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ノート:時間

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宇宙が加速膨張している観測がなされたが、よくよく考えれば、時間は、空間の広がりにより発生する概念なのだから、同じ運動量をもつ物質が膨張する空間で移動しつづけるなら、過去の空間より確実に広く拡散している空間の移動物体が、あたかも加速しているように観測されるのは、当たり前のことではないのですか? そう考えると、ビッグバンの1秒という空間距離は、現時点の100億年以上に匹敵するのかもしれない。 時間という概念は空間という概念から生まれる相対的概念なのでしょう。



なんですか、この独自研究をたくさん含む、長い割に質の低い記述は?主観がたくさん混入した素人と思われる記述を、筆者は大いに恥じるべきでしょう。Wikiの悪い面ばかり感じます。[調べもの屋さん]

 時間の中にはすでに起こったこと、これから起こること、そして現在。……を区別する機能・概念があると思うのですが。 ……いかがでしょうか? Nashii

それが本文中で触れられている「ものさし」ではないのですか?
  • 時間と意識の関係はどのようなものであるか
  • 時間が流れるとはどのようなことか
  • 時間の流れをわれわれはどのように知るのか
はまさに過去・現在・未来についての問いですし、簡単ではありますがそれについての哲学者の考えも書いてあります。例えばベルグソンの記述はそういう通俗的時間理解への批判です。てな風に時間の三分法は前提されているので格別注記することもないように思われますがどうなんでしょうね。

ベルグソンを読んで見ましたが、過去・未来は空間的ではないでしょう。
逆に、ちがう建物が、同じ場所に建っている。…のが、時間の機能では無いでしょうか? Nashii

「一月前に遊んだことが遠い昔のことのように思える」とか「ずっとの話になるんだけど…」とか「ごく最」など我々は日常的に時間を空間的な言葉で形容し、またそのように考えています(数直線状に出来事を並べて時間を捉えている)。けれども、人間的な時間(実際に人が感じる時間)は、楽しいひと時があっという間にすぎたり、やな授業が永遠にも感じたり、必ずしも数直線的な遠近では表せないような仕方で我々に認識されます。時間が空間でないのは当たり前です。Nashiiさんは「空間になぞらえて」時間を表現することは全くないのでしょうか?日常的に時間がそういうものとして扱われているからこそベルグソンの批判は批判として成り立つのです。
「ちがう建物が、同じ場所に建っている」が「時間の機能」とは意味が分かりません。「時間はあるものを別の状態にすることを可能にする」、という意味でしょうか。ならば、すでに記事には「時間とは物事の変化を計るための概念、ものさしである。」と書いてありますよ。やはり新たに付け加えることはないのではないでしょうか。
「空間とは独立に異なる事象を実現させるもの」として時間を表現したのかな、と。「ちがう建物が、同じ場所に建っている」と言っただけなので、必ずしもその2つの違う建物に変化や順序といった関係があるとは限らないから、より一般化された概念としての時間なのでしょう。時間が流れるとか、向きがあるとかいうのが本当に時間にとって本質的な性質であるかどうかは別問題だと主張しているように思われます。それらの性質は認識する主体によって生じているのかもしれないし。物理学でも、全く独立した(組み合わせだけが異なる)多数の事象と、それらが時間的に結合されていることを(実際はそうなっているかわからないとしても)同等と見なしたときにうまくゆく理論(エルゴード理論)とかあるし。--HarpyHumming 15:32 2004年3月22日 (UTC)

「温故知新」のイメージです。ちょっと考えてまとめて見ます。
現在を蝶番のようにして対照的に過去と未来を考えるとき、過去のある位置から、未来の変化をイメージできるわけです。建物を例にしたのはまずかった。
まあ、結局人間には現在しかないわけですから時間を考えているだけ……といったようなことなのですが、未来のある位置のために過去を参考にして現在何かをする。のが時間……といったようなイメージですが。ちょっと考えてうまくまとまったらまた書き込ませていただきます。Nashii

現在の位置とか、未来の位置とかいう言い方が時間の空間化なんです。「ここ」とか「あそこ」とか指差せないのになんで時間がある位置を占めるかのごとく考えるんでしょう?ってのが哲学者の疑問です。
未来は過去から推論される、という論点は確かにあります。ですが、未来も過去もないという論者や現在すらないという論者もいますので、その論点を「時間とは~である」なんて一般化して書くことはできないと思います。
「みんなこういう意味で時間って言葉を使ってるよ」と「じつは時間はこういうものなんだ」とは違うものです。後者を記事にするならなにか「権威」が必要だと思います。「私はじつはこうだと考えます」だと、「そんなのお前だけ」と言われかねませんから(特に時間みたいに解釈の分かれる話題は)。その点、変なことを言っていても名のある人の意見は「Aは~と言った」と事実の記述として記事にできるわけです。
本文で周期運動について書いてありました。科学の項に書いてあって「時間の定義」というより単位を決める手段に見えたので書き変えましたが、哲学的には周期運動が時間という概念に本質的であるという考えもあるでしょう。で、「過去のある位置から未来の変化を予想」というのも「時間的変化」が何らかの対称性あるいは冗長性を持つと主張している。科学で言えばそれは物理法則。社会学で言えば、え〜と、「歴史は繰り返す」(ぇ) まぁ、対称性と言ったら空間は関係してきますが、それは物理的な空間ではなくて数学的な意味での空間なので、要素は何でもよし。もちろん物質を対象にしているなら物理的な空間は関わりますが、社会的なものを考えるならその対称性を規定するのに寄与しているのは必ずしも物理的空間に関わる現象ではなくて、人間関係とか別な概念だったりする‥。だから時間を「物理的な意味での空間」のように考えているわけではないのです。--HarpyHumming 13:48 2004年3月23日 (UTC)

多少は哲学的かもしれませんが、時間のことを人間と社会で説明してはどうでしょうか?
人間の社会性から時間は共通の(日の出、日没などの)基準から決定される。
しかし、一人の人間の時間はそう言った共通の数量で表現する「時間の仕組み」とは違う意味をもつ。
したがって、人間にとって時間はしばられる「共通の時間」と自分そのものである「固有の時間」がある。
……と言ったような視点です。 Nashii

同じことだと思いますが…。時間概念の起源を一般的に語ることが可能とは思えません。例えば私は(カント等もそうでしょうが)社会性が起源だとは考えませんし、Nashiiさんはそれに反対するでしょう。ただし、社会的に規定されている時間は現にあります。例えばNashiiさんも言うように暦や時計なんかはそうです(ただ、それが存在することとその起源がどうであるかは別の問題です)。社会に規定されたが自分自身の時間感覚とズレるのも確かにそうでしょう(一致することもある)。腹時計やストップウォッチ遊びや退屈な会議なんかその例になると思います。哲学的時間考察も、上に書いたようにそういうズレが気になるところから始まったものもあります。

まあでも、確かに分かりにくい記事中の説明に加えてそのあたりのズレを分かりやすく書き加えるのはアリではないでしょうか。ただし、用語法には気をつけないといけないと思います。(Setomanko 02:56 2004年3月1日 (UTC))

時間は単に物量を測るために用いられる一定の変化しない数量をさしているのではないでしょうか。その中にある過去や現在、未来も同じであると思います。過去は現在によって作られたものであって、その逆の未来が作られているというのは、単に現在の行動により次に引き起こる現象をただ予測するだけの予想であると思います。

ここからは自分的解釈ですが・・・ 「未来」自体には「現在」は存在せずそれは「過去」扱い、「現在」には「過去」と「現在」と概念扱いの「未来」が存在します。しかし、「過去」にとっての「現在」は、真実にある「未来」であると言えるはずです。(ここでの概念扱いの未来と真実にある未来は、現在と過去に存在するそれぞれの時間軸上の「ここから先の時間」をあらわしています。)

・・・っということから、過去・現在・未来の時間軸は確かに存在していると思います。 長々とすいませんでした~;; --Piyo 2005年11月5日 (土) 13:09 (UTC)[返信]

文学の「歳月」をクリックしたのに時間というページが開いています。20075月2日 ----以上の署名のないコメントは、203.136.91.92会話/Whois)さんが 2007年5月2日 (水) 04:36 に投稿したものです。

文学の「歳月」の記事は、「定義が書かれていなかった」ため即時削除対象となり、その後似た用語の「時間」へのリダイレクトに置き換えられました。文学の「歳月」の記事を成立させるのならば、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)を参考に定義を書いて下さい。元々の記述ですと、作者名すら書かれておらず、明らかに情報不足ですから…。--松茸 2007年5月2日 (水) 04:41 (UTC)[返信]
文学の「歳月」は知らないのですが、歳月時間へのリダイレクトなのは不適切ですよね。もちろん、文学の「歳月」の記事をきちんと書くことが最も望ましい解決策ですが、かける人が現れるまで放置と言うのもあまり感心しません。このような場合どうすれば良いんですかねぇ。yhr 2007年5月2日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

本日時間とは何かを開いて見ました、私もだいぶ以前になりますが考えたことがあります。そのとき書いたものですがアドレスを貼っておきます。http://www.narashino-k.com/pdf/hyoushi.pdf--222.13.175.177 2008年3月10日 (月) 08:19 (UTC)[返信]

出典をつけましょう

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この記事、まだまだ出典の付け方が甘いでしょう。例えば、時間の向きの節が出典が無いまま膨張していますが、出典が必要でしょう。 時間というテーマはあまりに深遠で、認識する行為にねばりついてくるようなテーマですので、時間についてどこかで何か書かれているとしても、それがそのままで事実というわけではなく、あくまでその語り手のその時点での認知構造、仮説、思い込み、解釈、あるいは便宜的なイメージの一表現形態にすぎない、と判断すべきです。理論物理学系の本であっても、こと、この「時間」に関しては、その真偽のほどは根本的にかなり怪しいと思ったほうがいいでしょう。

ですのでこの記事での表現も「時間の....は.....である」と、絶対不変の真理のように断言したりしないようにすべきです。「○○学者の.......は、時間の.......は.........だ、とした。」と、あくまで話者を特定した間接的な表現にするのが妥当です。過去数十年間でも言われていることは著しく変化してきていますし、今から10年後には今言われていることとは全然違う説明が流通している可能性が大ですので。--WDTM 2008年3月11日 (火) 04:50 (UTC)[返信]

私が主に書いた記事にも要出典箇所がありますので、必要な箇所については追加しましょう。しかし中には特定の出典を示す必要性が薄く思える箇所もありますので、そこにつきコメントします。
時間という言葉が普通に使われるときには、1次元構造体(時間そのもの)を指す場合、1次元座標値(時刻)を指す場合、物理量(時間間隔、国際単位系で定める基本量のひとつ)を指す場合があるのは、日本語の使い方として常識的なことであり、特に出典を要するとは思えません。それと関連しますが、現在は「2.4その後の一般的な理解」と「2.5時間の単位」の節となっている部分は、日常的に使われる時間についての一般的な記載であり、やや特殊領域である哲学における時間の節の後に来ているのは、不適切な順序ではないかと考えます。また相対性理論における時間も、歴史的には2.4節と2.5節で記載された概念よりも後のものですから、2.4節の「その後の」という表現も不適切に思えますがいかがでしょうか。
「物理的空間は全方位で等方的だ」というのはひとつの仮定には違いありませんが、ニュートン力学以来の物理学ではあえて述べるまでもないほどの暗黙の仮定です。地球表面のように上下東西南北という異方性があるのは、重力等のような異方性をもたらすものがあるからとするのが普通です。
「時間軸には過去と未来(過去→今→未来)という異なる方向がある」ことも常識的なことでしょう。時間軸が等方的であれば、過去未来という異なる言葉があるはずがありません。--Morivert 2008年3月13日 (木) 12:01 (UTC)[返信]

2008年1月12日 (土)にWDTMさんによる大胆な編集があり、現在の版はその構造を受け継いでいます。適切な改訂も多いのですが大枠で一部疑問の点があります。

「時間」のように一般的によく使われる事項に関する記事では、まず一般的によく使われる用法等について記し、次に特殊な見解や高度な見解(哲学的考察や先端科学的考察)について記すのが順序ではないでしょうか。哲学的考察などは量が多くなれば「時間の哲学」といった別項目にしてもよいくらいです。(「時空の哲学」のように)。

現代人がよく使う「時間」という言葉は、時計で計るものであり、スケジュールを考えるために日々利用する時刻であり、過去には思い出や記憶が存在し、未来は未だ不確定であるという、そのような「時間」です。このような「時間」をさらに精密に追い求めたものは「自然科学における時間」になりますから、そのようにまとめれば、いかにも「自然科学」が「哲学」に先んじる形にはなりますが、そこはいたしかたないでしょう。さらに言えば、「哲学的時間」というのはどうしても哲学者個人の見解であることが多いのですが、「自然科学的時間」というのは世界中の科学者によるほぼ統一的見解であるものです。少なくともウィキペディアの記事で「自然科学的」と称して書かれる記事の内容はそうであるべきものです。そのような記事にまで不必要に「○々が言った」などと付けるのは却って煩雑になる場合もあります。もちろん適切な出典は付けるのが理想です。

また上記観点から、「自然科学での時間」の節に「自然哲学」を含めた点と、そこに「アインシュタイン的時間解釈」を移動した点は不適切な改訂だと考えますが、いかがでしょうか? 「アインシュタイン的時間解釈」はアインシュタインの個人的解釈であり、現在の物理学におけるほぼ統一的見解である「ニュートン力学での時間」や「相対性理論での時間」の記事とは性質が違います。また自然哲学となると、現代の科学においては誤りとされるような近代以前の自然観も含まれますから、「自然科学での時間」と一緒にするのは問題ありと考えます。--Morivert 2008年3月15日 (土) 01:44 (UTC)[返信]

そうですね、私もいきなり哲学から始まるのは、広く一般の方の用途を考えると混乱を生むと思います。以下は私個人の単純な意見ですが、様々なトピックが単純に分離できるようなものにはなっていないため、前後しつつになるにせよ、大まかな流れとしては、1.日常的な範囲の解説、2.科学的な取り扱いの解説、そして3.哲学分野での議論の解説、という流れがいいのかな、と思います。
あとですが、哲学分野での議論はもちろん個人の考えというのもありますが、現代の議論は基本的に論点ごとに対立するいくつかの立場というのがおおよそ整理されて論じられてますので、それらを論点と立場で節分けして記述すると読みやすいんではないかな、と思います(外部リンクの節のIEPやSEPなどの記事のような感じで)。 --Was a bee 2008年3月15日 (土) 04:41 (UTC)[返信]


Morivert君も、Was a bee君も、それは違うよ。平凡社の『世界百科事典』の「時間」の項目をよく読んでごらんなさい。世界大百科事典も、まず過去の哲学における時間の概念の解説から始めている。Wikipediaは百科事典です。観念の歴史的な経緯を追ってゆくのは大切です。もしも、現在の通念から始めてたりして、説明の順番を逆転させたりすると観念の変化の流れを追うことが困難になります。説明も非常にややこしくなります。時代順に、少しづつ概念が付け加えられて、多様化してゆく様を記述してゆくのが妥当なのです。哲学の中から、自然科学(自然哲学)が生まれたわけですし、時代の順としても、派生の関係からしても、この順番が妥当なのです。--WDTM 2008年3月15日 (土) 14:16 (UTC)[返信]

ただし、大森荘蔵の説や「ビッグバン以前の時間」などの問題は自然科学のセクションの後方に、新たに「近年の哲学的議論」といったセクションでも新設してその中に移動したほうがいいでしょう。--WDTM 2008年3月15日 (土) 14:23 (UTC)[返信]

私のほうで、一通り改良しておいた。--WDTM 2008年3月16日 (日) 03:18 (UTC)[返信]

第一に、平凡社「世界大百科」の時間の記事のスタイルのみが正しい?百科事典のスタイルとは限りません。下記のようにその百科事典ないしは項目記事の筆者の方針により異なります。ではウィキペディアのスタイルはどうあるべきかと言えば、多くのウィキペディアンの方々の総意で決まってくるものでしょう。
  • 平凡社「世界大百科」改訂新版(2007/09)(Ref.1)の記事は、「世界におけるすべての変化および無変化において保持されている何ものかを時間と呼ぶ。」から始めて十数行の概要があり、【時間論の系譜】以下いくつかの章立てで主として哲学的話題と民族文化的違いが記載されています。そして、時間測定、相対性理論、熱力学的時間など自然科学的側面にはほとんど触れていません。村上洋一郎単独の著述で、得意分野に重きが置かれているものと思われ、それは編集者の方針をも反映しているのかも知れません。
  • ブリタニカ「国際大百科」改訂版(1988/01)(Ref.2)の記事は、いきなり「時間の測定には」から始まり、自然科学的側面のみが記載されており、Ref.1とは対照的です
  • 学研「新世紀百科辞典」二版(1983/03)(Ref.3)は事典ではないだけに内容は少ないですが、①とき、(ア)時刻と時刻の間の経過、(イ)時刻②[理]自然界の諸変化の過程を表す共通尺度③[哲]空間と並ぶ認識の基本的形式、の順で、通常の言葉の定義が始めに来ています
第二に、「現在の通念から始めてたりして、説明の順番を逆転させたりすると観念の変化の流れを追うことが困難になる」とは限りません。現在の読者の通念を確認した上で、そこからどのように違う概念があるのかという順の説明の方が入りやすいこともあります。最初に記した昔の概念が現在の通念からかけ離れていれば、その後の流れを追う前に、まずそれを理解することが困難かも知れません。
第三に、歴史的順序で書くとすると、出発点に何をとるかで無数の書き方が可能となり、どれを選ぶかの基準も必要になります。例えば現在の版で、アウグスティヌスとカントと仏教を最初の3つに選んだ基準が不明です。もっと前のギリシャやエジプト、さらには原始時代の概念が最初に来ても良いのではないでしょうか?
第四に、まず(現代の読者の)誰もが通念としていることから導入するのは、例えば時間に関する多くの本で使われているごく普通の効果的な方法です。むろん他のテーマについても。--Morivert 2008年3月20日 (木) 02:46 (UTC)[返信]


出典の必要性について再度注意喚起

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念のため、誤解されないように言っておくと、私が要出典を貼りつけているからと言って、決して、書かれていることが理解できなくて疑念を抱いているとか、全部が独自の研究だと思っている、とかいったようなレベルの低いことではないよ。

私は基本的に、その文章が言わんとしていることは分かっている。1次元構造体うんぬんのことも重々承知だ。私はもともと物理系の人間だ。

ウィキペディアでは特定の体系を使って推論して、「オレにとってはこの理論は常識("定説" !? )だから、それを当てはめると、こんなことが言える」「こんなことも、当たり前に演繹できる。これは不変の真理だ、事実だ」などとして、どこにも書かれていない記述を生み出すのは独自の研究であり、やってはいけないことだ。(かつてWikiRyonとかいうハンドルネームの者がそういう乱暴なことをやって、何度注意されても反省せず、長期に渡り人々に迷惑をかけた事例もある。許しがたい。)。ウィキペディアでは、あくまで信用できる文献にすでに書かれたことを、そのままの主旨で素直に記述する、かつ、誰による記述なのか、言っている人・言い出した人を明示することで著作権に配慮する、という我慢強い執筆姿勢が必要だ。

ウィキペディアでは、投稿者が「常識」だと思っていることでも基本的に出典を示すのが公式ルールであり、マナーだ。(それと、本当に多くの人に共有されている本物の常識は大量の書物に記述されているものだから、一般に出典探しは非常に簡単で、手近の文献の中から1~2ほど選んで示せばいいのだよ。出典が簡単に見つからない、と感じるような場合は、実は本物の常識ではなくて、ただの当人の思い込みや、少数のお仲間内だけのローカルルールだった、ということは多い。)

ウィキペディアの若い投稿者が「常識」だと思っていることでも、出典を要求されて、(しかたなく)本気になって調べてみると、(本人にとっては意外なことに)すでに古い説だったり、専門家の世界では対立する仮説のほうが結構重視されていたり、複数の説が乱れ交う複雑な歴史があったりして、結局調べ終わるころには当人にとって当初「常識」だったものが全然「常識」でなくなって、すっかり認識を改めたり、ウィキペディアでも進んで各論を併記するようになる事例も多い。

出典が無い記事を放置しておくと、やがて怪しげな投稿者同士が議論するような形で、かなりいい加減な文章が無秩序に増殖してゆく傾向がある。それではまずいので、徐々に出典を付ける方向で誘導している、ということなのだ。対立している記述の一方だけに要出典をつけると、てっきりどちらかに肩入れしていると思い込む早とちりの人、ケンカ早い人がいるから、中立性を保つために、基礎的なレベルにまで遡って要出典を貼り付けている。そういうことだ。

ともかく、ウィキペディアの公式ルールに沿って面倒くさがらずに粛々と出典を加筆してゆけば、次第に記事内容が良いものになってゆく。そういうものだ。--WDTM 2008年3月16日 (日) 03:39 (UTC)[返信]

出典の重要性に関する御意見に総論では同意します。その上で、個別に私が挙げた部分について、元の文章のままであれば出典の必要性は薄いというのが私の判断ですが、そのような部分にも可能な限り出典要請するWDTMさんの主旨は了解しました。
私が挙げた部分についてもさらに詳細な記載を追加するならば、そこに出典の必要性が出てくることはむしろ大いにあるりますし、私にとっても、WDTMさんの編集が、さらに詳細な記載を考慮してみるきっかけになったことは事実ですので、その点には感謝します。以下、個別的に私の見解を述べておきます。
  • 「時間の矢」に関しては、もう少し(というかかなり)記事を改訂するつもりです。(別の人が先んじてもっと適切なものを書けばその限りではありません)
  • 「空間の等方性」に関しては、むしろ空間の方に関連させて別項目を作り、そこを参照するのが良いと思いますので、時と能力が許す限りその方向で記載してゆきます。(別の人が先んじてもっと適切なものを書けばその限りではありません)
  • 時間という言葉の3つの用法に関しては、私は何も追加する必要性を感じません。つうか、2008年3月15日 (土) 17:00の版 (編集)で消されてますね。
  • 蛇足ですが、トップの「時間(じかん)とは物事の変化を認識するための概念である。」には出典が不要か否か、WDTMさんの御意見を伺ってみたい気はします。--Morivert 2008年3月20日 (木) 02:35 (UTC)[返信]
蛇足と書きましたが純粋な蛇足でもないので補足します。冒頭に○○とはで始まるひとつの文章で該当項目を定義するのが多くのウィキペディアの記事のスタイルですが、時間や空間のように一般的な言葉を一言で定義しようとするといくらでも多くの表現があり得て、もっとも適切なものを選ぶということは非常に困難です。それだけに逆に、どんな定義であれ枕詞の意義しかないと思えば深く考える必要もないという見方もできるでしょう。それよりは内容を充実するのが肝心であるという見方です。それでも「あくまで信用できる文献にすでに書かれたことを記述する」という方針からすれば、その定義の出典を明示するべきという見方もできます。なにもひとつの定義に固執せずに、出典を明示しつつ複数の定義を挙げておく方が百科事典としてはより適切な方向だという見方もできるでしょう。で具体的には、時間の項目記事の場合には、みなさんはどうお考えだろうかと思ったわけです。--Morivert 2008年3月20日 (木) 04:34 (UTC)[返信]

形式的点ですが、現状では「関連文献」の節のせっかくの多数の文献が、本文内のどの文章の参照文献なのかがわかりません。本文内での参照が、「出典 脚注」の節での文献に使われているためですが、何か方法があるでしょうか?--Morivert 2008年3月20日 (木) 02:38 (UTC)[返信]

「アインシュタイン的時間解釈」について

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「アインシュタイン的時間解釈」として記述された以下の文章は、物体が光速で移動できる、と主張する点で、アインシュタイン自身による相対論に反するため、「アインシュタインの時間解釈」とは考えられない。よって、出典が明確になるまで、本文から削除する。--Reinhardt 2010年2月24日 (水) 11:38 (UTC)[返信]

「アインシュタインによれば時間と空間は同じもので時空(時空連続体)と解釈する。ニュートンの時間方程式もアインシュタイン方程式も時間対称性を持ち、ニュートンもアインシュタインも自分の方程式に時間対称性(時間は等方向つまり過去、現在、未来にも流れる事が方程式上可能)が存在するのを見つけており悩んだが、アインシュタインはあえてこの方程式上に存在する時間対称性が数学的に存在を許すのを肯定し、過去、現在、未来が同時に存在しているという解釈をした。これを時空連続体という。時空連続体には過去、現在、未来がすでに同時に存在している、という解釈である。

この概念を発展させた近年の研究[要出典]で、なぜ光速が秒速約30万キロメートルなのかという事も説明する。即ち、すでに出来上がっている過去、現在、未来(時空連続体)の中を私達が光速度 秒速約30万キロメートルで走っている、とされる。私達が光の速度を秒速約30万キロメートルと観測するのもこの為である、とされる。もし、私たちが時空連続体内を秒速10万キロメートルで走っていると、光速度は秒速10万キロメートルとなる、とされる。アインシュタインは記者から「その様な事が本当にあるのか?」と聞かれ、「信じては貰えないと思うが、過去、現在、未来がすでに同時に私の数学方程式上には存在しているのです」と答えている。

この解釈以降、空間3次元と時間1次元が合わせて「時空」と呼ばれるようになった。」

円環時間について

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ニーチェは永劫回帰を唱えましたが、これは時間を仮想するものというよりは、ニーチェ自身の統合失調症発症過程でえた実体験から発想されたものではないでしょうか?彼や、その他の統合失調症者にとっては、今この一瞬はフラッシュバックとなって永遠に再生され続けるものであり、それを生々しい実体験として感じ取っているものだという指摘もあります。この事を記事に含めていただきたいのですが。--吹雪饅頭 2010年12月18日 (土) 10:23 (UTC)[返信]

「時間の構造」の節

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「時間の構造」の節は独自の研究に陥っています。百科事典類を数種類確認してみましたが、どれも「時間の構造」という節を立てていません。おまけに「時間の構造」や「時間構造」という言葉を学術論文データベースなどで検索すると、“直線”だの“線分”だのはほぼまったく表示されません。特に指摘しておきたいのは、まともな学術論文は、「時間構造」という用語を“線分”などという言葉とは基本的に結び付けていないということです。検索結果として表示されるのは、むしろ《コミュニケーション様式》《音声言語》《生活様式》《労働》などに関する論文が主たるものです。ですので、もしも「時間構造」という節をあえて立てて書くなら、むしろ《コミュニケーション》や《音声言語》や《生活様式》、《労働》の時間のことでしょう。それも、無理にひとまとめするよりは、「コミュニケーションと時間」とか「労働と時間」のように全然別個の節を立てるのが適切です。

現状のあのペテン的、疑似科学的な節「時間の構造」をでっちあげてしまったのは、かつてのウィキペディアにありがちだった、文献をよく調べもしないで投稿するような者(たち)でしょう。きっと中途半端な理科系の学生か何かで、粗雑な理科教育の反復の影響、および文系教育の欠如(過去の実際の文献を自分の眼でしっかり調べる習慣の欠如)、知識総量の欠如が原因で、その者に、時間と直線を同一視するカテゴリー錯誤ばかりが刷り込まれて、そういう観念が固定観念化してしまった者が、「時間?→時間はグラフだ(カテゴリー錯誤)→(独自研究プロセス)→時間と聞くと、オレは線と線分を連想するぜ!→テキトーに材料を集めてきて書いてやれ!」などという発想で、あの独自研究の節をでっちあげたのでしょう。実際、あの節は出典がばらばらです。単一のまともな論文や文献では、あんな説明のしかたをしてしないのです。あの節は、材料をばらばらに集めてきて独自にひとつの説(分類体系のようなものがあるかのような説明)を構築してしまっているのでまさに独自の研究です。--W…uni-v会話2012年11月22日 (木) 00:08 (UTC)[返信]

対応策としては、あの節は解消し、ニーチェの思想は哲学の節へ、ホーキングの説は「自然哲学と自然科学…」の節へ移動させる、などの処置が適切かと思われますので、それを行おうと思います。なお“線分”の文章などに関しては、程度が低くて有害な独自研究なので消去や非表示がよいでしょう。--W…uni-v会話2012年11月22日 (木) 00:08 (UTC)[返信]

非専門家の私論の除去提案

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[苫米地英人の主張:時間は未来から過去へ流れる]とやらの私論は除去するべきでしょう。著書からして時間論など専門ではないようです。物理学者でも数学者でもない人の私論など載せるべきではない。--ぱたごん会話2015年7月5日 (日) 14:47 (UTC)[返信]