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ノート:普天堡の戦い

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「金日成偽者説」については李命英氏と、和田春樹氏、徐大粛氏の間で論争もれていないので未解決です。

著作読まれました?--Iosif 2006年9月6日 (水) 21:38 (UTC)[返信]
はっきり言って、これを「解決していない論争」とするなら、何を解決していると言うのか?という感じです。ノート:金日成では「トンデモ説」と指摘されて削除されたこともあります。もちろん、歴史学者は断言しないし、「トンデモ」として排してはいませんが。▼李命英による「疑惑の主張」は聞き取り調査による証言の矛盾を根拠の中心にしています。この時代に中国語・ロシア語資料で金日成の足跡を追うことはできませんでした。しかし、それ以前に、朝鮮総督府が1930年代にゲリラの撹乱戦術として金日成に関して矛盾した情報を流していることを疑っているし、現に矛盾した情報が流れていたし(逮捕されたゲリラたちの誤認もある)、それでもその中から普天堡の金日成を同定しています。総督府が金日成を同定するに至る資料などいくつかの重要文献を李命英が読み落としていることを和田春樹は指摘しています。李命英が一度反論、和田が再反論と読み落としの指摘、それに対して李命英からは反論と説明がないまま議論はストップ、李命英は亡くなっています。その後、李命英の議論を引き継ぐ人は現れておらず、せいぜいが日本の嫌韓メディアのみ(それでも4人説はさすがにどこも言わなくなって久しい)。また、李命英がフォローしていない領域として中国共産党の記録、ソ連の記録があります。中国共産党が1930年代から継続的に金日成の活動を把握していること、1940年代にはソ連が掌中で育てていること、これらの金日成がまったく同一性を疑われていないことから、複数説は、無理に判断材料を限定したところで可能になる類のものであると言うのは避けられません。李命英氏が存命中に撤回しなかった以上、紹介しておかなければ編集合戦になるかと考えていちおう李命英説も残してあるわけですが、辞典の役割に徹するならば、いずれ、複数説全削除が適当です。--Iosif 2006年9月9日 (土) 19:14 (UTC)--修正付加。--Iosif 2006年9月10日 (日) 00:24 (UTC)[返信]

普天堡事件

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日本語文献では、「普天堡事件」のほうが多く見られるようです。すぐに改名提案をする予定はありませんので、暫定記事名のテンプレートのみ貼り付けておきます。--Takabeg会話2019年10月31日 (木) 14:17 (UTC)[返信]