ノート:日露関係史
江戸時代中期以前の日露関係
[編集]友人から提供を受けた文章です。長文ですが、御参考にしてください。
> 『1600から1800年』概ね『17世紀から18世紀』のロシア史は、まだルーシと呼ばれていたころのロシア人が「タタールの軛(=モンゴル人の支配)」から抜け出したものの、ヨーロッパ人からは未開の民族扱いされた時代からロマノフ朝の成立、ピョートル大帝そしてエカチェリーナ2世までの時代ですね。
17世紀のロシアに独自の文化が存在したかといえば、民族の統一にあけくれてないとしかいいようがないです。強いていえばロシア正教のイコンやモスクワのクレムリンでしょうが、元々はビザンツ帝国(ギリシア)のそれを導入したものですね。 ピョートル大帝やエカチェリーナ二世の統治した時代でも、ドイツやフランスの文化の影響が反映したものですね。ご承知のとおり、当時の首都のサンクトペテルブルグはドイツ語です。
しかし、この二人のツアーリを生みだした時代は、ロシアが日本への憧れを抱きはじめた時代なのです。ピョートル大帝が若き日にオランダ留学をしたときに、オランダが黄金の国『日本』との交易を独占し、莫大なる利益を生んでいることを知ったのです。しかし、日本なる国が何処なのか分からず、オランダの西方にあるのと考えながら日本の貨幣(大判とも小判とも言われています)を持ち帰るのです。既に、ロシアは東方拡大(決して侵略のみではない!)したシベリアに漂着した不可思議なインド人デン・ベの話をピョートル大帝が知り、謁見します。しかし、どうもインド人ではない、デン・ベに貨幣コレクションを見せると、黄金の国『日本』の貨幣をもって言いました。「これでおます。これがわての国の通貨でおます!」デン・ベは、伝兵衛という大坂商人だったのです。江戸へ向かう商船が難破してシベリアに流れ着いたのです。伝兵衛が「江戸へ連れて行ってくれ」と頼まれた役人がインド人と勘違いしたのです。
その頃から、アトラソフなどの探険でサハリンやクリル列島で先住民族が持っていた濡れていないのに濡れているように見える不思議な食器も日本の「漆器」だったとわかります。ピョートル大帝はデン・ベを日本へ返そうとしませんでした。返してやりたくても日本への航路が分からなかったのです。よって、役人の身分にとりあげサンクトペテルブルグに日本語学校(将来の交易に備えて)が開校します。しかし、日本語学校は大阪弁から薩摩弁、東北弁と変化するだけです。そこに、初めて帰国への強い意志を持った日本人が漂着します。それが、大黒屋光太夫だったんです。
・三浦清美『ロシアの源流ー中心なき草原から第三のローマへ』講談社,2003年
・藤沼實・小野理子・安岡浩子『新版 ロシア文学案内』岩波文庫,2000年
・桂川甫周(著),亀井高孝(校訂)『北槎聞略』岩波文庫,1990年(挿し絵豊富)
・工藤平助(著),井上隆明『赤蝦夷風説考』教育社,1979年
・みなもと太郎『風雲児たち』リイド社の一部(漫画)--Ic ket 2008年2月16日 (土) 00:36 (UTC)