ノート:日本社会党
「匿名希望1」氏の意見
[編集]前の版にあった「社会主義協会派の勢力拡大と相まって、外交政策はソ連追従の傾向が著しくなった。」という記述は、事実と異なります。その具体例として、1975年の実質的にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明があげられます。「ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から多額の資金援助を得ていたことが明らかにされている。」は、当時の社会党執行部が否定したことも書いておかないと、客観中立に反します。参考文献には、社会党自身が編集発行したものを追加しました。(匿名希望1)
前の版の総評の「自民党と社会党は難しい政治的問題は論議せず」という記述は事実と異なります。五十年代後半から八十年代にかけての国会議事録を参照して下さい。総評には社会党の存在の積極面を追加しました。これを書いておかないと、なぜ社会党が五十年以上存続したか理解できないし、ウィキペディアの趣旨である中立にも反します。文末の役員表は崩れていて見苦しく、修正不能であり、冒頭にすでに役員表があるので削除しました。(匿名希望1)
総評の「惨めに崩壊した」というのは主観的な感想に見えます。もっと言えば、分裂・縮小したとは言え社民党へ移行したのだから、消えて無くなったわけじゃないでしょう。NiKe 2004年7月9日 (金) 09:18 (UTC)
表が崩れたまま再び書き込まれています。崩れた表を書き込んだまま放置しておくのは無責任ですね。少し整形してみましたが、根本的な整形は不可能でこのような表は不要です。一週間待ちますので、その間に練習してきちんとした表にしてください。それができなければ、削除します。それでもなお崩れたままの表を書き込む場合は、ウィキペディア編集部に申請して書き込み制限措置をとってもらおうかと思います。(匿名希望1 04.7.11)
一週間待ちましたが、崩れた役員表は整形されませんでしたので削除しました。総評について。 1976年の文革終結とその惨状の表面化、1979年のポルポト体制崩壊とその惨状の表面 化は、社会党には何の影響も与えませんでした。1989年の天安門事件直後の参院選で共産 党は大敗しましたが、社会党は大勝しました。北朝鮮の世襲制などの体制が日本で本格的に問 題になるのは社会党消滅後です。総じて、社会党消滅に存在した社会主義国の問題は大きな影 響は与えていませんし、ここは存在した社会主義国を論じる場でもないので、ソ連・東欧社会 主義崩壊など、としておけば十分でしょう。民主党合流は、社会党の一部ではなく相当部分で す。1996年当時の鳩山由紀夫が「排除の論理」をとらなければ、大半が合流したでしょう。(匿名希望1 04.7.17)
「新宣言」などの路線転換の試みが左派におされる形で挫折した、というのは事実と異なります。社会主義協会に代表される左派は、「新宣言」以後脱退・分裂などでどんどん弱体化していきました。実態は、「新宣言」に基づいた政策や組織・運動方針を「新宣言」推進派の右派自体が提起できず、労組依存を続けていたのです。路線転換は、末期の「解党的でなおし」を除けば、基本的に「新宣言」一回であったと思います。(匿名希望1 04.9.1)
記述を大幅に書き換えました。以前の記述は参考文献にあげられている原氏の著書を基に書かれていると思いますが、私の目から見て原氏の著書は事実誤認や思い込みが多すぎ、それを基にした記述は事典としてのWikipediaの信頼性を損なうと思い、以前の記述を尊重しながら、おかしいと思われる記述を改めたり、足りない部分を補ったりしました。原氏の著書の内容がおかしいというのは私だけの見解ではありません。私は左派から右派まで旧社会党関係者の多くの方にヒアリングを行いましたが、全員が原氏の著書にはまちがいが多すぎると指摘されておりました。出来ればいろいろな方の意見をうかがいたいと思います。なお、別に私は原氏への攻撃がしたいわけではなく、出来るだけ正確な記述をしたいだけです。イッチー 2004年9月3日 21:06(UTC)
原氏の著書のおかしな点は、右派と左派を明確にわけ、両者は一貫していると考え、左派を謀略的と表現していることですが、右派と左派の定義は時代によって異なるものですし、左派が一貫して謀略的だったという事実もありません。また、社会党と東側諸国の結びつきを過度に強調したり、安保闘争の比重が大きすぎる(原氏は安保改定過程の研究家ですから、当然かもしれませんが)という問題があり、この項の記述も上記のような性格を受け継いでいました。そこで次のような書き換えをおこないました。
1、左派(それも協会派)に関する記述に偏っていたので、右派に関する記述や左右対立が戦前から存在していたことを加筆した。
2、社会党がソ連の援助を受けていたことは事実ですが、多額の資金援助といえるようなものではなく、援助の実態も直接の資金援助ではなく、物資援助や貿易を通じての援助が主だったため、単に「ソ連の援助」としました。また、自民党もアメリカから援助を受けていたことが明らかになっているので、その点も加筆してつりあいをとりました。
3、社会党の再統一の後、すぐに安保闘争や三池闘争が起こり、そのために再統一したかのような記述になっていますが、実際は1955年の時点では保革二大政党が理想と考えられており、社会党が政権を獲得すると信じられていたという事情があったことが抜けていたので加筆し、安保・三池闘争の記述を後ろにまわしました。
4、他に派閥対立から初代の委員長が決まらなかったと書いてありましたが、実態は名望家を担ぐために委員長の席を空けておいたのが真実です。
5、構造改革論争に関する記述が不十分だったので増やしました。そもそも、構造改革派は1960-1964年に執行部の多数を占めており、1度も運動方針に盛り込まれなかったということはありません。
6、社会党の意義に関する記述を増やしました。また、参考文献も名越氏の著書と原氏の著書だけでは、ともに社会党と東側諸国の結びつきを強調する本で、読者に誤解を与えると思ったので、中立的な文献を加えました。 イッチー 2004年9月4日 12:47(UTC)
ここ一ヶ月くらいの間に、何回か記事の追加、項目立ての変更を行いました。219.164.1.113 2006年5月15日 (月) 07:26 (UTC)
協会規制と「新宣言」の項に、「初めて暴力革命を完全に放棄し、議会政党の地位を確立した」との文言が書き込まれていましたが、社会党は暴力革命を提唱したことは一度もなく事実に反するので訂正しました。「新宣言」は革命を放棄したのです。 2007.4.14 匿名希望1
新宣言によりマルクス・レーニン主義を放棄し、とする書き込みがありましたが、社会党はマルクス・レーニン主義を掲げたことは一度もありません。「日本における社会主義への道」その他の党文書を読んでください。新宣言の評価には論争があり、断定は百科事典として避けるべきです。また、歴史的役割の項が最近の書き込みの結果歴史部分との重複が目立ち冗漫になっているので、近く整理します。匿名希望1 07.8.28
予告したように、歴史的役割の項があまりに歴史部分と重複しているので、整理しました。少しは百科事典らしい簡潔な表現になったと思います。--匿名希望1 2007年9月22日 (土) 02:14 (UTC)
分割提案
[編集]記事全体がかなりの分量になっています。明治期の日本社会党について述べた部分を独立記事日本社会党 (1906年)として分割した上でこの部分の加筆編集を進めたいと思っているのですがいかがでしょうか。分割後はこちらの冒頭に「otheruses」を貼って誘導したいと思います。--Straysheep 2008年4月4日 (金) 00:38 (UTC)
- 特に反対意見もなさそうなので分割の作業に入ります。こちらの分割部分も分量としては少ないので分割ではなく新たに当該記事を起稿してもよかったのですが、ここの記事をベースとして加筆編集をすすめ編集履歴も継承したいと思ったので、あえて上記のような方法を取りました。--Straysheep 2008年4月10日 (木) 19:52 (UTC)
統合提案
[編集]統合を提案します -124.87.172.72 2010年12月4日 (土) 04:28 (UTC)
「評価」節の削除提案
[編集]提案 「日本社会党#評価」の節ですが、出典が全く無く、編集者の見解の列挙になっています。個人的には、記載された各見解は実際にマスコミ等で語られたものも多いとは思いますが、いったん全部を削除し「xxxx年の○○の発言では」のように、出典を付けて新規に書き直した方が早いと思います。--Rabit gti(会話) 2012年8月23日 (木) 15:03 (UTC)
- 賛成 提案に賛成いたします。肯定的評価、否定的評価いずれも、誰がいつ、どのように評価したか記述されるべきでしょう。--Tiyoringo(会話) 2012年8月24日 (金) 04:10 (UTC)
「社会主義インターが米国のベトナム侵略を支持した」について
[編集]【構造改革論争と「道」の策定】の節に、「社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ベトナム侵略」を支持したため・・・」とあります。しかしベトナム戦争を「米帝の侵略」と捉えるかは見解の相違が存在します。当時ソ連は革命の輸出をして、世界中に社会主義傀儡政権を樹立しようとしていました。ベトナム戦争もまさに、ソ連・中国の支援を受けた共産党政権の北ベトナムが、南侵して共産主義統一をしようとしたため、それを阻止しようとして米国が警察力的に介入して起きたものです。北(ベトコン)の侵略が先であり、そこを無視して米国の侵略とするのは公正さを欠いていると言わざるを得ません。--120.74.54.227 2016年7月19日 (火) 01:53 (UTC)
「利用者‐会話:126.254.133.64」の編集について
[編集]「協会規制と『新宣言』」、「土井ブームの盛り上がりと凋落」の2つの節に、出典を提示した上で、以下の記述(新宣言に「社会主義革命をする」という文言を残したことと、1993年の読売新聞の世論調査で社会党の支持率が7%に下がり、日本新党に1%差に迫られていたこと) をしたところ、IPユーザー「利用者‐会話:126.254.133.64」に独自研究として削除されてしまいました。独自研究とは出典を伴わない時や独自の主観によるもの指しますが、出典を明記している場合は当たらないと考えます。このIPユーザーは「平和革命」においても、「新宣言には、社会主義革命の文言は残った」を削除しています。勝手に削除しないで下さい。
以下、削除された記述
===協会規制と「新宣言」===
しかし実際には、新宣言の冒頭に「社会党は、平和的に社会主義革命(平和革命)を目指す」と書かれていたり、左派への妥協策として旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。
因みに、新宣言に「社会主義革命を目指す」との文言を残したことは、後述する1990年の第39回総選挙時に、海部俊樹率いる自民党から批判に晒されることになり、(出典:朝日新聞1990年2月3日付記事「日本記者クラブ党首討論会。海部総裁「(新宣言を掲げて)社会党さん、新宣言に社会主義革命をすると書いてありますが、これはどうなんでしょうか」、土井「私たちは新宣言で社会民主主義を宣言した」、海部「これは新宣言です。新宣言に書いてあります」)、後の党大会を経て「革命」の文言は削除された。
=== 細川連立内閣の誕生から村山内閣へ===
読売新聞の1993年の世論調査で社会党の支持率は「7%」にまで落ち、日本新党(6%)に1%差まで迫られていた(出典:『社会党大好き』上田哲著 データハウス 1993年)。後に民主党(民進党)となっていく保守系新党への国民の期待が高まり、反自民票が非武装中立など非現実的な政策を掲げる社会党まで流れなくなっていたのである。
以上、太字の箇所が出典です。--115.162.58.199 2017年2月23日 (木) 11:01 (UTC)
- 嘘をつかないで下さい。あなた私が悪者みたいに言っていますが、出典に基づかない加筆を大量にしていますね。その事実を無視して私ばかりを糾弾するんですか。少しお互いに落ち着きましょう。出典をつけたところだけ復帰するのなら話はわかりますが、あなたはそうではない。加筆をしたいのなら出典をつけるべきです。次に、あなたは根本的に日本語力が足りていない気がします。文章と文章の間に記述を挿入するのはいいですが、その場合前後の繋がりを意識してくださいね。きつい言い方をすれば唐突な箇所が多く、改悪になっているのです。まあその箇所は出典がないところばかりですから、どの道掲載に値しませんが。この落とし前はあなたでつけてください。私はおかしないざこざには巻き込まれたくありません。--126.199.130.104 2017年2月24日 (金) 08:53 (UTC)
- コメント履歴を拝見しましたが、115.162.58.199さんの編集 [2]の方が、大半は出典が無く、既存の文章の趣旨を変えており、ごく一部で掲げた「出典」も間接的・断片的で、全体的に非中立的であり、取り消されても仕方がないレベルと思います。--Rabit gti(会話) 2017年2月25日 (土) 12:44 (UTC)
外部リンク修正
[編集]編集者の皆さんこんにちは、
「日本社会党」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。
編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。
ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月6日 (金) 05:33 (UTC)