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ノート:早川長敏

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長敏/長政の統合改名について

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Wikipedia の管理人様、

「早川長敏」のページを立ち上げた後、別名の「早川長政」が既にあることに気が付きました。http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%95%B7%E6%94%BF 統合することを提案します。私の希望は「早川長敏」の方に統合してくださることを希望します。理由は、①大分県では「早川長敏」の名前が統一されて広く伝わっており、府内城跡や県史、市史で「長敏」名で記載されていること ②長政も長敏が一時期使用した名前ではあるが、同じ九州の武将の黒田長政の名前と同じであることから、混同を避けたいこと。③僭越ですが、「早川長敏」のページの情報量の方が多いこと、です。御高配をどうぞよろしくお願い申し上げます。--森本文吾会話2012年3月20日 (火) 01:23 (UTC)[返信]

大分県内で「早川長敏」の方が知られている例です。

1つの例だけを示したのみで、長敏が妥当とみなすのは無理があります。出典として取り上げられた高知大学教授による[2]では長政となっております。議論なく早川長政の記事がリダイレクト化されていたのでいったん差し戻しいたしました。なお提案者が多重アカウントの不正使用の疑いで無期限ブロックされています。--Tiyoringo会話2012年3月24日 (土) 03:23 (UTC)[返信]

統合提案を代理提出いたしました。同じ人物についての記事なので1つにまとめた方が良いのは確かですが、どちらの記事に統合するべきかは合意形成の上、決定するべきだと思います。--Tiyoringo会話2012年3月24日 (土) 03:30 (UTC)[返信]

重複記事の併立は望ましくないのですが、統合前に文献調査をして傾向を掴んでから決めた方がよいと思います。実は豊臣期の研究文献は結構読み込んでいたつもりでしたが、今まで見掛けていたのは自署を含んで、ほぼ「長政」であり「長敏」を知りませんでした。
津野倫明「慶長の役における軍目付の実名について」2001年(『ぐんしょ 14(4)(54)』)という研究があります。ここでは早川の実名について下記が紹介されています。
  • 「長政」 北島万次の研究
  • 「長政・長敏」 中野等の研究
  • 「長政」 『国史大事典』
  • 「早川主馬頭長政(花押)」 『松山市史料集第二巻』(一九八七年)加藤文書二六号
  • 「早川主馬頭長政(花押)」 『佐賀県史料集成古文書編第三巻』(一九五八年)鍋島家文書一一五号
これらは慶長期の話ですので、念のため。--Yasumi会話2012年3月24日 (土) 04:48 (UTC)[返信]
引き続き、早川主馬首「長政or長敏」について少し調べました。両方の記述がありましたが、大勢としては「長政」の使用が優勢のようです。唯一、解説の独立項目のあった人名事典でも「長政」でしたし、史料で自署や宛所で「長敏」表記は一つも見かけないです。「敏」は漢字の旁が「政」同じであることから、「長敏」は大正時代の『大分市史』以来の誤記であることが疑われます(「長敏」の使用例は大分地方史系書籍に多い)。以下に、調査した文献を整理します。(ただし初出版年については未チェック)
「長政」の単記
  • 2006年『戦国人名辞典』吉川弘文館、「早川長政」項(曾根勇二)
  • 1990年『戦国人名事典』新人物往来社、「早川長政」項
  • 1963年『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、「早川長政」項(内容的には充実→2006年版では縮小・新人物往来社版の記述に量・質が似ている)
    • 2011年[1]、2010年[2]、2002年[3]、津野倫明の各論文。
    • 2011年「慶長5年の九州における黒田如水・加藤清正の軍事行動(攻城戦と城受け取り)について」白峰旬(『史学論叢41』別府大学史学研究会、2011.03)
    • 2010年「慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出--九州地域を素材として」林千寿(『日本歴史742』2010-03)
    • 2008年『文禄慶長の役』中野等、吉川弘文館
    • 2007年『関ヶ原合戦と大坂の陣 戦争の日本史17』笠谷和比古、吉川弘文館
    • 2006年『秀吉の軍令と大陸侵攻』中野等、吉川弘文館
    • 2006年『戦国武将・合戦事典』吉川弘文館、「垣見一直」の項(岩沢愿彦)
    • 2000年『秀吉の野望と誤算』笠谷和比古・黒田慶一
    • 1995年『豊臣秀吉の朝鮮侵略』北島万次、吉川弘文館
    • 1994年『関ヶ原の役』旧参謀本部、徳間文庫
    • 1990年『国史大事典』文中のみで、項目は無し。
    • 1965年『朝鮮の役 日本の戦史5』旧参謀本部、徳間書店
    • なお東京大学史料編纂所[3]では書状の文書名や宛所・差出人のすべてを「長政」で統一しているようです。
「長政・長敏」の両立・併記
  • (人名辞典の項目は不明)
    • 2012年『黒田如水』小和田哲男、ミネルヴァ書房、文中/敏、筆者作成図/長政。
    • 1996年『豊臣秀吉の対外侵略と太閤検地』中野等、校倉書房(長政が主、長敏はカッコ書きのみ)
「長敏」の単記
  • (人名辞典の項目は不明)
    • 2011年第2版『大分県の歴史』山川出版社(1997年初版)
    • 2008年『大分県の歴史散歩』山川出版社
    • 2005年『杵築市誌』杵築市
    • 1987年『大分県史 中世篇3』大分県
    • 1915年『大分市史』大分市
参考までにこの人物が登場する歴史場面として描写されている多くは、
1.小田原の役における鎌倉鶴岡八幡宮の普請関連。
2.大内吉統の豊後除封後、豊臣官僚の一人として杵築へ入国した事。
3.慶長の役での軍目付・軍監としての活動(特に第一次蔚山の戦いで戦線縮小案に賛成したための失脚と、秀吉死後の復権)。
4.関ヶ原の戦いで田辺城攻撃へ従軍、黒田孝高に留守の府内城を攻略されたこと。
などのようです。なお、『●●事典』にしても詳細記事ではなく、小田原の役の動向が中心の簡易な説明となっている。
以上から、私は「長政」の方への統合するのが妥当だと判断しました。どうでしょうか?--Yasumi会話) 2012年4月4日 (水) 12:07 (UTC)追加調査を反映--Yasumi会話2012年4月21日 (土) 01:42 (UTC)[返信]

出典

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  1. ^ 津野倫明「黒田長政宛鼻請取状について」2011年7月(『人文科学研究17』高知大学人文学部人間文化学科)
  2. ^ 津野倫明「軍目付垣見一直と長宗我部元親--軍目付研究の作業仮説」2010年7月(『人文科学研究16』高知大学人文学部人間文化学科)
  3. ^ 津野倫明「蔚山の戦いと秀吉死後の政局」2002年6月(『ヒストリア180』)

統合の再確認

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確認上記の調査から、傾向は圧倒的であるため、項目名としては早川長政に統一したいと思います。一週間経っても反対がなければ実施したいと思います。なお、ある程度史料が貯まったので追々加筆も試みたいと思います。--Yasumi会話2012年4月21日 (土) 01:42 (UTC)[返信]

一週間以上、提案への反対もないため記事の統合について処理を開始します。--Yasumi会話2012年4月29日 (日) 00:36 (UTC)[返信]