまうのですか?
明確な説明をお書き頂け無い限りは、そう取られてしまう恐れがある事はご理解頂けますか?
ノートに一番最初に記載した5項目は、いずれも編集合戦となった内容です。それについて現在維新の志士 さんの説・主張がどうであるのか、明確にお書き頂けないでしょうか。
> ただ、幾松さんが木戸松子ゆかりの施設であること、桂小五郎幾松寓居跡であったことは通説として世間に認知されておりますし、検証可能な史料も列挙できますから、掲載されるべきであろうというのが僕の主張です。
これについては既に2009年1月26日 (月) 06:17 時点で「木屋町の住居について幾松というところが「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論」なのでしょうか。それであるなら掲載されれば良いでしょうが、同時に小学館という広く信頼されている発行元から観光偽装・捏造と公開されている事も併記すべきと感じます。」としていますので、記載されれば宜しいかと。こちらは週刊ポストの記事を併記するだけですから何も問題ありませんよね。
それから2009年1月28日 (水) 06:59 に「主張・反論がおありなら小出しせず纏めてお書きください。」と書きましたが、それについてのコメントは未だ頂戴しておりません。是非「幾松さんの名称掲載にこだわる理由」についてお書き頂ければと思います。
--Funky-groove 2009年3月6日 (金) 00:01 (UTC)
書くのを忘れていましたが、旅館幾松が木戸松子ゆかりの施設と発信されているのは、桂小五郎幾松寓居跡であったとの主張からですよね。これが多くの書籍等で掲載されている事については認識しておりますし、それをもって通説とされるのであれば仕方無いかとも思います。
しかしあくまで、桂小五郎幾松寓居跡であって木戸孝允没後の木戸松子の寓居としては発信されているとは認識していません。つまりは旅館幾松が発信している情報は維新前のものであり、施設も木戸夫妻の寓居としてであり木戸孝允没後の木戸松子の寓居とは異なります。
仮に維新後の木戸夫妻の寓居の事であったとしても日記で明らかにされている5番路地と、木戸松子の寓居であろう13番路地がが同じ場所となり、これは奇妙で到底理解できる話ではありません。
ですので維新の志士さんがお持ちの13番路地が現幾松であるとする史料を明示していただければ、もしかすれば維新前について観光偽装があるとする週刊ポストの記事を後押しできるのかもしれません。
--Funky-groove 2009年3月6日 (金) 00:26 (UTC)
- まずは、funky-grooveさんのノートの最初の5項目についてお答えします。
- 京都木屋町13番路次(現在・上木屋町幾松 現住所京都市中京区木屋町御池上る上樵木町497番地)
- まず、一番問題視されているであろうこの点ですが、僕が本文に書き込みをしていた時点では、Wikipediaの方針を熟読しておりませんでした。だから、図書館においてあるような図書であれば、掲載に問題はないと思っておりましたが、独自研究を載せない観点から検討して、掲載できないことに気付きました。funky-grooveさんはよく御存じだと思いますが、一応貼り付けてみます。
- 記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです
- もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む、 「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します[2]。「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。
- 僕の手元には、13番地に吉富楼があったとする史料Aと吉富楼が新三浦になり幾松となったという史料Bがあるので、当然13番地は現幾松さんの土地と解釈したのですが、それは僕の解釈が入るので掲載できないようです。
- 維新後は京都木屋町木戸別邸として、京都での木戸の政治の舞台となった思い出深い当地で
- これは、木戸孝允日記と木戸孝允文書によって証明できると思いますが、出入りしていた人物と年月日の列挙になります。
- 18番地の寄留所(現住所:京都市[[中京区上樵木町507番地に相当する
- 先日申し述べた通りです。Funky-grooveさんとDCyokohamaさんの判断に委ねます。
- 主治医は半井療病院長の山田純友であった。
- 木屋町木戸別邸より出棺される。
- これも先述したと思いますが、僕が初出したのではないので、出典はわかりません。山田純友は転記間違いで山田文友です。
- さて、ここまでが、僕のfunky-grooveさんへの答えですが、ここからは質問です。
- funky-grooveさんが何かと拠り所にされている週刊ポストですが、
- = 信頼性に乏しい情報源 =
- 一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。
- に相当するのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
- また、今月4日に小学館より発売されたサライ2009/3/19号の36ページには、
と掲載されています。もし、小学館という出版社がfunky-grooveさんがおっしゃるとおり本当に広く信頼されている発行元ならば、サライのこの見解をもって小学館の最新の見解と解釈するのが妥当と思うのですが、いかがでしょうか。--維新の志士 2009年3月8日 (日) 17:37 (UTC)>「幾松がかつて暮らした屋敷は現存し、今は料亭『幾松』となっている」
> 当然13番地は現幾松さんの土地と解釈したのですが、それは僕の解釈が入るので掲載できないようです。
そうですか。繋ぎ合わせた解釈だったわけですね。 維新の志士 さんはお気づきになっていないようですが、維新の志士さんの解釈はA とB から導かれた C という解釈に、史料D と史料E を繋ぎ合わせた解釈であると感じますので、掲載はより難しいでしょうね。
> これは、木戸孝允日記と木戸孝允文書によって証明できると思いますが、出入りしていた人物と年月日の列挙になります。
何を以って「政治の舞台」と判断するのかが疑問です。 人物と年月日を列挙すればそれで政治の舞台と呼べるのか?そこで行なわれた議論等と木屋町宅以外で行なわれた議論等を比較し検証できるのか?正直わからないです。
又日記で明らかなのは5番路地ですので、現幾松の土地とは異なる土地になると思うのですが、その点については同じ場所であると史料によって証明できるのでしょうか?異なる場所であるのなら、記述内容を考慮すべきだと感じます。
> 僕が初出したのではないので、出典はわかりません。山田純友は転記間違いで山田文友です。
こぶまき氏による修正のようですね。 http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E6%9C%A8%E6%88%B8%E6%9D%BE%E5%AD%90&diff=23478941&oldid=23277465
では維新の志士さんはこの主治医に関する記述については仮に削除されてもご意見は無いという事でしょうか。
> funky-grooveさんが何かと拠り所にされている週刊ポストですが、
特段拠り所とはしておりません。 発行されたという事実をお伝えしているだけです。 通説と呼ばれる内容の書籍が発行されている。観光偽装とする書籍が発行されている。どちらが事実であるのかを議論するのでは無く、併記し検証できる状態にすれば良い事です。
> = 信頼性に乏しい情報源 = ~に相当するのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
信頼性については全く逆の意見です。 一連の観光偽装記事の第一段であった寺田屋に関しては、記載された内容と同じ見解が京都市から発表されていますし、又京都市の当該ページも修正されています。又それ以外の記事についても概ね該当施設のページは修正され、現時点で施設所有者や行政から記事内容に関する反論・抗議は行われていないようですし、訴訟の話も聞こえてきません。
この事から現時点では記事が信頼性のある情報源であったと判断するに足るものだと感じます。
情報の数については週刊ポスト以前に公表された出版社も存在しますし、週刊誌をタブロイド新聞とする合理的な理由は何も無い状態です。唯一あるとすれば維新の志士さんの解釈だけでは無いでしょうか。
> また、今月4日に小学館より発売されたサライ2009/3/19号の36ページには、 > >「幾松がかつて暮らした屋敷は現存し、今は料亭『幾松』となっている」 > と掲載されています。もし、小学館という出版社がfunky-grooveさんがおっしゃるとおり本当に広く信頼されている発行元ならば、サライのこの見解をもって小学館の最新の見解と解釈するのが妥当と思うのですが、いかがでしょうか。
同じ発行元から発行された複数の書籍において解釈や記述内容が異なる事は良くあると認識しています。大きな発行元であればあるほど、扱う書籍の数が増えれば増えるほど、頻度が増えて行く事は事実でしょう。
その上で小学館という発行元が広く信頼されているかどうかを、記述の違いだけで判断できるのでしょうか?又異なる内容の書籍が発行された場合、それまでの見解が訂正された判断・解釈とする事が妥当なんでしょうか?
少なくとも週刊ポストが観光偽装に関する記事を修正・訂正されたという事実が無い以上、それは推測の範疇を超えないものであり、これも維新の志士さんの解釈だとしか言えません。
wiki の方針を引用して頂いておりますが、どうも独自解釈でお書きになっている部分が多いように感じます。
--Funky-groove 2009年3月9日 (月) 07:56 (UTC)
- 僕は、Funky-Grooveさんが週刊ポストの記事を小学館の代表意見のように今まで御主張なさってきたように思えたので、サライの最新号の記事をご紹介させて頂いたまでです。双方が独自解釈をしているから意見が違うわけで、その間を埋めるために御尽力頂いていると思っております。
- 今回、Funky-Grooveさんへの反論をするにあたって、まず週刊ポストの記事を読まなければと思い、僕の居住区圏内の図書館全てで検索いたしましたが、週刊ポストを置いてある図書館はありませんでした。また、遠方で置いてあった図書館もバックナンバーの保管期間が3か月しかなくありませんでした。小学館の公式サイトでも品切れでバックナンバーの購入はできませんでした。主要な新聞なら縮刷版やCD-ROMで、時代を超えて読むことができますし、その価値があります。だからこそ、明治時代の日出新聞には史料価値があるといえます。百年を超えて、僕たちが様々に検証できるのですから。しかし、半年で入手できなくなるような雑誌に同じ価値が認められるでしょうか。Wikipedia読者にとって、検証可能性が閉ざされている媒体といわざるをえません。
- >一連の観光偽装記事の第一段であった寺田屋に関しては、記載された内容と同じ見解が京都市から発表されていますし、又京都市の当該ページも修正されています。又それ以外の記事についても概ね該当施設のページは修正され、現時点で施設所有者や行政から記事内容に関する反論・抗議は行われていないようですし、訴訟の話も聞こえてきません。この事から現時点では記事が信頼性のある情報源であったと判断するに足るものだと感じます。
- 寺田屋さんに関しては、マスコミ各社が大きく取り上げましたし、京都市も是正勧告をいたしました。だからこそ、僕も寺田屋さんに関しては、その歴史的事件の内容についてより、建物の真偽についての記述が多くなっているのを編集し直したいとは思っておりますが、建物の真偽が問われたことを掲載するなとは主張できないわけです。ですが、幾松さんは、週刊ポストが取り上げたあと、マスコミ各社はどこも取り上げませんでしたし、京都市も動きませんでした。ここには大きな違いがあります。反論、抗議がなされなかったのは、ポストの記事にその価値もなかったからではないでしょうか。世の中には黙殺という抗議の仕方もあります。また、Funky-grooveさんがおっしゃる以前にも取り上げた出版社についてですが、いずれも僕が以前、Funky-grooveさんと誤認したサイトの主催者が働きかけて書かせたものだとサイト主催者自身が告白しております。悪意に満ちた主張を各マスコミに発信し続けているサイトの人物を情報源とする同じ類の記事です。本ページで公正な論争を続けていらっしゃる善良なFunky-grooveさんが同じ主張をなさる必要はないと思います。ここは、百科事典を作る場なのですから。
- >何を以って「政治の舞台」と判断するのかが疑問です。 人物と年月日を列挙すればそれで政治の舞台と呼べるのか?そこで行なわれた議論等と木屋町宅以外で行なわれた議論等を比較し検証できるのか?正直わからないです。
- 政治の舞台の論拠ですが、木屋町別邸にて槙村正直、新島襄、山本覚馬などが繰り返し訪ねて来ては、「~を論ず」と書いてあります。どうして、木屋町宅以外で行われた議論と比較検証をしなければならないのか、首を傾げますが、問題視なさるなら、掲載されなくても結構です。山田文友についても、僕は出典を出せませんので、僕は主張いたしません。 --維新の志士 2009年3月14日 (土) 16:50 (UTC)
僕は、Funky-Grooveさんが週刊ポストの記事を小学館の代表意見のように今まで御主張なさってきたように思えたので、
思われただけですね。そうであるなら「拠り所にされている」という表現は不適切ですね。これまでもありましたが、維新の志士 さんは主観や直感をさも確認検証した事実であるかのように表現され、反論があると「直感」「思えた」等の言葉で弁明されます。
このノートでの議論は正しくその表現方法についてがきっかけであり、断定した書き方をするなら出典を明示する、出典を明示できないのであるなら断定した表現を修正するべきとの主張からはじめたものです。
その議論の中で表現に注意を払われず、後から弁明するといった状態が繰り返される事に疑問を感じます。
半年で入手できなくなるような雑誌に同じ価値が認められるでしょうか。Wikipedia読者にとって、検証可能性が閉ざされている媒体といわざるをえません。
主張されるのは自由ですが、発行後の入手に関しては Wiki の方針によるものでしょうか?そのような方針を見つける事は出来ませんでしたので、もし Wiki の方針であるならお手数ですが引用していただけますか。
寺田屋さんに関しては、マスコミ各社が大きく取り上げましたし、京都市も是正勧告をいたしました。
ですが、幾松さんは、週刊ポストが取り上げたあと、マスコミ各社はどこも取り上げませんでしたし、京都市も動きませんでした。ここには大きな違いがあります。
全く経緯を確認されていないようですね。
ポストが寺田屋の記事を掲載したからマスコミ各社がそれを取り上げたのでしょうか?これは明らかに違います。ポストが取材過程で京都市にも取材をした。それを受けて京都市は先ず当該ページを修正した。その後正式に調査を開始した事が2008年9月2日段階で明らかになったので翌日マスコミ各社が大きく取り上げたわけです。あくまで行政が調査を開始したという事実が判明した事で取り上げたのです。
後段の幾松に関しても行政が調査を開始したという事実が判明していればマスコミ各社が大きく取り上げたでしょう。しかし週刊ポストが行政に取材したという事実や、行政が調査を開始したという事実はありませんでしたし、何故取材しなかったのか、何故調査しなかったのかは双方に確認しなければわかりません。
しかしその後行政が社団法人・京都市観光協会に対して誤解を与える案内を止めることを求める旨の文書を送付したという事実は存在しますので、行政が動かなかったとされるのは事実とは異なります。送付に関してマスコミ各社が何故取り上げなかったのかについては先と同様です。
ですのでマスコミが取り上げるかどうかで発行元の信頼性を計る事はできないと思います。
反論、抗議がなされなかったのは、ポストの記事にその価値もなかったからではないでしょうか。世の中には黙殺という抗議の仕方もあります。
その可能性ももちろんありますが、やぶへびという可能性もあります。真実はわかりません。しかし報道後明保野亭は正面入口にあった解説板を撤去し、花月はHPから写真や記述を削除しています。これは黙殺という抗議にはあたりませんよね。
一般的に信頼性の乏しい記事が多いとされているタブロイドであれば黙殺という手法も良くあることですが、発行部数が多く社会的な話題になりやすい書籍の場合、反論、抗議がなされない場合は暗に認めたと取られる可能性も多々あるように感じます。
先のコメントは週刊ポストとタブロイドを一括りにし信頼性に乏しい情報源に相当するのでは無いかとされる維新の志士さんにご説明したまでです。お聞きした一括りにする合理的な理由についてはご回答頂け無いようですので、これも合理的理由は存在せず主観であったと暗にお認めになったと理解すれば宜しいのでしょうか。
また、Funky-grooveさんがおっしゃる以前にも取り上げた出版社についてですが、いずれも僕が以前、Funky-grooveさんと誤認したサイトの主催者が働きかけて書かせたものだとサイト主催者自身が告白しております。
はて?確認しましたが「書かせた」といった記述は見つかりませんでした。又思い込みや根拠の無い推測ですか?仮に働きかけていたのであっても、最終的に発行元が判断することですので、書かせるという行為が可能なのでしょうか。
又週刊ポスト以前に公表された出版社が1社であると何を根拠に判断されたのでしょう。「偽装」という表現は用いられていませんが、現在の幾松が主張する歴史を否定する内容の記事は、知る限りではそれ以外にも大手2社が存在します。これは簡単に図書館で閲覧できるでしょう。
悪意に満ちた主張を各マスコミに発信し続けているサイトの人物を情報源とする同じ類の記事です。
悪意に満ちた主張を各マスコミに発信し続けているとは維新の志士さんの主観ですね。その主観を元にこの場で特定の人物を誹謗中傷されるわけですね。このノートに一体何の為に参加し議論されているのかわからなくなりました。旅館幾松を擁護し、歴史・観光偽装を追及する情報を排除するためですか?それなら最初から別の場所で議論されれば良い事です。
本ページで公正な論争を続けていらっしゃる善良なFunky-grooveさんが同じ主張をなさる必要はないと思います。
公正な論争を続けているとお書きいただき光栄です。できればその議論の中でお聞きした内容については、漏れなくお答え頂ければ尚光栄でした。あくまで主観ですが都合の悪い内容についてはお答え頂いていない場合があるように感じておりますので。
ここは、百科事典を作る場なのですから。
重々承知しておりますので維新の志士さんから公正な論争を続けているとお褒め頂いた姿勢で臨んでおります。
問題視なさるなら、掲載されなくても結構です。
山田文友についても、僕は出典を出せませんので、僕は主張いたしません。
了解しました。
これで最初に記載しました5項目全て掲載できない・掲載されなくても構わないという事になるのですね。
- 京都木屋町13番路次(現在・上木屋町幾松 現住所京都市中京区木屋町御池上る上樵木町497番地)
- 維新後は京都木屋町木戸別邸として、京都での木戸の政治の舞台となった思い出深い当地で
- 18番地の寄留所(現住所:京都市[[中京区上樵木町507番地に相当する
- 主治医は半井療病院長の山田純友であった。
- 木屋町木戸別邸より出棺される。
- 僕の解釈が入るので掲載できないようです。(2009年3月8日 (日) 17:37)
- 掲載されなくても結構です。(2009年3月14日 (土) 16:50)
- Funky-grooveさんとDCyokohamaさんの判断に委ねます。(2009年3月8日 (日) 17:37)
- 僕は(掲載を)主張いたしません。(2009年3月14日 (土) 16:50)
- 僕が初出したのではないので、出典はわかりません。(2009年3月8日 (日) 17:37)
お疲れ様でした。
後は旅館幾松についての記述ですが、これは何度も記載しておりますように記載されれば宜しいかと。こちらは週刊ポストの記事を併記するだけです。
--Funky-groove 2009年3月15日 (日) 14:24 (UTC)
- まず、
- >そうであるなら「拠り所にされている」という表現は不適切ですね。これまでもありましたが、維新の志士 さんは主観や直感をさも確認検証した事実であるかのように表現され、反論があると「直感」「思えた」等の言葉で弁明されます。
- 僕は確認検証した事実のように表現しておりませんし、今回弁明するつもりはございません。Funky-grooveさんとあのサイトを不用意に結びつけたことは、確かに僕のミスでしたし、それについてはお詫び申し上げたはずです。しかし、他の件に関しては、編集内容について思うことを述べるのが本文ではないノートページの役割であると認識しておりますので、何の不都合があるだろうと不思議に思っております。Funky-grooveさんは御自分が主観に基づいた主張をしていないとおっしゃるのでしょうか。
- >以前週刊ポストで歴史捏造とされた営利企業だけが発信する根拠の示されていない情報と類似しているため、当該企業の宣伝である可能性も現段階では否定できないからです。
- >同施設の情報発信が果たして顕彰であるのかは議論の余地があると感じています。顕彰の名の元に何をやっても許されるわけでは無いでしょうし、実際木戸公・松子夫人を利用しているだけと感じておられる方も存在するようです。
- >これでは否定された「当該企業の宣伝である可能性」も疑わざるを得ない状態ですね。
- >やぶへびという可能性もあります・・・・反論、抗議がなされない場合は暗に認めたと取られる可能性も多々あるように感じます。
- これらに共通するのは、Funky-grooveさんの主観でしょうし、僕は敵意のある憶測やほのめかしと解釈します。例えば、時間軸がどうあれ、寺田屋さんに関しては、多くのマスコミが報道し、行政も是正勧告をした、明保野亭さんも花月さんも自ら発信している情報に何らかの修正を加えた、しかし、幾松さんは何も変えなかったという情報から、僕なら幾松さんは発信する情報が正しく、自信を持っているから変更しないのだという判断をします。しかし、Funky-grooveさんは正反対の解釈をされる。これは、お互いの解釈の違い、主観の対立であると思うのですが、維新の志士の主張だけが主観であり、ご自分のは違うとおっしゃるのでしょうか。また、あのサイトに対する形容詞についても、非常にお腹立ちのようですが、もちろん僕の主観ではありますが、誹謗中傷であると我がことのように僕を攻撃されるのは、過剰反応であり、少々奇異な感じを受けます。
- >発行後の入手に関しては Wiki の方針によるものでしょうか?そのような方針を見つける事は出来ませんでしたので、もし Wiki の方針であるならお手数ですが引用していただけますか。
あらゆる一次資料、さらには既存の情報やデータの一般化、分析、総合、解釈、評価もすべて、評判の良い第三者による(つまり自費出版ではない)発行物として発表され、ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です。
検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。
独自の調査結果を発表する場所ではありません。もしあなたがその事柄についての独自の調査結果をお持ちなら、その結果を通常の査読制度のある雑誌に投稿し、出版してください。それが人類の知識の一部となった時、ウィキペディアはあなたの業績について報告することになるでしょう。もちろん、査読がきちんと行われない雑誌から情報を持ってきてはいけません。
- また、初めの五項目のご確認ですが、何度も申し上げている通り、僕が編集上で初出したのは、
- 京都木屋町13番路次(現在・上木屋町幾松 現住所京都市中京区木屋町御池上る上樵木町497番地)
- 維新後は京都木屋町木戸別邸として、京都での木戸の政治の舞台となった思い出深い当地で
だけです。これに関しては、削除に同意いたします。あとの三項目については僕には同意の権限はないと思いますので、編集者の方にお尋ね下さい。 また、編集合戦の原因の一つはもともと掲載されていた幾松さんの施設名をFunky-grooveさんが除去されたことでした。 これについては、通説として掲載されることには御同意頂きました。 あとは、週刊ポストの記事を併記するかどうかの一点ですよね?本当にお疲れ様でした。あと一息ですね。 --維新の志士 2009年3月17日 (火) 17:47 (UTC)
僕は確認検証した事実のように表現しておりませんし、今回弁明するつもりはございません。
「拠り所にされている」という表現は事実として断定されていませんか? 拠り所の意味は「ある事の成り立つ根拠となる事柄。たよるところ。ささえとなるもの。」です。では週刊ポストを根拠として何か自論を成立させようとしたでしょうか?あるいは週刊ポストにたよっていますか?
「以前週刊ポストで歴史捏造とされた営利企業(2009年1月14日)」小学館という広く信頼されている発行元から観光偽装・捏造と公開されている事(2009年3月6日)」これらはいずれも事実を書いただけです。「もしかすれば維新前について観光偽装があるとする週刊ポストの記事を後押しできるのかもしれません。(2009年3月6日)」については仮に根拠とするのであれば、維新の志士さんがお書きになっていた史料が根拠であり、それを基に自論・推察を記述しています。
2009年3月8日に維新の志士さんが「拠り所にされている」とお書きになるまでに、週刊ポストを根拠として何か自論を成立させようとしたり、あるいは週刊ポストにたよった事が無い以上は、「拠り所にされている」という表現は事実では無く、不適切な表現としか言えません。
Funky-grooveさんは御自分が主観に基づいた主張をしていないとおっしゃるのでしょうか。
そんな事は一言も言っておりません。あくまで議論の場ですから主観を述べる事は必要です。もっと言えば議論の大半は主観かもしれません。これまで言い続けているのは、主観を述べる事の是非では無くその表現方法です。主観であるならそれに適した文言を用いれば良いだけですし、さもそれが客観的事実であるかのような表現を用いるべきとは思いません。「拠り所にされている」も「拠り所にされていると感じる」といった表現もできるはずです。
>以前週刊ポストで歴史捏造とされた営利企業だけが発信する根拠の示されていない情報と類似しているため、当該企業の宣伝である可能性も現段階では否定できないからです。
>同施設の情報発信が果たして顕彰であるのかは議論の余地があると感じています。顕彰の名の元に何をやっても許されるわけでは無いでしょうし、実際木戸公・松子夫人を利用しているだけと感じておられる方も存在するようです。
>これでは否定された「当該企業の宣伝である可能性」も疑わざるを得ない状態ですね。
>やぶへびという可能性もあります・・・・反論、抗議がなされない場合は暗に認めたと取られる可能性も多々あるように感じます。
これらに共通するのは、Funky-grooveさんの主観でしょうし、僕は敵意のある憶測やほのめかしと解釈します。
解釈はご自由にどうぞ。
しかしいずれも断定した記述はしていません。あくまで主観である事をあらわす表現を用いています。
例えば、時間軸がどうあれ、寺田屋さんに関しては、多くのマスコミが報道し、行政も是正勧告をした、明保野亭さんも花月さんも自ら発信している情報に何らかの修正を加えた、しかし、幾松さんは何も変えなかったという情報から、僕なら幾松さんは発信する情報が正しく、自信を持っているから変更しないのだという判断をします。しかし、Funky-grooveさんは正反対の解釈をされる。これは、お互いの解釈の違い、主観の対立であると思うのですが、維新の志士の主張だけが主観であり、ご自分のは違うとおっしゃるのでしょうか。
「時間軸がどうあれ」と経緯を重要視されない時点で、あまりにもスタンスが違いすぎます。これでは「事実なんてどうでも良いんだ。様々な結果の中から任意に抽出した一つの結果を元に、時間軸を無視して自論を主張すれば良いんだ。」とでも仰っているように感じます。
また、あのサイトに対する形容詞についても、非常にお腹立ちのようですが、もちろん僕の主観ではありますが、誹謗中傷であると我がことのように僕を攻撃されるのは、過剰反応であり、少々奇異な感じを受けます。
今回も後から主観と御認めになってはおられますが、「各マスコミに発信し続けている」とこれも事実であるかのように断定されています。時間軸を無視されているからなのかも知れませんが、元々特定の個人を誹謗中傷するといった、このノートで議論・主張する必要の無い憶測・主観に基ずく内容を突然記載されたのは維新の志士さんです。これまで時間をかけ議論してきたのに、別の場所でやれば良いことを突然持ち出されたわけです。それほど大した事でも無いと感じておられるのなら、奇異と感じられても仕方ありませんが。
引用された方針を何度も読み返しましたが、発行後の入手に関する記述は「ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です。」だけですよね。永遠に閲覧できる事が条件と読む事もできますし、期間については特段定められていないと読む事もできます。少なくとも発行時点で閲覧できる状態になった事は事実ですし、その後の保有期間がどうであるのかは、其々の施設によって異なるものだと思います。
又公共図書館と並列に記載されているウェブサイトでいえば、デッドリンクになっているものも存在しますし、その場合それに関する記述が削除対象であるといった方針も記載されていません。更に言えば、IT ニュース関連のサイトであれば紙媒体の発行物として発表されてはいませんから、この方針に抵触するのかもしれません。しかし実際には出典として紹介されています。
以上の事からも「検証可能性が閉ざされている媒体」とのご判断は、Wikipedia読者のご意見やWikipedia管理者の見解では無く、あくまで維新の志士さん個人のご判断としか思えません。ですのでそれに同意する事も従う事もできません。
あとは、週刊ポストの記事を併記するかどうかの一点ですよね?
これに関して議論する余地はもう無いと思います。維新の志士さんが検証可能性という方針に照らし合わせた場合、適切では無いと感じられる事を否定する気はありませんが、方針として明確にされていない以上、議論しても仕方無い事ですし、するべきでは無いでしょう。維新の志士さんが Wiki 管理者に確認されるか、あるいは方針やその記述を修正して頂くかされればよい事です。方針が修正される、あるいは現行方針の解釈として不適切であると正式にアナウンスされれば、当然それに従うまでです。
さて
- 幾松の名称掲載にこだわるたくさんの理由
- 日記で明らかな5番路地と、現幾松の土地(13番路地)とは異なる土地になると思うが、その点については同じ場所であると史料によって証明できるのか
- 書かせたといった記述の有無
- 週刊ポスト以前に公表された出版社が1社であると何を根拠に判断されたのか
以上4点についてはご回答頂け無いのでしょうか?
先のコメントに署名を記載するのを忘れていました。
- 日記で明らかな5番路地と、現幾松の土地(13番路地)とは異なる土地になると思うが、その点については同じ場所であると史料によって証明できるのか
上記は誤解を招く表現であったため、次のように訂正します。
- 木戸公木屋町宅については日記で5番路地とされているが、維新の志士さんが主張されている「13番路地に木戸公木屋町宅があり、そこが現在の幾松である」との説とでは、住所表記の違いから異なる土地になると思うが、5番路地と13番路地が同じ場所であると史料によって証明できるのか。
--Funky-groove 2009年3月20日 (金) 01:23 (UTC)
ウィキペディアは演説をする場所ではありません。また、議論をする場でもありません。この方針は他の基本方針同様、記事のみに適用され、ノートページやプロジェクトページには適用されません。ただしノートページにおいても演説や個人的な理論について議論することは、あまり歓迎されないでしょう。
- Funky-grooveさんの熱意にお応えできなくて心苦しいのですが、御質問の四項目は、いずれも本文には掲載できないことばかりです。僕は、このノートページは本文に何を掲載するかについての議論の場であり、僕の思いや意見を陳述する場ではないと考えて、お答えを控えておりました。初めはWikipediaの方針をよくわからず、思いをぶつけていた部分があったかもしれませんが、現段階ではこのように考えておりますのでお答えいたしません。本文に何を掲載するか、しないか、またはどのように掲載するのかについての議論にはお答えいたします。
- >引用された方針を何度も読み返しましたが、発行後の入手に関する記述は「ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です。」だけですよね。永遠に閲覧できる事が条件と読む事もできますし、期間については特段定められていないと読む事もできます。少なくとも発行時点で閲覧できる状態になった事は事実ですし、その後の保有期間がどうであるのかは、其々の施設によって異なるものだと思います。
- 引用した方針全てを御熟読下さい。どれもが週刊ポストは今回のこのケースにとって、掲載する要件を満たしていないことを表現してあります。発行時点で閲覧できるのは当たり前です。年月を経ても読者にとって閲覧可能であることが必要です。僕はこれだけ、Funky-grooveさんが掲載にこだわる週刊ポストをどうしても読みたいと思い、図書館は勿論、古本屋さんも含めてこの20日間探し廻りました。しかし、全く入手できませんでした。
- 検証可能性とは、何度も申し上げますが、閲覧者や他の編集者が誰でも内容を検証できるように、出典を明記するわけです。誰にも入手できないものを参考文献として掲載されても、誰も検証できません。検証できない記事は載せるべきではありません。もし、本当に掲載されるべき題材なら、きっと査読制度のある雑誌なり、図書に研究の上、掲載されることでしょう。Wikipediaに掲載できるのはそれからだと思います。
- もちろん僕の主観ですが、Funky-grooveさんが、今までせっかく公正な論争をお続けになっていたのに、Wikipediaの方針を拡大解釈なさってまで週刊ポストの記事の掲載を御主張なさるのは大変残念なことです。なんのための記事掲載ですか?百科事典で木戸松子夫人のことを知りたいと思う読者に、それは必要な記事ですか?僕には、Wikipediaを敵意の陳列台としてご利用なさっているように思えて仕方がないのですが、またしても僕の思い込みと断罪なさいますか?他に記事の掲載に固執なさってるかのように思える貴論に適切な理由はございますか?
対立する相手や不愉快なものを非難・攻撃したり、あるいは読者を扇動するためにウィキペディアを利用してもなりません。
- ぜひ、御再考下さい。 --維新の志士 2009年3月28日 (土) 15:51 (UTC)
Funky-grooveさんの熱意にお応えできなくて心苦しいのですが、御質問の四項目は、いずれも本文には掲載できないことばかりです。僕は、このノートページは本文に何を掲載するかについての議論の場であり、僕の思いや意見を陳述する場ではないと考えて、お答えを控えておりました。初めはWikipediaの方針をよくわからず、思いをぶつけていた部分があったかもしれませんが、現段階ではこのように考えておりますのでお答えいたしません。本文に何を掲載するか、しないか、またはどのように掲載するのかについての議論にはお答えいたします。
又、後付けなんですね。これでは議論になりません。
2009年1月23日 (金)のコメントで維新の志士さんは次のようにお書きになっています。
僕がwikiの基本の方針をちゃんと読んでいなかったために、 無用な混乱を引き起こしたことです。
この時点ではwikiの基本の方針をちゃんとお読みになり、それまでのコメントが基本方針にそぐわないものであったと判断されたわけですよね。つまりはそれ以降は基本方針をちゃんと読まれた上でのコメントだと理解していましたが、そうでは無かったのでしょうか?
前回お尋ねした4項目については、いずれも2009年1月23日 (金)以降に維新の志士さんがお書きになった事についてですので、当然基本方針に適したものであり、それについてノートの場で質問する事は何ら問題が無いはずですし、きっちりご説明頂けると思いお尋ねしました。
仮に4項目に関する維新の志士さんのコメントがwikiの基本方針に適さない内容であるとご自身で感じられたのなら、その時点で投稿者の責任として修正あるいは撤回頂いていれば、無駄な質問をしなくても済んだわけです。
少なくとも時間軸・経緯といったものは議論する上で重要なものと思っておりますので、他に基本方針に適さないとお考えのコメントがまだあるのであれば、その旨お知らせ頂け無いでしょうか。
引用した方針全てを御熟読下さい。どれもが週刊ポストは今回のこのケースにとって、掲載する要件を満たしていないことを表現してあります。発行時点で閲覧できるのは当たり前です。年月を経ても読者にとって閲覧可能であることが必要です。
ですから、そう明示されていますか?と訊いております。維新の志士さんがどう解釈されているのかを訊いているわけではありません。
僕はこれだけ、Funky-grooveさんが掲載にこだわる週刊ポストをどうしても読みたいと思い、図書館は勿論、古本屋さんも含めてこの20日間探し廻りました。しかし、全く入手できませんでした。
20日間どんな探し方をされたのかはわかりませんが、ネットで検索すると僅か数分で都立図書館に当該号があると確認できました。創刊号から所蔵されていますので、一部欠落を除けば、特段保有期間も定められていないようです。まさか所蔵されている図書館の件数や図書館までの距離等、閲覧の利便性まで言及され無いですよね。
維新の志士さんが「誰にも入手できないもの」と言われた発行物は、実は誰でも見つけ出せるであろう公共施設で所蔵されている発行物であり、その情報は無料でネットから得る事ができるものだったわけです。
あまりにも簡単にみつかったので、逆にどうやれば20日間も情報を避けて探せるのか不思議に感じてしまいました。
もちろん僕の主観ですが、Funky-grooveさんが、今までせっかく公正な論争をお続けになっていたのに、Wikipediaの方針を拡大解釈なさってまで週刊ポストの記事の掲載を御主張なさるのは大変残念なことです。
拡大解釈なんてしてないですよ。明示されていない事を明示されているかのように主張されているとしか思え無いので、明示されているのなら引用してくださいとお願いしました。結果引用されたものには明示されていませんでしたので、管理者に確認されるよう提言いたしました。その上で管理者から方針の解釈として正式にアナウンスされれば、当然従うとも書いています。
明示された方針を引用する事もされない、管理者に確認もされない状態で、維新の志士さんの解釈が基本方針の管理者見解であるかのように言われても困ってしまいますし、事実を列挙する事を拡大解釈と言われるなら、そのままお返しするしかありません。
なんのための記事掲載ですか?百科事典で木戸松子夫人のことを知りたいと思う読者に、それは必要な記事ですか?僕には、Wikipediaを敵意の陳列台としてご利用なさっているように思えて仕方がないのですが、またしても僕の思い込みと断罪なさいますか?他に記事の掲載に固執なさってるかのように思える貴論に適切な理由はございますか?
お尋ねいただくのであれば という表現がどうであったのか。*「拠り所にされている」
- 時間軸を無視して議論すべきなのか。
- 別の場所でやれば良いことを突然持ち出された件についてはどうするのか。
- デッドリンクやネットだけの情報は出典として適切なのか。
先にお答えを頂けませんか?
時間軸・事実・経緯を基に議論しているつもりですが、あまりにも立ち位置が異なるように感じてしまうご発言ばかりであるため、一つずつ確認させて頂かないと又無駄な質問をする事になってしまいます。
もちろん上記4項目の説明について「何ら反論は無い、至極ごもっとも。同意します。」という事であれば、そうお書き頂くだけで構いません。
--Funky-groove 2009年3月30日 (月) 11:11 (UTC)
一応補足しておきます。
公共図書館≒公立図書館である事は、Wiki「公共図書館」のページに書かれているとおりですが、「不特定多数の一般公衆の利用に供することを目的として設立」といった部分で記載しなかった図書館は存在します。
多くのジャーナリストやライターに愛用され、週刊誌をはじめとする通俗的な雑誌を蔵書している大宅壮一文庫には問題無く当該号が所蔵されています。
同図書館が公共図書館に該当するのであれば、これほど明らかな事はありませんし、20日間もかけて古本屋まで探す事は疎か、ネットで検索する事も必要無いでしょうね。
--Funky-groove 2009年4月3日 (金) 08:27 (UTC)
- どうもFunky-grooveさんは僕との議論を終わらせたくないようですね。
- お互い立ち位置が違い、主張が違うことは今までの経緯の中でよくよくわかっていることです。
- その上で、Wikipediaのルールに従い、掲載すべきこととそうでないことについての議論をしようというのがこのノートでの目的です。
- 「拠り所にされている」という表現がどうであったのか。
- 時間軸を無視して議論すべきなのか。
- 別の場所でやれば良いことを突然持ち出された件についてはどうするのか。
- デッドリンクやネットだけの情報は出典として適切なのか。
- 僕は自分が主張したことで謝罪するべきことはいたしましたし、本文に掲載できないことについては議論を重ねても無駄であると述べましたが、ご納得頂けないということなのでしょうか?お互いの主張の気に入らないところを細部にわたって検証したところで、純粋な時間の消耗ですし、早く他の読者の方に御不便をかけている半保護の状態から脱出することが最優先課題ではないかと僕は思います。僕の主観では、無用な引き延ばしになるのではないかとさえ感じます。
- 最終的に問題は週刊ポストの記事を併記するかどうかです。
- せっかくお探し頂きましたが、お寄せ頂いた情報は二つとも利用できませんでした。普通、図書館間には相互貸出のサービスがあり、図書館の司書の方の手を相当煩わせたのですが、該当誌の貸出はして頂けませんでした。僕が入手できなかったというのはそういう意味です。いくらネットで無料で所蔵が調べられても、その記事が参照できなければ無益です。その記事を読んで検証ができなかったという意味です。大宅文庫も確かに立派な図書館ですが、貸出もなく有料という点で大変敷居は高いですね。問題は非常に難度の高い手段でしか入手できない情報を、どうしてそんなに掲載されることにFunky-grooveさんが固執なさるのかです。今のところ、Funky-grooveさんの施設名称への敵意の表明以外に掲載するべき理由は述べられておりません。何度も申し上げますが、ここは木戸松子夫人についてのページです。百科事典に掲載するにふさわしい情報を厳選し、私情は慎むべきでしょう。--維新の志士 2009年4月11日 (土) 07:26 (UTC)
本文に掲載できないことについては議論を重ねても無駄であると述べましたが、ご納得頂けないということなのでしょうか?
その理由として時間軸を無視されているかのような事が書かれているので正当な議論を成立させるためにお尋ねしていたわけです。ご自身のお書きになった内容を良く確認頂ければと思います。
どちらにしても、後付けの理由を正当化されるのであれば、確認作業も無駄になるわけですから、これ以上は訊きません。
お寄せ頂いた情報は二つとも利用できませんでした。
だから?としか言いようが無い事をお書きになるのも時間の消耗でしかありません。維新の志士さんにとって参照できないとしても、他の方が参照できないわけではありません。又維新の志士さんの都合や環境を「普通」とされても、同意できないですね。もっと言えば東京まで行けば参照できるわけですし、東京に知り合いがおありなら、複写を送っていただけるかもしれません。
wiki の方針に図書館施設利用に関する利便性や相互貸出は明示されていますか?あるいは管理者に確認されましたか?
今のところ、Funky-grooveさんの施設名称への敵意の表明以外に掲載するべき理由は述べられておりません。
は? 既に「小学館という広く信頼されている発行元から観光偽装・捏造と公開されている事も併記すべきと感じます。」と書いています。様々な説が存在し、それが検証可能なものであるのなら中立性を担保する目的で出典を明示し掲載する。それに一体どんな問題があるというのでしょう。
それからいくら書いても改善されないのですが「施設名称への敵意の表明」という事実はありません。事実に無い事を断定してお書きになるのは、いい加減やめてください。もし事実であると仰るのであれば、「幾松」という名称に対して敵意を表明した個所を引用してください。
維新の志士さんが、事実では無い事をさも事実であるかのように断定して書かれる。結果それは当方の発言であったかのように誤解される恐れがあるため、確認し訂正しなければいけない。すると「本文に掲載できないことについては議論を重ねても無駄である」とされる。これでは言ったもの勝ち・言い逃げ状態では無いですか?無駄な議論に展開させたくないのであれば、言葉を選んでください。
何度も申し上げますが、ここは木戸松子夫人についてのページです。百科事典に掲載するにふさわしい情報を厳選し、私情は慎むべきでしょう。
中立性を担保し、検証可能な説について出典を明示し記載する。これのどこが私情なんでしょう。もし私情であるのなら wiki 編集者は全て私情になります。
いい加減維新の志士さんの解釈で物事を計り、運用方針であるかのようにお書きになるのはおやめになる方が良いですよ。方針について言及されるのであれば、維新の志士さんの解釈では無く明示された方針を引用する。あるいは管理者に確認する。それでなければ時間の消費にしかなりません。
--Funky-groove 2009年4月11日 (土) 09:49 (UTC)
維新の志士さんは「Wikipedia‐ノート:検証可能性」をご覧になった事はありますか?
「バックナンバー入手不可能の雑誌から得た検証可能か?」では次のように書かれています。
この方針で、わたしたちが満たすことを求められているのは、検証可能性であって、検証容易性ではないです。
これを書かれた Ks aka 98 氏がビューロクラットである事を理解されれば、発言の重さについてもご理解頂けると思います。
維新の志士さんが2009年4月11日 (土)に書かれた後段はまさしく検証容易性についてであり、維新の志士さん個人にとって検証容易で無い事をもって検証可能性が低いかのように書かれているように感じます。
ビューロクラットによる方針の解説があっても、中立性を担保するための掲載について検証可能性から問題があるとされるのであれば、先ず検証可能性のノートで議論して頂けませんか。
--Funky-groove 2009年4月12日 (日) 00:54 (UTC)
白文鳥 氏の発言も紹介しておきましょう。
検証可能性とは検証容易性ではありません。かつて井戸端では、日本語にも英語にも翻訳されていない文献を出典として扱えるかという議論が起こったことがあります。また、あるWikipedia名前空間のノートでは、国立国会図書館や大宅文庫にしか所蔵されていない文献を出典とすることに問題は無いかが争われました。結論はいずれも、「出典として認められる」でした。如上のように、Wikipedia日本語版では、出典の内容を容易に検証できるか否かは考慮の対象から除外されています。
--Funky-groove 2009年4月12日 (日) 01:04 (UTC)
先のコメントから一月以上待ちましたが、返答をいただけないのでページを編集しました。