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ノート:昭南港爆破事件

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茨木機関の機関長名について

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記事作成お疲れ様です。 早速ですがご質問があります。 本記事では茨木機関の機関長は石島少佐、とありますが、こちらの論文の91ページによれば、茨木機関の正式名称は岡機関で、機関長は茨木誠一少佐であると記載されておりました。 論文の出典となっている元機関員の方が著された茨木機関潜行記に何らかの手掛かりがあると思われますが、お手持ちの方はいらっしゃいませんでしょうか?--遼東半島会話2015年9月22日 (火) 12:17 (UTC)[返信]

『茨木機関潜行記』37-39頁あたりに以下のような記載がありました。
  1. 茨木(誠一)、吉永ら陸軍中野学校出身の幹部候補生は1942年の中頃に第7方面軍南方軍総司令部の参謀二課に配属された
  2. (時期不詳)第7方面軍南方軍総司令部参謀二課には調査室という部署があり、文書諜報を担当していた。この調査室に分室をつくって、残置諜者の摘発や情報収集を強化することになり、茨木や吉永が配属された。(「残地諜者の摘発」が目的に挙げられているので、「軍がただちに作った」のはこの分室のように思います。)
  3. 1944年に分室から昭南周辺の警戒にあたる浪機関(機関長・吉永少佐)ができた
  4. (時期不詳、任務内容不詳)調査室で、文書諜報のエキスパートといわれていた石田少佐がタイの方に行って第39軍の下に「石田機関」ができた
  5. 1944年に分室から茨木少佐ら3人が分かれて茨木機関ができた。任務は昭南とジョホール州のマライ共産党員の摘発、敵軍が攻めてきた場合のゲリラ活動。
  6. 別箇所で茨木機関の正式名称は「岡機関」という記述もありましたが、そこにそれ以上のことは書いてありませんでした。
記事中の記載の出典は篠崎(1976)ですが、「石田機関」と「茨木機関」をごっちゃにした上、石田を「石島」と間違えたのかな、という気がしています。
『茨木機関潜行記』の著者の本田さんは多作な方のようですが、茨木機関への配属は1945年6月で、それ以前のことはあまり詳しく書かれていないように思います。他の著書は未詳です。別著者で『諜報部員脱出せよ』という類書もあるようなので、読んでみてもう少しはっきりしたら書き直したいところです。--宇井木辺出夫会話2015年9月24日 (木) 06:39 (UTC)[返信]
上記を若干修正しました。本田さんの本を3冊流し読みしましたが、昔のことはあまり書かれていないようです。明石陽至(2001)に、1942年7月に昭南に置かれた南方軍総司令部の通称が「岡部隊」だとあったので、「岡機関」の名称の由来はその直属の諜報機関というニュアンスかなと考えています。--宇井木辺出夫会話2015年9月29日 (火) 07:38 (UTC)[返信]
中西淳『諜報部員脱出せよ』浪速社、1994年8月を少し読んでみました。104頁に「彼、石島少佐、『いばらぎ』機関長は(…)」138頁に「いばらぎ機関長茨少佐(仮名)は、(…)」とあります。たしか本田さんの本に「茨少佐は茨城弁で話す」ということが書いてあったので、そこからついた仇名かもしれないなと思いました。詳細はまたご報告しようと思います。--宇井木辺出夫会話
その後、本田(1988)を確認したところ、やはり茨城弁でした。更に篠崎(1981)という文献に茨木少佐のことが詳しく(しかし多分に想像を交えて)書いてあるのがみつかり、本名は石島、通称「いばらぎ」でほぼ確定、中野校友会(1978)という中野学校の本(浪機関に関わっていた太郎良さんという人が編集)の卒業生名簿に「石島唯一」の名前があり、本文中にあるスマトラ治安工作時のパレンバンの特高科長という経歴が茨木少佐と一致していました。「岡機関」については本田(1988)以外には出てきませんでした。中野校友会(1978)には(浪機関のことは詳しく書いてありましたが)茨木機関の活動内容には言及がなく、ただ「定機関」が浪機関、茨木機関と協力して云々という記述があり、「岡機関」の記載は見あたりませんでした。ということで、原(2010)91頁=本田(1988)からの引用の方が怪しい、というのが私の結論です。茨木機関の記事を立項しましたので、もしよろしければご一読いただきたく。浪機関についても近く執筆予定です。潮機関については(海軍の話だし)私が参照した文献にはほとんど記述が見当たりませんでした。--宇井木辺出夫会話2015年11月22日 (日) 15:29 (UTC)[返信]
遅ればせながら調査&記事作成ありがとうございます!!意外な急展開ですね…!特務機関関係の情報は公文にはなかなか見当たらない(石島少佐の名前も現役将校名簿で確認できず)ので大変だった事と思います。潮機関の方は日高震作大佐は南機関や越前松平氏と関わりが深い人物なので彼個人のページの方が作りやすいかもしれませんね。本当にお疲れ様でした!--遼東半島会話2015年12月28日 (月) 03:48 (UTC)[返信]