ノート:暗君
この記事は2009年11月2日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、削除となりました。 |
未整理の議論
[編集]暗君というのは、歴史家等の主観が入っており、項目化するにも慎重さが必要では?--水野白楓 2005年9月24日 (土) 04:09 (UTC)
- ここの「暗君」記事に限らず「暴君」や「名君」といった分類は何が根拠なのでしょう。どの研究に依拠しているか、教えていただけないでしょうか。--Dokutou 2006年2月12日 (日) 17:44 (UTC)
どうしてか知りませんが日本が入ってないので、足しておきました。暴君はまだいいとして、暗君と名君は難しい。後醍醐天皇暗君説というのも十分に成り立ちますし、劉禅や徽宗なんて立憲君主国なら間違いなくルイ14世(こちらも死んで民衆が喜ぶような王は暗君・暴君じゃないのかとも言える)より上手くやるでしょう。ま、項目削除するほどの問題とは思いませんけども。--210.156.134.203 2006年2月20日 (月) 08:25 (UTC)
この記事の暗君とか結構判断材料が難しいと思います。例えば、徳川綱吉や徳川慶喜みたいに人によっては名君や暗君に別れる場合が多く出てきそうな感じがしますから、基準材料とかしっかりしないと編集合戦になりそうな予感がしますね。222.158.167.227 2006年2月24日 (金) 16:51 (UTC)
- 結局のところ、暗君か否かは特定の政治思想による価値判断という性格を持たざるを得ません。躍起になって暗君リストを整備することよりも、特定の君主がどのような観点によって暗君とされ、またいかなる観点によってそうではないとされるのかを丁寧に記述するほうを優先させるべきではないでしょうか。--ウミユスリカ 2006年2月25日 (土) 05:05 (UTC)
- あらかじめスタンスを示しますと、正直こういうカテゴライズは感心しません。あまりに主観的だと、危惧されているとおり編集合戦になりかねないからです。君主ではないですが、最近十年だけを見ても新撰組や田沼意次、曽国藩、蒋介石、といった人物評が時期・地域によってめまぐるしく変わりました。ですので、こういうカテゴライズは個別の記事でやって、どうしてそう判断するのかを詳細に記す方がよいと思います。ですが、ここを削除となるとこれまで書いてこられた方の労を無にするようで気が引けますので、せめてどうしてそうカテゴライズしたのか、自分の意見ではなく、どういう研究や書籍に書いてあるかを明記していただきたい。別に小説を含んでもいいでしょう。これは学問の堅実性ということもありますが、すでに亡くなって反論できない本人たちへの最低限の礼儀でもあると思います。--Dokuotou 2006年2月25日 (土) 09:40 (UTC)
書き方について
[編集]どうせ書くなら、最低限他人が読んで理解できる内容のものをお願いします(ダメっぷりを現す面白エピソードとか)。特に何も書くことがないので、とりあえず「主体性がない」と書いたようなものは、全て削除及び修正させていただきました。Kuro-hato 2006年11月16日 (木) 13:51 (UTC)
題の有名な暗君では、書かれた人物が暗君であると断定したような語感を覚えます。例えばこの文章では劉禅は必ずしも暗君として書かれていないように思いますし、暗君として有名な人物と言う風に書き換えるべきのように思います。
ついでに申しますと、私自身、現在のこの項目はほとんど価値を感じません。しかし、何故、暗君とされたかという疑問を追求するのであれば、非常に有意義で有るように思います。そういう理由で、いままで意図的に外されていたのかもしれないですが夏の桀王、殷の紂王を書き加えたいと思います。--Houkun 2006年12月12日 (火) 03:35 (UTC)
こういうものは誰が「暗君」だったのか?などということを書こうとすること自体が愚かな試みでは? 「誰が誰をどういう主張の下、『暗君』と呼んだのか?」まで書かない限り、この記事中の誰が暗君、いや違うだのと言った議論は全部無意味じゃないの? 「暗君」とはなにか?というところから、そもそも何らかの政治的、倫理的、歴史的、物語的主張をなすために歴史家なり小説家なり政治家なりによって用いられる語であり、そもそも誰が暗君であるなどという命題は真偽を確定しえないものである。だとかなんとか書いた方がいいんじゃないの? とにかく、なんらかの目的があって利用される「観念」なのであって、確定的に誰かを「暗君」だなどという主張をこの項目で書こうとする方が間違いに思えてならない。----138.243.228.130 2007年5月11日 (金) 12:39 (UTC)
陽成天皇について
[編集]詳しくはないのですが、陽成天皇ですが、後陽成天皇がいるように、必ずしも評価は低いものではないのではないでしょうか?--Tiyoringo 2007年5月16日 (水) 10:02 (UTC)
「傾向がある」と言葉を濁す必要はない
[編集]「どのような人物を『暗君』と呼ぶかはその語を用いる者の価値判断によって行われる『傾向がある』」とことばを濁す必要はないので削除しました。 「暗君」はそもそも価値判断を含む語ですので。--138.243.228.130 2007年5月16日 (水) 21:59 (UTC)
責任能力?
[編集]"ただし、東晋の安帝のような知的障害などの理由で名目上祭り上げられている君主は責任能力がないため暗君とは呼ばれない。どのような人物を「暗君」と呼ぶかはその語を用いる者の"とあるのですが、この記述自体に典拠はありますか? また、知的障害があるから責任能力があるのないのって議論を古代から存在している語である「暗君」の定義に持ち込むのっていかがなものでしょう?--222.225.191.145 2007年6月30日 (土) 08:36 (UTC)
唐の昭宗以降の文章について
[編集]唐の昭宗以降の文章についてですが。昭宗・崇禎帝・足利義昭・徳川慶喜の四人を暗君と呼ぶことはまず無いと思われます。例として不適切であるし、そもそも暗君と呼ばれたことがあるかどうかすら不明です。この文を削除することを提案します。らりた 2008年4月25日 (金) 11:51 (UTC)
削除提案
[編集]「どのような人物を「暗君」と呼ぶかはその語を用いる者の価値判断によって行われる」のであれば、そもそも、このような記事の存在自体がNPOV違反なのではありませんか。いっそ削除依頼にかけたらどうです。ああばかばかしい、こんな記事を4年もかけてよってたかって育ててきたなんて!--呆庵入道 2009年11月2日 (月) 18:40 (UTC)
- 「そういう価値判断が行われてきたこと」自体や「価値判断をされている(いた)人物」については検証可能な情報源に基づいて記述することが可能であり、そういった方法で記述されてきていると思うのですが。Wikipedia:中立的な観点で声明されている「ある記述を百科事典向きにあつらえる簡単な方法は、ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くことでしょう」に合致していると思います。
- また、単にノートページで愚痴るより依頼と提案を行ってみるのが建設的ではないでしょうか。--彩華1226 2009年11月2日 (月) 19:22 (UTC)
- 「その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くこと」が編集合戦を招く結果しかもたらさないのであれば「検証可能性」も「信頼できる情報源」も単なる水掛け論のネタでしかありませんよ。実際にそうなっているではありませんか。Dokuotouさんが3年前におっしゃっているとおり「価値判断をされている(いた)人物」についての「価値判断」はその人物の記事そのものに記述すれば済む話で、わざわざこちらに網羅性の欠けた不完全で利用価値の低い一覧表をこしらえるメリットがあるとは思えません。ここで愚痴ってもなんにもならないことはもちろん先刻承知です。さっそく行動に移すことにいたします。--呆庵入道 2009年11月2日 (月) 22:27 (UTC)