慶長の役の損害の欄に朝鮮の人口推移として1637年時点で1063万人と脚注に記述がありますが、
これは英語版の李氏朝鮮の記事にある1648年時点での人口2,576,000人とあまりに大きくかけ離れてます。
1636年から1637年にかけて丙子の乱があり、その前後で人口が大幅に増減した可能性も考えましたが、短期間に800万も人口が減る、或いは戦後10年経ち国情が安定しても流民化したまま戸籍調査に上がらないとも考え辛く、また16世紀前半の李氏朝鮮の人口についても英語版記事では1519年時点で330万人、当記事の脚注には1522年時点で1061万人と大きな差があります。
英語版の李氏朝鮮の記事には、
「The exact population figures of Joseon-era Korea are disputed as government records of households are considered unreliable in this period.」
との記述があります。
韓国語版の李氏朝鮮の記事を読むと(機械翻訳したものですが)そもそも人口に関する記述が存在せず、韓国の史学会においても定説として李氏朝鮮の人口推移についての信頼のおけるデータや学説が存在しないということでしょうか?
そうであるならば記事中の人口に関する諸々の不確かな記述を残すことに重大な疑義が生じることになると考えますがどうでしょうか?--Ccc okamoto(会話) 2024年11月29日 (金) 11:29 (UTC)[返信]