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ノート:曹叡

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魏略、他伝から引いた記述が根こそぎ削除されていますが、なぜでしょうか?202.18.189.170さん、理由をお聞かせ願いたい。--Ice-upperlake 2006年10月15日 (日) 17:58 (UTC)[返信]

>「明帝の造作は北伐による外圧の消滅による気の緩みによる」とする一般の解釈に対し、金文京らは、明帝の造作を貴族化しつつあった名士・知識人層への牽制、皇帝権力の強化にあったとの説を唱えている。文帝の即位は、儒教の長子相続を旨とする名士たちの後援を得てのものであり、その見返りが九品官人法の制定であったとし、結果、相対的に弱体化した皇帝の権威の強化を目指したのが明帝であるとする
とありますが、その金文京氏の『三国志の世界』(講談社『中国の歴史』シリーズ4、ISBN 4062740540)のP218-219に「しかし諸葛亮が死んで北伐が終わりを告げたころから、緊張がゆるんだのか、わがままが出はじめる。戦乱による財政の窮迫と人民の疲弊を顧みず、大規模な工事を起こすことは大きな負担であり、群臣たちはこぞって反対したが、明帝はそれを聞かなかったばかりか、逆に御苑の築山を作るのに群臣たちを動員して土を運ばせた。これは暴挙といってよいだろう。」とあり、本文の記述と完全に反対のことが述べられています。
また「農閑期の農民に収入を与えるための公共事業」というのはこれも誰がそう述べているのでしょうか?
あと「文帝の即位は」以降は渡辺義浩氏でしょうけど、『三国志研究入門』で確認しましたが『三国政権の構造と名士』の方にはありましたかね?手元にないので確認できませんが、無いのでしたらあまり書くべきことではないと思いますが。らりた 2008年6月12日 (木) 12:08 (UTC)[返信]

こっちに報告忘れてました。自己解決しましたので、加筆してみました。--らりた 2008年7月13日 (日) 07:50 (UTC)[返信]

当方にも振られている気がするので、本文に出典元を追加しました。ついでに他の人が書いた記事についても出典をつまびらかにしてみました。その過程でのことですが、以前の版に存在した「生年についての考察」の出典元と思われる記述を、『正史三国志群雄銘銘伝』(坂口和澄著、光人社刊、2005年07月発行、ISBN 4-7698-1258-2)の27頁にて発見しました。また編集の繰り返されていた「命日」ですが、これも『正史 三国志1 魏書I』(陳寿著、裴松之 注、今鷹真井波律子 訳、筑摩書房、1992年02月、275頁。ISBN 4-480-08041-4)において 、景初三年、春正月丁亥の日(元旦)に大尉司馬懿が遼東から帰還し<中略>明帝はその日のうちに薨じたとあるので、根拠のない編集では無いようです。私自身が当時の歴法に詳しくない(何故丁亥の日が元旦と割り出せたのかが分からない)ので、「命日」については断定できません。「生年についての考察」については復帰しても良いのではないかと思われますが、どうしましょう?--Ice-upperlake 2008年7月20日 (日) 11:03 (UTC)[返信]

私はその『正史三国志群雄銘銘伝』に目を通していないので評価できませんが、かつてこの項にあった「生年についての考察」については正直Wikiで掲載するにはかなり問題があるのではないかと思っています。個人のHPで自説を展開する分には「面白いね。そうかもね」で済ませられますが、Wikiのこの項に本当に書くべき内容、レベルなのか、まずそこから議論が必要な内容ではないかと私は思いました。
そもそも「考察」と言う独自研究の匂いの時点でかなりグレーゾーンのような気がしないでもないです。
あと、「丁亥の日が元旦」については、斉王芳紀に「丁亥朔」とあります。
--てぃーえす 2008年7月24日 (木) 14:15 (UTC)[返信]
出典元でも考察と銘打ってありますので、諸説の一として、現状における注釈程度に留めるべきかもしれませんね。斉王芳紀に「丁亥朔」の記述を確認しました。ありがとうございます。--Ice-upperlake 2008年7月25日 (金) 19:13 (UTC)[返信]