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ノート:日本中国友好協会

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「(正統)」は、既存の日中友好協会を出て行った人たちなので、主流派ではなく、反主流派のような気がするのですが…。--Baka86 2009年2月15日 (日) 13:08 (UTC)[返信]

日中(正統)社団日中は、既存の日中友好協会を出ていった側であるため、日本共産党系の日中友好協会のほうを「主流派」と規定するのが正しい。--珍ちゃん会話2020年10月30日 (金) 15:56 (UTC)[返信]

日中友好協会の場合どちらが主流派かは双方に言い分があり、中立的な観点を重視するウィキペディアにはふさわしくないと思われます。機関紙名を用いて、日中友好協会(日本と中国)、日中友好協会(日中友好新聞)としたらどうでしょうか。一、二日時間を置き他の人のご意見を待ちたいと思います。なお(日本と中国)の方は、近年は公社日中友好協会と自称する場合が多いようです。--無名氏会話2020年10月30日 (金) 20:35 (UTC)[返信]

政治団体双方が自身の正統性を主張することはよくあることです。しかし、かつての主流派のありかたに異を唱え飛び出し、かつ旧来のマークを使わず別のマークを使って現在に至る団体を「主流派」と言うのにはかなりの無理があります。--珍ちゃん会話2020年10月31日 (土) 17:04 (UTC)[返信]

ちょっと多忙が続き、この項の更新ができませんでした。前にも書いたように、主流派、反主流派という呼称は主観による部分が多く、中立的な観点を重視するウィキペディアにはふさわしくありません。そのうちに主流派、反主流派を逆にする更新がなされました。しかも本文には元の主流派、反主流派呼称が残っており、矛盾する内容になっています。そのため、日中友好協会(「日中友好新聞」)、日中友好協会(「日本と中国」)と機関紙名で区別するように改めました。--無名氏会話2020年12月7日 (月) 01:32 (UTC)[返信]

主流派、反主流派の呼称の論争のあることを初めて知りました。少し長くなりますが、大事だと私が考えることを書きます。

日本共産党配下の日中友好協会は、日中友好協会(正統)本部が事務所を退去して、別の組織を立ち上げたことをもって、自分たちが元祖であり、正統本部は脱走派だというような議論をしてきて、たぶん今もそのように主張していると思います。しかし、これは日中友好協会という組織の目的を捨象して、組織の規約のようなものだけで物事を見る、本末転倒な主張だと思います。日中友好協会が携わっていた運動は、外国の傀儡でない、中国人民によって成立し、中国を実効支配している政権を認め、その政権との間で国交を結ぼうという運動でした。当時、日中戦争の戦後処理も全く行われていませんでした(今も戦後処理が完全かどうかという問題はありますが)。この方針が、朝鮮戦争やベトナム戦争や中国封じ込め政策を行っていたアメリカの方針に矛盾し、アメリカに追随する日本の政府からも監視対象になっていました。中国は共産党という特別なイデオロギーの政党によって統一されましたが、マルクス主義や共産主義という思想は、現在では想像できないくらいに信頼されていた理論で、多くの人が科学的な真理であり、将来の世界史はこの主義にそって発展していくと考えていました。 もっとも、マルクス主義が特殊かどうかは、アメリカの言う民主主義が特殊ではないのかという問題をも派生させます。そこまで行くと、これは別の表題の記事に書くべきことになります。

だから、日本共産党と中国共産党の路線対立は、共産党内の人間から見ると、世界全体を決定するものと考えられたので、激しい対立関係になりました。しかし、日中友好運動は、そのような理論的な対立に決着をつける場ではなく、現に有効な政権として中国の人民にも支持されている中華人民共和国の政府と日本国との国交を正常化し、民間の交流も推進しようという目的が本来のものであったわけです。確かに、日中友好協会(正統)本部には、日本共産党から分派した左派共産党の人たちもいましたが、それに完全に支配されていたわけではなく、国家間の友好を促進しようという目的を主にして活動している役員もいました。もちろん、マルクス主義や共産主義運動の科学性というような問題は、簡単に理解できるものではなく、中国との友好を求める場合には、この問題がどうしても紛れ込んできて、具体的な友好運動と理論問題を完全に区別できるほど経済学、社会科学をマスターしていた人はいませんから(今でもいるかどうかわかりませんが)、そこで混乱は生じざるを得ません。しかし、そのような要素を困難のひとつとして、正統本部は中国との交流と友好運動を進めていたのではないかと思います。

日本共産党配下の日中友好協会は、日本共産党が党派的に作る大衆組織という性格が大きく、当時の同党の方針では、党派の勢いの拡大の目的を優先し、そのために利用する道具という性格が大きかったと思います(現在はどうなっているかは知りません)。日中共産党の路線対立をそのまま協会に適用し、この組織は日中友好協会と自称していても、中国との窓口は完全に喪失しており、その状態が1967年から1998年まで継続しておりました。その間、日本と中国の交流が完全に途絶えていたわけではなく、自民党、社会党、公明党を含む政界でも財界でも演劇のような文化界でも、日共以外は中国との交流窓口を持っていました。したがって、日共派の協会が何を言おうとも、どれほどの独立した会員がいたかどうかも知りませんが、この団体の運動は日中友好という目的とは無関係な組織であったというしかありません。この点を無視して、単に組織としての継続性とか、ロゴマークがどうのこうのというような話で、どちらが主流派なのかというようなことを論じるのは、全く無意味だと思います。そのような内容を記事にも反映させなければ、この記事は誤った誤解を与えるものになるか、特定の党派の利害を優先させるものになるのではないでしょうか。--Sfwu会話2021年2月14日 (日) 15:53 (UTC)[返信]

私の日中友好協会での立場を最初に書いておきます。日中友好協会(「日本と中国」)正会員で日中友好協会(「日中友好新聞」)準会員(機関紙購読者)です。

Sfwuさんの言うように、日中友好協会(「日中友好新聞」、いわゆる日共系)に「日本共産党が党派的に作る大衆組織という性格」が強かったのは、事実だと思います。しかし、彼等も中国語教室や各種文化活動、中国留学生が大量に日本に来るようになってからは中国留学生との交流活動などは行っておりました。これは機関紙を読めばわかります。また学者研究者との関わりが日中友好協会(「日本と中国」)より強かったこともあり、中国情報解説媒体としては、「日中友好新聞」は「日本と中国」よりも有益です。これは21世紀の現在もそうです。

このような活動状況を踏まえると、日中友好協会(「日中友好新聞」、いわゆる日共系)が「日中友好という目的とは無関係な組織」とは言えないと思います。従って、現在の本文記述は訂正の必要はないと考えます。取り急ぎの書き込みです。--無名氏会話2021年2月14日 (日) 23:53 (UTC)[返信]

無名氏さん、お返事ありがとうございます。呼称の問題は、これまで、社団法人の日中を主流派と呼び、日共系の日中を非主流派と呼ぶという言い方が、通用していると思っていましたが、どこでそういう風に決まっていたのかは、わかりませんでした。ひょっとすると、Wikiの説明で、そういう風になっていただけなのかとも思います。この呼称には、価値評価が入っているので、見直そうという意見が出ているということは、いいと思います。単純に呼称を逆転させるという考え方は、価値評価を逆転させるだけですが、どちらが元祖か、本家かというような話です。しかし、それなりに面白いので、その議論を少し追加します。無駄話になるかもしれませんが、ご容赦ください。

まず、ロゴの話ですが、そのロゴというのはどの程度使用されていたのでしょうか。よくわかりません。当時の状況で、ロゴの取り合いになったという話は聞いたことがないのですが、だれがデザインして、会員の間でどの程度使用されていたのか、知りたいところです。

それから、事務所の話ですが、善隣学生会館内に事務所があったのは事実ですが、協会が設立された1950年からそこにあったのかというと、そうではないようです。現在、手元にそのあたりの資料ないのですが、この会館は「満州国」の留学生の寮として、「満州国」の予算で建設されたものです。日本の敗戦と「満州国」の消滅後、管理権や所有権があいまいになり、満州国からの留学生だった人たち、つまり中国人留学生らが自主管理していたということのようです。現在の日中友好会館のHPを見ると、1953年に財団法人善隣学生会館が管理運営を引き継いだとなっておりますが、その所有権をめぐる対立が1951年から1961年までつづき、1962年に和解が成立し、覚書が作成されたということです。この覚書に立ち会ったのが、分裂前の日中友好協会で、1965年に同協会が日中友好事業のまとめ役として、事務所を設置したという文献がありますので、善隣学生会館の事務所は1965年ごろからではないかと思います。資料が少ないので、記事にするには調査が必要です。しかし、もしそうであるとすると、1966年10月には日中友好協会(正統)本部が設立されましたので、善隣学生会館内の本部ができてから、1年ほどで、分裂に至っているし、直後には善隣学生会館事件が発生し、会館内での対峙状態になり、1970年に日中友好協会(日中友好新聞)が訴訟の結果、事務所を退去していますので、善隣学生会館に残ったという言い方には、無理があると思います。

また、機関誌の名前ですが、分裂前の機関誌が「日本と中国」で、日中友好新聞というのは分裂後に一方の協会が作ったものではないかと思います。現在の協会の活動について、どちらがいいとか悪いというような話ではありませんが、分裂時のしこりは深刻であり、そのあたりの文献をHPなどで見つけることは難しいようですね。とりとめのない感想のような投稿になりましたが、興味のある話題だったので、書かせてもらいました。--Sfwu会話2021年2月18日 (木) 07:16 (UTC)[返信]

「主流派」「反主流派」という言辞、かなりひっかかるものがありましたが、そもそも、政治団体や宗教団体はどちらも自分のことを「正統」だと思うものです。その意味で、それぞれの集団について「日中友好新聞」「日本と中国」という機関紙の名で呼ぶことに賛成します。Sfwuさんに感謝します。--~~--珍ちゃん会話2021年3月31日 (水) 15:58 (UTC)[返信]